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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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35.急ぐな



ミラは港の裏手で、紙切れを握りつぶしたまま立ち尽くしていた。


指の腹に、ざらりとした感触が残る。インクじゃない。黒点に使う煤の粉だ。拭っても落ちない――落ちないほうが、まずい。


『都の更新は止めた。狩りは止められない。――急ぐな』


たった一行で、息が詰まる。

止めたのは誰だ。止められないのは誰だ。急ぐな、は誰に向けた言葉だ。


ミラは紙を丸め、袖の内側の縫い目へ押し込んだ。表に出せば、紙になる。紙になった瞬間、誰かが読み、誰かが指を上げる。


港の方角で、怒鳴り声がまた膨らんだ。

配給の列が崩れ、誰かが誰かの肩を掴み、掴まれたほうが振りほどく。小さな揉め事が、周りの視線を呼ぶ。視線が集まると、理由が欲しくなる。


理由は、紙が配る。


ミラは走らない。走ると「逃げる人」に見える。

代わりに、荷車の影へ身体を寄せ、息だけを整えた。


――黒点は、合図。

――合図は、口にしない。

口にしないのに回るものは、決まって“同じ手”で回っている。


ミラは配給所の表に戻らず、裏の狭い路地へ入った。

魚の生臭さと油の匂いが濃い。港の裏は、綺麗な言葉が届きにくい。その代わり、ここには“手”が残る。紙より先に動く手が。


路地の先で、桶を抱えた男が立っていた。

配給係でも、役所の腕章でもない。袖が濡れていて、指先が黒い。炭に触る人間の黒さだ。


男はミラを見ない。

見ないまま、桶を置き、板壁に貼られた通達の端を爪でなぞった。剥がさない。ただ、端を押さえて風に負けないようにする――それだけの仕草。


その指が、一度だけ止まる。


紙の角。

黒点の位置。


ミラは、喉が鳴るのを堪えた。

あの仕草は、港では「見なかったことにする」合図だ。見なかったことにするのは、見たからだ。


男が小さく咳払いをした。

咳払いの音に混じって、桶の底が地面を擦る。


「……そこ、滑る」


低い声だった。

親切の言い方に似ている。でも、親切のために言っていない声だ。


ミラは足元を見るふりをして、距離を詰めた。

男は相変わらずミラを見ない。見ないまま、桶を持ち上げ、路地の奥へ歩き出す。


追うな、と言われている気がした。

けれど、追わなければ何も掴めない。


ミラは歩幅を合わせた。追うのではなく、同じ流れに混ざる。


「……都の“更新”、止まったって」


ミラが言うと、男は足を止めずに返した。


「止まったんじゃない。止められたのが一つ、届いてるのが一つ」


「届いてる?」


男は桶を持ったまま、顎で板壁を示した。

そこには二枚の紙が重なっている。上が配給の案内。下が通報の奨励。


「腹を動かす紙は止まる。狩りを動かす紙は止まらない。……そういう日がある」


言い方が、慣れていた。

慣れているのは――何度も見てきたからだ。


ミラの指が袖の縫い目に触れた。紙切れがそこにある。

急ぐな。急ぐなと言われたときほど、人は急ぎたくなる。


「じゃあ、空白は」


ミラが口にすると、男の肩がほんの少しだけ揺れた。

頷きではない。否定でもない。――“言うな”だ。


男は路地の突き当たりで立ち止まり、桶を地面に置いた。

桶の底に、黒い粉が付いている。粉の付き方が、点と同じだ。


男が初めて、ほんの一瞬だけミラを見た。

目は乾いていた。乾いているのに、目の奥だけが焦げている。


「……守りたいなら、紙の行先じゃない。紙の出所を見ろ」


ミラは息を飲む。


紙の出所。

掲示板じゃない。役所の机じゃない。配給所の名簿じゃない。


刷り場――印刷所。


港の風に乗って届く紙は、いつも同じ匂いがする。

湿った繊維に、油と煤が混じる匂い。あれは、刷り場の匂いだ。


「刷り場は、どこ」


ミラが問うと、男は唇を噛んだ。

噛んでから、桶の縁を指で二度叩いた。


乾いた音。

言葉の代わりの音。


「行くな」


男は言った。


「行けば、お前が紙になる」


ミラは言い返せない。

行けば紙になる。けれど、行かなければ空白は“消す”に変わる。


男は視線を逸らし、路地の外――港の広場の方角を見た。

そこでは、誰かが誰かを囲んでいる。囲み方が“狩り”のそれだ。拳が上がり、声が上がる。理由を求める声が、石を求める声に変わる直前の音。


「……あの人は?」


ミラは、路地の入口で一度だけ感じた視線を思い出していた。

暗がりの向こうで、こちらを見て、すぐ外した視線。

名を呼べない見方。


男は答えない。

答えない代わりに、桶の底から布切れを取り出し、ミラの足元へ落とした。


布切れは小さい。作業用の布だ。

端に、煤の黒点が二つ。位置が少しずれている。


――点が二種類ある。

――腹を動かす点と、狩りを回す点。


男が囁く。


「“二つある”って気づいたなら、片方だけ追え。両方追うと死ぬ」


ミラは布切れを拾わない。

拾えば持ち物になる。持ち物は証拠になる。


代わりに、布切れの点を目に焼きつける。

ずれた方。狩りを回す点。

それは、今も街を殺している。


ミラは男に言った。


「……セレナの時間は、空けられてる」


男の喉が動いた。

咳を飲み込む動き。


「空けたのが誰かは、まだ言えない」


「じゃあ、空けた理由は」


男は、ようやく言った。


「……戻すためだろ。戻せるうちに、戻すためだ」


ミラの胸が痛んだ。

戻せるうちに。――“戻せなくなる”日が来ると言われている。


港の広場で、悲鳴が上がった。

誰かが倒れた音。倒れたのが、被害者なのか、獲物なのか――今の街では、倒れた瞬間に決まる。


男が、ミラを見ずに言う。


「行け。今は、刷り場じゃない。……まず、狩りから目を逸らせ」


「どうやって」


男は短く言った。


「腹を満たせ。腹が空くと、紙が正義になる」


ミラは唇を噛んだ。


腹を満たす。

それは、配給所の列を守ることだ。

列が守られれば、狩りは少しだけ遅くなる。遅くなれば、空白は生き残る。


ミラは踵を返した。

走らない。目立たない。港の働き手の一人に見える速度で、列へ戻る。


袖の内側で、紙切れが熱い。

急ぐな。

命令じゃない。生きろ、という指示だ。


ミラは港の騒ぎの中心を見ないようにして、配給所の机へ向かった。


更新が止まっても、狩りは止まらない。

それでも――止められるものはある。


ミラは、列の最後尾に並ぶ女の肩へ手を添え、囁いた。


「前を見て。札を握って。……名前は言わないで」


女は怯えた目をしたまま、頷いた。


紙より先に、手を動かす。

それができる人間が、まだ港にはいる。


ミラは自分の手袋を見た。

煤の黒が、指先に薄く残っている。


――この黒は、狩りの黒だ。

なら、白くはしない。消さない。

消したら、なかったことになる。


ミラは息を吸い、列の中で静かに立った。


セレナの空白が、消しに変わらないように。

そしていつか、空白が“戻す”に変わるように。


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