31.名のない保護
昼を越えると、港の風が乾く。
乾いた風は、紙を運ぶ。
紙は乾いているほうが遠くへ飛ぶ。
遠くへ飛んだ紙ほど、“本当”に見える。
監督所の裏口はまだ騒がしい。
さっき濡れた紙の匂いが残っている。
濡れた匂いは、ここで起きた“事故”の匂いだ。
事故の匂いは、仕事の匂いになる。
仕事の匂いは、狩りの匂いを薄める。
——それでも、腕章は引かない。
腕章の男が一人、裏口の外に立ったまま動かない。
残りの一人は中に入った。
紙抱えも入った。
帳簿係も入った。
中は、紙の内側だ。
内側の会話は外へ漏れない。
漏れないから、外の人間は想像で補う。
想像は、だいたい悪いほうへ転ぶ。
ミラは倉庫の陰で、呼吸を浅くして待った。
待つのは嫌いだ。
だが待てない人間は、紙に食われる。
裏口が開いた。
紙抱えの男が出てきた。
顔色が悪い。汗が薄い。
薄い汗は、怖さの汗だ。
怒鳴られた汗じゃない。失敗した汗。
腕章の男が低く聞く。
「使えるものは」
紙抱えが首を横に振った。
「角が濡れて……印が滲みます」
「押し跡の確認ができません」
腕章の男が舌打ちした。
「……なら、別の締め方だ」
別の締め方。
ミラの指先が冷えた。
別の締め方は、だいたい荒い。
荒いほど、紙は強くなる。
強くなるほど、狩りは止まらない。
腕章が紙抱えに命じる。
「港の表名簿を先に回せ」
「“確認できない者”として処理しろ」
紙抱えが息を呑んだ。
「……確認できない、とは」
腕章が答える。
「保護が必要だ」
「保護の必要がある者は、名を預かる」
「名を預けた者は、表から外す」
名を預かる。
耳に優しい言い方だ。
優しい言い方は、だいたい返ってこない。
紙抱えが小さく頷き、紙束を抱え直した。
その瞬間、掃除の女が裏口から出てきた。
桶はない。手が空だ。
袖口が少しだけ重い。まだ封筒を隠している。
女は腕章の男に近づかず、壁際を通ろうとした。
腕章の男の目が動く。
さっきの袖の音を覚えている目だ。
「おい」
女が止まる。
腕章が言う。
「さっき濡らした紙はどこだ」
女の喉が鳴った。
声が震える一歩手前。
震えたら紙になる。女はそれを知っている。
女は言葉を選んだ。
「……処分しました」
「紙が汚れたので」
「燃やす箱へ」
腕章が苛立つ。
「勝手に処分するな」
「確認が必要だ」
女は言い返せない。
言い返せば狩りになる。
その代わり、女は袖の中の封筒を握った。
握ることで、声の代わりに耐える。
腕章が一歩近づく。
「燃やす箱へ案内しろ」
女が青ざめる。
燃やす箱へ行けば、封筒の話が出る。
封筒が出れば、女は終わる。
終われば、狩りが始まる。
——ここで止める必要がある。
ミラは倉庫の影から出た。
今度も一歩だけ。
一歩だけなら、まだ仕事に見える。
ミラは荷札の束を腕に抱えたまま、腕章へ声をかけた。
「すみません」
「燃やす箱、いま満杯です」
「荷の札も入っていて、火を入れると煙が強く出ます」
嘘じゃない。
荷札は本当に入っている。
煙も本当に強くなる。
腕章の男がミラを睨む。
「誰だ」
ミラは顔を上げない。
上げれば、目が合う。
目が合えば、覚えられる。
「港の札の整理です」
ミラは平らに言った。
「いま火を入れると、倉庫側が困ります」
困る、という言葉は便利だ。
責任にならない。
だが止められる。
腕章は苛立ちを飲み込み、掃除の女へ言った。
「……いい」
「後で行く」
「今は表名簿だ」
掃除の女の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
助かった肩だ。
助かったことを見せない肩。
腕章は紙抱えを促す。
「行け」
紙抱えが歩き出す。
ミラは、掃除の女とすれ違う距離で立った。
女は一瞬だけミラを見た。
見て、すぐ目を外す。
それでいい。
線にならない。
女の袖口から、ほんの少しだけ白いものが覗いた。
封筒の角ではない。
布だ。
白い布。
小さく畳まれた布。
濡れていないのに、皺がついている。
——遺留品。
ミラの胸の奥が冷えた。
女が低い声で、息だけで言った。
「……これ、落ちてました」
落ちていた、と言った。
拾った、と言わない。
拾ったと言えば関係になる。
落ちていたなら、ただの事故だ。
ミラは受け取らない。
受け取れば、持ち物になる。
持ち物は証拠になり、首輪になる。
ミラはただ、視線だけで白い布を見る。
手袋だ。
指先の形が残っている。
縫い目が丁寧だ。
紙を扱う人の手袋だ。
ミラは知っている。
セレナが、いつも手袋の縫い目を気にしていたことを。
掃除の女が、言葉を足さずに袖へ戻した。
見せただけ。
見せただけで十分だ。
——“戻らない”匂いがする。
腕章の男の声が、裏口の中から聞こえた。
「保護の手続きだ」
「名は、預かる」
「表から外せ」
名を預けた者は、表から消える。
消えた名は、戻らない。
戻らない名は、死んだ名になる。
ミラは荷札の束を抱え直し、息を吐いた。
セレナはまだ、断定されていない。
だが、断定できないまま消されていく。
それが一番、残酷だ。
ミラは決めた。
この手袋を、紙にさせない。
手袋が紙になった瞬間、セレナは死ぬ。
死んだと決まったら、狩りが始まる。
狩りが始まったら、もう誰も止められない。
ミラは倉庫の陰へ戻り、心臓の音を殺した。
次は——表名簿が回る前に、先に“線”を残す。
紙より遅い真実を、
紙より早い嘘に負けさせないために。




