3.行き場のない札
綱の外へ出た瞬間、空気が冷たくなった。
風が頬を切る。煙の匂いはまだ鼻に残っているのに、市場の甘い匂いはもう遠い。
代わりに、インクの匂いがする。
掲示板の前を通るたびに、濡れた紙の匂いが鼻に刺さる。
セレナは早足で歩いた。
走らない。走れば目立つ。
目立てば、紙に載る。
「いま戻っても、現場は閉じられる」
セレナが言った。
「控えが抜かれた以上、次は“誰が最後に触ったか”を勝手に作られる」
作られる。
真実を探す前に、結論が配られる。
俺は短く頷いた。言葉にしたくなかった。言葉にすれば、誰かに拾われる。
現場の外周を回ると、号外が増えていた。
少年が叫ぶ。大人が紙を奪う。奪った紙を、別の大人が指で叩く。
叩く音が、伝染していく。
セレナが一度だけ足を止め、掲示板を見上げた。
新しい札が貼られている。
紙は厚い。印は鮮やかすぎる。乾く前に貼ったように見える。
――流通監督官セレナ・フォルス
職務上の不正の疑いにより一時保護
その下に、あるはずの行がない。
どこへ。
誰の預かりで。
いつまで。
行き先が書いていない。
行き先がないのは、手違いじゃない。——追わせないためだ。
セレナの指が、札の端で止まった。
剥がさない。剥がした瞬間、剥がした側が“反抗”になる。
「……行き先を書けないのは」
セレナが言いかけて、口を閉じた。
俺が代わりに言う。
「守ってるんじゃない。隠してる」
セレナの目が一瞬だけ揺れた。
肯定でも否定でもない。
分かってしまった目だ。
そのとき、背後で靴音が揃った。
二人。いや、三人。
兵の硬い靴音に混じって、紙を持つ人間の軽い足音。
振り向く前に分かる。
さっき現場で命令書を掲げた、腕章の男だ。
「公爵殿」
男は俺を呼んだ。
呼ばれた瞬間、空気が変わった。
周りの民がこちらを見る。
“公爵”“過激派”“協力者”――紙が勝手に線を繋ぐ。
「ここで名を呼ぶな」
俺が低く言うと、男は薄く笑った。
「名を呼ばねば、誰が責任を取る」
責任。
便利な言葉だ。
責任の矛先が決まると、人は楽になる。
男は紙を一枚出した。
印の押された命令書だ。
「公爵殿を一時的に保護する」
「混乱を避けるためだ」
セレナの呼吸が一瞬止まる。
俺は紙を見ない。
見た瞬間、従うか拒むかの二択になる。
二択になれば、どちらに転んでも紙の餌になる。
「保護の理由は」
俺が聞くと、男は即座に答えた。
「民が興奮している」
「あなたがここにいれば、石が飛ぶ」
「石が飛べば、誰かが死ぬ」
正しい。
正しすぎる。
正しい言葉で、人を箱に入れる。
俺は目だけで周りを見た。
札を読んだ男が、こちらを指差す。
子どもがそれを真似る。
別の女が「協力者だ」と言う。
考えなくなると、紙が示す“真実”を疑わなくなる。
疑わなくなった目は、無罪の誰かを原因にして指を向ける。
セレナが小さく息を吸った。
「……この街は、いま“誰か”を必要としてる」
犯人役だ。
紙が欲しがる“誰か”。
そして、俺が公爵である以上、俺は目立つ。
目立つものは、矛先になる。
俺は決めた。
ここで抵抗すれば、セレナが巻き込まれる。
抵抗の紙が出る。
“公爵が暴れた”“協力者を庇った”――そう書かれれば、狩りは止まらない。
俺は腕章の男に言った。
「分かった。連れて行け」
セレナが俺の袖を掴む。
「……アーク」
名前で呼ばれた瞬間、危うさが増す。
俺は彼女を見ない。
見れば、決断が揺らぐ。
代わりに、声だけ落とす。
「セレナ。札を剥がすな」
「剥がした瞬間、お前が“犯人”になる」
セレナは唇を結び、頷いた。
腕章の男が合図を出す。
兵が左右に来る。
手首に縄がかかる。
縄は痛くない。痛くないように巻かれる。
痛くない拘束ほど、逃げ道がない。
人垣が割れる。
誰かが叫ぶ。
「捕まった!」
「やっぱりだ!」
その声に、別の声が重なる。
「正しい!」
「制圧だ!」
俺は歩いた。
視線を集める。
矛先を集める。
背中で、セレナの気配が遠ざかる。
振り返らない。
振り返れば、彼女の目が見える。
見えれば、俺はここで止まる。
止まれば、紙が勝つ。
――生きろ。
その言葉だけは、どうしても胸の中で「俺」だった。




