紙を強くしない止め方
腕章を止める方法はいくつもある。
腕章を殴れば、紙が出る。
腕章を脅せば、紙が出る。
腕章の顔に傷がつけば、もっと強い紙が出る。
——襲われた。
——制圧は正しい。
——協力者は残っている。
そう書ける材料を、こちらが渡してしまう。
ミラは、それをしない。
紙を強くしないまま止める。
狩りを起こさないまま遅らせる。
そのために必要なのは、“正義”じゃない。
手間だ。
ミラは港の裏手の水場へ向かった。
倉庫の影より明るい場所。
人がいる場所。
いるからこそ、何をしても“仕事”に見える場所。
水場では、荷運びの男たちが手を洗っていた。
縄の繊維と油が爪に残る。
爪の黒は、誰の黒か分からない。
ミラは桶の前に立ち、布を濡らした。
白い布ではない。灰色の布。
どこにでもある雑巾だ。
そして、桶の脇に置かれた木札を一枚、指で押さえる。
“港の衛生”と書かれた札。
監督所が置いた、ただの注意書き。
ミラはその札を少しだけずらした。
ほんの少し。
だが、ずれた札は目立つ。
目立てば、直したくなる。
直す人間が出る。
ミラは桶の布で、床の水を拭くふりをした。
待つための仕事。
待ち方が仕事なら、狩りは寄ってこない。
案の定、誰かが札を直しに来た。
あの掃除の女だ。
さっき排水溝へ捨て布を落とした女。
女は札を直し、ついでに桶の周りを見て眉をひそめた。
「……ここ、また水が溜まってる」
独り言。
独り言は紙になりにくい。
ミラはその声に、何気なく返す。
「溜まりますよね」
「桶の底、割れてません?」
女が驚いてミラを見る。
「え?」
「……割れてる、かも」
ミラは頷かない。
頷けば、女は“責任”を感じる。
責任は紙になる。
ミラはただ、桶の縁を指でなぞり、声を落とした。
「今日中に直さないと、誰か転びます」
「転んだら、“誰のせいだ”が回ります」
女の顔が青くなる。
現場の人間は、責任を怖がる。
責任は命取りになると知っているからだ。
「……どうしましょう」
女が言った。
ミラは言葉を選ぶ。
「あなたが困らないように」
「監督所に言う前に、一度だけ——帳簿係に伝えたほうがいい」
「今朝の搬入が終わるまで、桶を動かせないなら」
「注意書きを一枚、追加してもらうだけでいい」
女が頷く。
“追加の注意書き”は、仕事に見える。
仕事に見えるなら、狩りにならない。
女は小走りで裏口へ向かった。
小走りは危険だが、今は“転倒防止”という理由がある。
理由があれば紙になりにくい。
ミラはその背中を見送った。
桶が割れているかはどうでもいい。
割れていなくてもいい。
重要なのは——帳簿係が動くことだ。
帳簿係が動けば、腕章の動線が一つ遅れる。
遅れれば、今日の“印”がずれる。
ずれれば、裏名簿は締まらない。
締まらなければ、“最初からいない”が完成しない。
ミラは桶の水面を見た。
波が小さく揺れている。
そこへ足音が近づいた。
帳簿係の男だ。
さっき倉庫の窓口で報告していた男。
男は掃除の女に呼ばれ、桶を見て、眉を寄せた。
「……またか」
「今じゃない」
女が必死に言う。
「誰か転びます」
「紙になります」
「お願いです、注意書きだけでも——」
帳簿係が舌打ちし、周りを見た。
人がいる。見られている。
見られているなら、ここで怒鳴れない。
怒鳴れば、別の紙が生まれる。
帳簿係は低く言った。
「分かった」
「札を一枚、増やす」
「監督所の印を借りてくる」
——印。
ミラは息を止めた。
印を借りに行けば、帳簿係は監督所へ戻る。
戻れば、窓口の“裏名簿”の作業が一度止まる。
腕章が来ても、受け取る手が遅れる。
ミラは布で床を拭きながら、帳簿係の足音を耳で追う。
軽い革靴。
薄い底。
末席の靴音。
帳簿係が水場を離れ、裏口へ向かう。
掃除の女が頭を下げる。
ミラは顔を上げない。
顔を上げると、勝った顔になる。
勝った顔は目立つ。
ミラは桶の水を拭き、ただの仕事の顔で息を吐いた。
——止まった。
大きく止めない。
小さく遅らせる。
遅らせた分で、線を太くする。
ミラは懐の封筒を押さえ、次の手を決めた。
腕章が来るなら、来させればいい。
来た腕章に、何も渡さなければいい。
渡さなければ、紙は完成しない。
完成しない紙は、狩りを動かせない。
そのために必要なのは——
“証言”を、先に置くことだ。
紙が当たり前になる前に。




