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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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捨て布の黒



木蓋の下は、ぬるかった。


排水の湿気が指にまとわりつく。

黒い匂いが鼻の奥に残る。

煤と油と、濡れた布の匂いだ。


ミラは息を止め、腕を差し入れた。

手探りで、布の感触を探す。


あった。


濡れて重い布が、指に絡む。

引き上げると、水が滴った。

滴が石に落ちて、小さく跳ねる。


——音を立てるな。


ミラは布を抱え、木蓋をそっと戻した。

蓋が木枠に当たる瞬間だけ、乾いた音が出る。

その音が出ないように、最後は指で押さえて閉める。


背後で足音が止まった。


一つ。

軽い。

革靴じゃない。底が薄い靴。


監督所の人間だ。


ミラは振り向かない。

振り向けば、相手の「当たり」を確定させる。

確定は、紙になる。


ミラは布を外套の内側へ押し込み、何も持っていない手で袖口を直す。

ただの身だしなみ。

ただの仕事帰り。


足音が、動く。

近づく音じゃない。

通り過ぎる音だ。


監督所の小さな窓が開き、男の声がした。


「おい、そこ。排水溝に手を入れるな」


叱る声。

だが怒りの熱がない。

“仕事として言った”声だ。


ミラは立ち止まらず、低く返す。


「落とし物を探してました」


「何を落とした」


「布です」


嘘は短く。

短い嘘は紙になりにくい。


男が鼻で笑う。


「布ならそこにいくらでも落ちてる」


ミラは言葉を足さない。

足せば、説明が必要になる。

説明は紙になる。


足音は遠ざかった。


ミラは角を曲がってから、ようやく息を吐いた。

外套の内側で、濡れた布が重い。

重さが証拠だ。

軽い証拠は風に飛ぶ。


ミラは港の裏通りを抜け、小さな物置小屋へ入った。

鍵はかかっていない。

鍵がないのは、貧しさの証拠じゃない。

誰もここを“狙わない”という自信の証拠だ。


ミラは扉を閉め、腰の高さの台に布を置いた。


布は、ただ汚れている布に見える。

だが汚れ方が違う。


端に黒が集まっている。

黒は煤だ。

煤は刷り場の煤と同じ匂いがする。


ミラは懐から封筒を取り出した。

煤の布の切れ端。

同じ黒い点。


二つの黒が、同じだと分かる。

同じなら、同じ手が動いている。


ミラは濡れた布を指でつまみ、裏側を探った。


硬いものが触れた。


——紙。


濡れて張り付いた紙片だ。

布にくっついたまま、角だけが残っている。


ミラは爪を立てずに、ゆっくり剥がす。

破けば、読めるものも読めなくなる。


剥がれた紙片は、親指の腹ほどの大きさだった。

文字は半分だけ残っている。

だが、残り方が十分だ。


数字。

欄。

署名の途中。


そして——右下。


小さな窪み。


針で押した跡。

押し跡の周りに、黒い粉が薄く付いている。


ミラは紙片を見つめた。

目に焼き付ける。

手元で長く見ない。

長く見れば、気持ちが顔に出る。

顔に出れば、紙にされる。


ミラは紙片を封筒に入れ、糸で縛った。

糊は使わない。匂いが残る。

糸はほどけやすく。一つ結び。


ここまでで十分だ。


“捨て布”は、印と紙を拭いている。

拭いた布は、紙片を連れて落ちる。

落ちた紙片は、裏名簿の欠片だ。


裏名簿が動くなら、表の名簿も動く。


つまり——セレナの名は、“いない”にできる。


ミラは台から濡れ布を持ち上げ、端をねじった。

水が落ちる。

黒い水だ。

黒い水は、しばらく消えない。


ミラはその水を見ながら、短く決めた。


「……先に残す」


誰が、どこで、何を拭いたか。

それを紙にするのではない。

紙にされる前に、線にして残す。


ミラは外套の襟を上げ、物置小屋を出た。


港の風が冷たい。

冷たい風は、頭を冷やす。

頭が冷えれば、狩りに飲まれない。


狩りに飲まれないために、次は——


“書記官”ではない。

“布を捨てる手”の顔を見る。


ミラは歩き出した。

走らない。

走れば、追われる側に見える。


追われる側に見えた瞬間、正義は捕まえに来る。


夜明けは近い。

夜明けは、紙が一番強くなる時間だ。


だからその前に、手を掴む。

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