証言は紙より遅い
市場を出ると、風が冷たかった。
人いきれが薄くなると、音が戻る。
荷車の軋み、馬の蹄、遠くの鐘。
そして——紙が擦れる音。
掲示板の前を通るたび、誰かが紙を指で押さえている。
風でめくれないように、という顔で。
けれど本当は、めくれた瞬間に“別の文”が出てくるのが怖いのだ。
一度でも文が変われば、誰も何を信じていいか分からなくなる。
分からなくなったら、人は誰かを指さす。
ミラは中央通りを避け、裏道へ入った。
足を速めない。速めれば、追われて見える。
息を乱さない。乱れれば、罪が見える。
角を曲がると、壁に小さな札が貼られていた。
「協力者を見つけろ」
「通報せよ」
同じ文。
同じ字の癖。
同じ余白。
余白が同じなのが一番気味が悪い。
人が焦って書いた紙には、余白が揺れる。
揺れない紙は、最初から“揺らがない正義”として刷られている。
ミラは札を剥がさない。
剥がせば、そこだけ空白になる。
空白は目立つ。
目立てば、次の紙が貼られる。
もっと強い紙が。
ミラは通り過ぎた。
角の影で一度だけ立ち止まり、外套の内側を確かめる。
封筒はある。
煤のついた布もある。
窪みの話もある。
そして——市場で得た“形”も、頭の中に残っている。
二人。
腕章と、紙抱え。
腕章が前に出る。
紙抱えが後ろで書く。
「机の手」
「インクの匂いがする手」
あの整備士の言葉と噛み合う。
噛み合えば、線になる。
ミラは歩いた。
目立たないまま、目的地へ近づく。
目的地は屋敷——ではない。
屋敷へ行けば、線が太くなる。
太い線は狩りを呼ぶ。
だから、まずは“受け皿”へ行く。
薬草屋の裏口。
夜勤の救護者が出入りする場所。
紙の外にいる人間が、まだ息をしている場所。
扉の前で、ミラは一度だけ周りを見た。
誰もいない。
いないのが一番怖い時もあるが、今は違う。
この時間は、紙が薄い。
薄い時間は、人の手が動く。
ミラは指で戸口を押した。
昨日と同じ、ただの確認。
中から錠が外れる音。
扉が少し開く。
整備士が出てきた。
眠っていない目。
煤と油の匂い。
「……会えたか」
ミラは頷く。
「会えた」
「口が固い人だった」
整備士が短く言う。
「それで十分だ」
「固い口は、紙に割られにくい」
ミラは封筒を取り出した。
ここで開けない。開ければ、この場所が汚れる。
ただ、整備士にだけ見せる。
布の端の黒い点。
煤。
整備士が息を吐く。
「やっぱり同じだ」
ミラは言う。
「市場の男が言った」
「腕章と紙抱えが、控えを抜いた」
「腕章は前に出る」
「紙抱えは後ろで書く」
整備士の目が細くなる。
「……“後ろで書く”か」
ミラが続ける。
「そして——見られたのはセレナ」
「紙の端を触った瞬間、目が変わった」
「消す目になった」
整備士が歯を噛む。
怒りじゃない。悔しさに近い。
「触っただけで消される国かよ」
ミラは答える。
「触ったのは紙じゃない」
「“原本へ繋がる紙”だった」
「だから消される」
整備士は頷いた。
「原本が残れば、紙は負ける」
「原本が消えれば、紙が勝つ」
ミラは封筒を閉じ、懐へ戻した。
「次は、港の名簿」
「セレナを“最初からいない”にするなら、そこから始まる」
整備士が言う。
「港は監督所が固い」
「正面から行けば追い返される」
「追い返されたら、それが紙になる」
ミラは一拍置いて答えた。
「正面じゃない」
「中の手を探す」
整備士が眉を動かす。
「宰相府の文官か」
ミラは頷かずに言う。
「名前を呼ばない」
「でも、使えるなら使う」
整備士が苦く笑う。
「紙の内側の人間を、紙の外が使うのか」
「皮肉だな」
ミラは笑わない。
「皮肉でも動く」
「セレナの時間を守るために」
整備士が、少しだけ声を落とした。
「……生きてると思うか」
ミラは答えを急がない。
答えを急げば、祈りが紙になる。
代わりに言った。
「消されてないなら、まだ間に合う」
「“消された”は、紙の言葉」
「紙に先に言わせない」
整備士が頷いた。
「分かった」
「俺も現場の口を守る」
「余計なことは言わない」
ミラは背を向けた。
薬草屋の灯りが、背中を薄く照らす。
照らされているうちは、影に溶けられない。
だから歩く。
灯りの外へ。
ミラは路地へ出て、ひとつ角を曲がったところで足を止めた。
遠くで、誰かが紙を配っている声がする。
朝の号外だ。
ミラはその声を聞きながら、懐の封筒を押さえた。
証言は紙より遅い。
遅いから、消される。
——だから、線にして残す。
紙が当たり前になる前に。




