21.市場の目は冷たい
市場の目は冷たい。
市場は、朝の匂いで満ちている。
魚の匂い、布の匂い、油の匂い。
その匂いの底に、紙の匂いが混ざる。
紙の匂いは薄い。
薄いのに、鼻に残る。
残るから、気づく。
気づくから、誰かが見張る。
見張るから、目が冷たくなる。
アークは市場の入口で、布屋の軒下に立っていた。
白仮面は付けていない。
市場は“素”で入るべきだ。
仮面は、ここでは目立つ。
目立てば、相手が潜る。
潜れば、机の脚が拾えない。
「……増えたな」
リオが言う。
目線は屋台じゃない。
人の手だ。
手が札を握っている。
配給札。
配給札を握る手の中に、別の札が混ざっている。
角の色が違う。
赤点。
役所の前で見た札と同じだ。
「混ぜてる」
ミラが短く言う。
ミラは人の足元を見る。
靴の裏の泥。
泥の乾き方。
同じ道を踏んだ足がどれか、目で拾う。
「混ぜる場所、ここじゃない」
アークは言った。
「ここは渡す場所。混ぜるのは机の上だ」
布屋の奥で、帳面が開かれる音がした。
紙が擦れる音。
擦れる音は、規則の音だ。
規則の音に似せれば、人は疑わない。
市場の端で、男が声を上げた。
「通報した方がいいんじゃないか」
誰に言うでもない声。
でも、周りの耳が拾う声。
拾った耳が、次の声を作る。
「そうだよな。保護って書いてあるのに、行き先がない」
「隠してるんだ」
「隠してるなら、悪いことだ」
原因が作られる。
原因が作られると、狩りが始まる。
アークは一歩だけ前へ出た。
声を上げない。
代わりに、屋台の前の母親へ目を向ける。
母親は魚の切り身を見ている。
子どもは腹を押さえている。
「……配給、まだ?」
子どもが言った。
母親が答える。
「まだよ。今日は遅いみたい」
その会話は、生活の会話だ。
生活の会話が増えると、通報の会話は薄くなる。
薄くなるのを嫌がって、向こうは紙を増やす。
紙を増やして、人の口を通報へ寄せる。
「来た」
ミラが言う。
市場の裏の通りから、薄箱が運ばれてくる。
薄箱は役所の箱だ。
役所の箱が市場に来るなら、机が繋がっている。
運ぶのは若い男だ。
若いのに、歩き方が“仕事の歩き方”だ。
急がない。
でも、迷わない。
迷わない足は、道を知っている。
「追うな」
アークが言う前に、リオが頷いた。
「行き先だけ拾う」
足で拾うのが、リオの得意だ。
リオは人の流れに溶ける。
溶けて、消える。
ミラは市場の目を見た。
目が冷たい。
冷たい目は、狩りに向く。
「止める?」
ミラが問う。
「止めない」
アークは言った。
「止めたら潜る。潜ったら、セレナの線が消える」
ミラが頷く。
「じゃあ、冷たさを別へ向ける」
「そう」
アークは市場の掲示板を見た。
市場の掲示板は、役所前より低い。
低いから、子どもでも見える。
見えるから、言葉が早い。
掲示板に貼られているのは、配給の紙。
通報の紙は、まだ貼られていない。
「今は薄い」
アークが言う。
「薄いうちに、配給の紙で埋める」
「通報の紙を貼らせない」
ミラが言う。
「貼らせる。だけど、薄くする」
アークは言った。
「通報より先に、生活の紙を見せ続ける」
市場の端で、さっきの男がまた言った。
「通報って、誰に出すんだ」
その問いは、狩りの問いじゃない。
手続きの問いだ。
手続きの問いは、狩りを遅らせる。
遅らせるだけで十分だ。
遅れれば、机の脚が拾える。
リオが戻ってきた。
息を切らしていない。
切らしていないのに、目だけが光っている。
「行き先、札屋の奥」
「札屋の奥?」
ミラが聞く。
「札屋に帳面の机がある。役所の箱がそこへ入った」
繋がった。
役所→薄箱→市場→札屋→帳面→机。
机を折れば、線が折れる。
アークは市場の冷たい目を見た。
冷たい目は、まだ通報へ向いていない。
向く前に、配給へ向ける。
「行く」
アークが言う。
「札屋の机を見に」
ミラが頷く。
リオが笑う。
「机の脚、また一本拾うのか」
「拾う」
アークは言った。
「拾って、折る」
市場の目は冷たい。
冷たい目は、狩りを始められる。
だから守る。
紙が当たり前になる前に。
狩りが始まる前に。




