市場の目は冷たい
市場は、朝の匂いで満ちている。
焼けた小麦。濡れた木箱。薬草の乾いた匂い。
人の声はあるのに、目は眠い。
眠い目は、人の顔を見ない。
だからここは、会える。
荷の搬入が始まっていた。
荷車が石畳を叩き、縄が鳴り、木箱が擦れる。
箱の角が欠ける音は、どこか安心する。
人が生きている音だからだ。
ミラは市場の端で立ち止まり、帳面を開くふりをした。
ふり、だ。
紙を開く姿は目立つ。だが“仕事”に見える。
仕事に見えれば、正義は寄ってこない。
整備士は少し離れた場所にいた。
荷を持ち上げる手つきで、荷の間を歩いている。
ミラを見ない。
見ないことで、守っている。
ミラも見ない。
視線を合わせれば、そこに線が引かれる。
線は紙になる。
ミラは木箱の列をひとつずつ確認するふりをして進んだ。
箱には刻印がある。
番号。行き先。検品印。
いまはそれすら疑わしい。
「点検だって言ってるのに、まだ来ないのかよ」
荷運びの男が吐き捨てる。
「来ないほうがいいよ」
「来たら、誰かを指さして帰るだけだ」
別の男が笑う。
笑いの中に、疲れがある。
“誰かを指さす”。
原因を探すんじゃない。
責任を置く相手を探す。
置ければ、安心できるからだ。
ミラは木箱の影で足を止めた。
木箱の裏側。
通路の端。
人の流れが一度だけ細くなる場所。
そこで、声が落ちた。
「……荷の確認か」
男の声。
低い。擦れている。
咳をこらえるみたいな声だ。
ミラは顔を上げない。
帳面の上に視線を置いたまま、返す。
「そう見えますか」
男が小さく息を吐く。
「……見えるようにしてるんだろ」
整備士が言っていた“信号小屋に出入りしてた男”。
現場の人間。
口が固い人間。
男は、手に何も持っていない。
紙を持たないのは賢い。
紙を持てば、紙になる。
ミラは帳面の端を指で押さえ、紙が風でめくれないようにした。
それだけの動作で、目印になる。
男は、その動作を見ている。
だが目を合わせない。
「……俺に何を聞きたい」
ミラは言葉を削る。
「事故の直前」
「制御盤の“控え”が消えた」
男の指が僅かに止まる。
止まるだけで、答えになる。
ミラは続けた。
「現場に残るはずの一枚」
「運行の切り替えと、封印の確認が書かれた紙」
「それが抜かれてる」
男の喉が鳴った。
「……あんた、どこまで知ってる」
ミラは答えない。
知っていると言えば、根が掘られる。
根が掘られたら、紙が走る。
ミラは代わりに言った。
「あなたが“見た”ことだけでいい」
男は少しだけ、肩の力を抜いた。
「……見たよ」
「抜いたのは、現場の手じゃない」
「現場の手なら、あんなに綺麗に抜けない」
ミラは問う。
「誰の手」
男はすぐ答えない。
答えれば、誰かが死ぬ。
代わりに、言い換える。
「机の手だ」
「油の匂いじゃなく、インクの匂いがする手」
ミラは頷くふりをしない。
頷けば“確定”になる。
「何人いた」
男が短く答える。
「二人」
「腕章と、紙抱え」
「腕章は前に出る」
「紙抱えは、後ろで書く」
ミラは胸の奥で息を吐く。
形が見える。
形が見えれば、追える。
ミラは声を落とした。
「その二人が、あなたを見ましたか」
男は首を横に振る。
「俺は見られてない」
「見られたのは……女だ」
ミラの指が、帳面の端で止まる。
「セレナ?」
男は頷かない。
だが、否定しない。
「……あの人、紙の端を触ってた」
「触った瞬間、腕章の目が変わった」
ミラは短く言う。
「変わった?」
男が言い直す。
「“消す”目になった」
言葉が冷たい。
冷たいから、本当だ。
ミラは封筒を出さない。
だが、封筒の重さを思う。
煤の布。窪み。刷り場。
点が、線になる。
ミラは男に言った。
「あなたは、今日ここで私に会ってない」
「荷の確認をしていた」
「それだけ」
男が小さく笑う。
声は出さない。
「……助かる」
「俺、家族がいる」
ミラは言った。
「守る」
「だから、あなたも守れ」
「見たことを、“紙”にしない」
男の目が、ようやくこちらを見た。
一瞬だけ。
すぐ戻る。
それで十分だ。
整備士が遠くで荷を持ち上げるふりをしている。
ミラを見ないまま、ミラの背中を守っている。
ミラは帳面を閉じ、木箱の列から離れた。
市場の匂いが、少しだけ甘くなる。
果物屋が木箱を開けた匂いだ。
平和の匂いは、いつも遅れてくる。
だから守る。
紙が当たり前になる前に。




