髪が薄い時間
夜明け前の街は、正義が眠い。
眠いのに、掲示板だけは起きている。
紙は夜のうちに貼られ、朝には“当たり前”になる。
当たり前になった瞬間、人は考えなくなる。
考えなくなると、紙の内容を疑わなくなる。
そして、無罪の誰かを原因として指さす。
ミラは掲示板から離れた角で立ち止まった。
あの文官は、最初から私を待っていたわけじゃない。
“掲示板の裏へ回る人間”を、片っ端から見ていたのだ。
受け渡しの噂を嗅いで、証拠ごと拾おうとしている目だった。
——便利じゃない。
便利じゃないから、怖い。
ミラは外套の奥で、封筒を握る。
煤のついた布。窪みの話。短い文。
これを持っているだけで、狩りの対象になれる。
だから、行き先を間違えない。
ミラは中央通りへ出ず、裏道を選んだ。
水たまりを避けない。避ける動きが目立つからだ。
濡れた靴底の音は、誰のものでも同じに聞こえる。
角を曲がると、小さな明かりが見えた。
薬草屋の裏口だ。夜勤の救護者が出入りする。
ここは“紙の外”の人間が集まる場所だ。
ミラは扉を叩かない。
叩けば、中の人間に責任が生まれる。
責任は紙になる。
代わりに、戸口の隙間へ指を入れ、小さく押した。
合図ではない。ただの確認だ。
中から錠が外れる音がして、扉がわずかに開いた。
出てきたのは整備士の男だった。
頬に煤。爪の際に油。
眠っていない目。
「……ミラか」
男の声は低い。
大きくすると、紙に拾われる。
ミラは頷いて、すぐ言った。
「セレナの行き先、まだ出てない」
男は首を横に振る。
「名は回ってる。行き先は回ってない」
「回ってないのは……言えないからだ」
ミラは封筒を取り出さないまま、言う。
「紙が作られてる」
「札も、名簿も、貼り紙も」
男の目が細くなる。
「また“刷り”か」
ミラは短く答えた。
「煤が同じ」
「窪みがある。針で押したみたいな跡」
整備士が息を吐く。
「……あれを押せるのは、現場じゃない」
「役所の内側だ」
ミラは一歩だけ近づき、声を落とした。
「役所の内側から、私を見張ってる目もいる」
「今朝、文官が声をかけてきた」
整備士が眉を動かす。
驚きじゃない。想定の中にある顔だ。
「文官? 末席か」
「名は言わなかった」
「言わないほうがいい」
整備士は即答した。
「名が出た瞬間、その人間が紙になる」
ミラは頷いた。
この街の“速さ”は、紙だ。
ミラは封筒を懐で押さえたまま言った。
「私が動く」
「でも、私が表で動くと、セレナが死ぬ」
整備士が目を伏せる。
「……あんたは賢い」
「賢い人間から先に消される街だ」
ミラは笑わない。
「だから賢く動かない」
「現場の手を守る」
「証言を守る」
整備士が短く頷いた。
「何が欲しい」
ミラは迷わず言う。
「事故の日、制御盤の近くにいた“現場の人”の名」
「ただし、私が聞いたと誰にも分からない形で」
整備士は少しだけ黙った。
黙るのは、守るものがある証拠だ。
「……一人いる」
「信号小屋に出入りしてた男だ」
「口が固い。だが家族がいる」
「家族がいる人間は、紙に弱い」
ミラは言った。
「家族ごと守る」
整備士の目が少し揺れた。
信じたい揺れだ。
ミラは続ける。
「その人に会う場所を決めて」
「人目のない場所じゃない。人目が多すぎない場所」
「“隠れて会う”は狩りの餌になる」
整備士が答える。
「朝の市場」
「まだ眠い時間に、荷の搬入が始まる」
「人は多いが、誰も顔を見ない」
ミラは頷いた。
「そこで」
整備士が付け足す。
「……もう一つ」
「今朝、港の監督所で名簿が更新された」
「セレナの名前は——“いない”扱いにされてる可能性がある」
ミラの指が、封筒の縁を強く押した。
「……消された?」
整備士は首を横に振る。
「消された、とは書かない」
「“最初からいない”にする」
「そのほうが、後から否定できない」
ミラは息を吐いた。
怒りの息じゃない。冷える息だ。
「なら、先に残す」
「最初からいた、という線を」
ミラは封筒を取り出した。
整備士の前で開かない。だが見せる。
見せるだけなら、紙になりにくい。
煤のついた布が、薄暗い灯りで黒く光る。
整備士が小さく言った。
「……同じだ」
「同じ」
ミラは布を戻し、封筒を閉じた。
「市場で会ったら、私は“荷の確認”をしてるふりをする」
「あなたは私を見ない」
「合図もいらない」
整備士が頷く。
「分かった」
ミラは背を向けた。
薬草屋の裏口の灯りが、背中を薄く照らす。
ここから先は、灯りを背負わないほうがいい。
ミラは歩き出した。
夜明け前の街は、紙が薄い。
薄い時間ほど、動ける。
セレナの時間を守るために。
紙が“当たり前”になる前に。




