夜明け前の受け渡し
夜明け前の街は、色が薄い。
灯りは残っているのに、誰もその灯りを信じていない時間だ。
夜のうちに正義を握った人間が、眠気で手を緩める。
紙だけが、まだ強がっている。
ミラは外套の襟を上げ、中央通りを避けた。
掲示板の前には必ず誰かがいる。
読んでいるふりをして、目で人を測っている。
紙を信じているのではない。
紙を盾にして、自分の怒りを正当化している。
ミラは息を殺して歩いた。
早足にしない。目立つからだ。
遅すぎない。追われて見えるからだ。
角を二つ曲がったところで、掲示板が見えた。
灯りの切れ目。
木枠の裏が暗くなる場所。
——約束の場所。
ミラは掲示板の正面へは行かない。
掲示板の前に立てば、誰かが「読んでいる」と判断する。
読んでいる人間は、意見を持っているとみなされる。
意見を持った瞬間、味方と敵に分けられる。
ミラは横へ回り、木枠の裏へ手を伸ばした。
指先に、紙の端が触れた。
封筒だ。
白い。だが役所の紙みたいに綺麗すぎない。
糊の匂いがしない。糸で軽く縛られている。
結び目は、ひとつ。
急いでほどける結び目。
ミラは受け取って、すぐ懐へ入れた。
その場では開けない。
開けた瞬間、目が落ちる。
目が落ちれば、背中が無防備になる。
背中が無防備になるのは、狩りの時間だ。
ミラは何もない顔で立ち去ろうとした。
そのとき、足音が止まった。
一つ。
革靴。
濡れた石畳を踏むのに、迷いがない。
ミラは振り向かない。
振り向けば、相手の「当たり」を確定させてしまう。
代わりに、歩き続けた。
足音も動く。
距離を詰める音じゃない。
並ぶ音だ。
声が、横から落ちた。
「……ミラだな」
男の声。
若い。だが怯えがない。
怯えがない若さは、誰かに守られている。
ミラは目だけ動かした。
腕章ではない。
兵でもない。
だが役所の匂いがする。紙の匂いがする。
「誰」
ミラの声は低い。
怒りじゃない。仕事の声だ。
男は小さく名乗った。
「文官だ。……宰相府の末席」
「名前は言わないほうがいい」
末席――つまり、紙が都合よく汚れ役にできる位置だ。
それだけで、信用しない理由になる。
だが、嘘の匂いも薄い。
男はミラの懐を見ない。
懐を見ないのは、見れば自分が罪になるからだ。
「探してるだろ。セレナ監督官の行き先」
ミラの喉が小さく鳴った。
男は続けた。
「名簿を見た」
「救護の名簿。港の名簿。……それと、保護の札」
ミラは足を止めた。
止めた瞬間に、心臓が強く鳴る。
男は距離を詰めない。
詰めないまま言う。
「行き先が書かれていない札がある」
「“保護”とだけ書いて、預かり先がない」
ミラは短く言った。
「それが、何」
男は息を吸い、言葉を選ぶ。
「行き先が書けないのは、まだ“処理”できてないからだ」
「処理できたら、札は消える。札そのものが最初から無かったことになる」
「消えてないのは……生かしてあるからだ」
ミラの指先が冷えた。
希望は、いつも罠に似ている。
だが罠なら、ここまで回りくどく言わない。
男は目を伏せた。
「俺は、正しいことがしたいわけじゃない」
「ただ……このやり方が嫌なんだ」
「紙で人を狩るのが、当たり前になってる」
ミラは一歩だけ横へ動き、灯りの切れ目へ男を入れた。
顔が半分、暗くなる位置だ。
ここなら、誰かに見られても“立ち話”に見える。
ミラは言った。
「その札を、見たのはいつ」
「昨日の夜。宰相府の内側で」
「今朝には上書きされると思った。けど……残ってた」
ミラは頷かない。
頷けば、情報が確定する。
確定は、紙になる。
男は続けた。
「札の印……普通の印じゃない」
「窪みがあった。針で押したみたいな」
ミラの息が止まる。
懐の封筒が重くなる。
中身を見ていないのに、繋がる。
ミラは男の目を見る。
「……その窪みを押す“道具”を見たことは」
男は首を横に振った。
だが、すぐ付け足す。
「見てない。でも」
「押したあとに黒い点が残るときがある」
「役所の机の角。煤がついてるみたいな……」
言いかけて、男は口を閉じた。
自分でも比喩が嫌になった顔だ。
ミラが言い直す。
「黒い粉が、指につく」
男は頷いた。
「そう。黒い粉」
「紙の端に、ほんの少し」
ミラはゆっくり息を吐いた。
比喩じゃない。
これは触れる情報だ。
ミラは懐の封筒を取り出さない。
取り出せば、ここで渡すことになる。
渡したら、この男が狩られる。
ミラは代わりに言った。
「あなたは、誰にも言うな」
「言った瞬間、それは“告発”になる」
「告発は、狩りを呼ぶ」
男が唇を噛む。
「……じゃあ、どうする」
ミラは一拍置いて答えた。
「線を残す」
男が首を傾げる。
ミラは言葉を削る。
「名簿から消えない線」
「札が消されても、別の場所に残る線」
「紙より遅くても、消えない線」
男は理解した顔をしない。
理解しないほうがいい。
理解した瞬間、責任が生まれる。
ミラは男に背を向け、歩き出した。
男が小さく呼ぶ。
「……ミラ」
ミラは振り返らずに言った。
「名前を呼ぶな」
「呼ばれた名は、紙になる」
男の返事はない。
返事がないのは、守ったからだ。
ミラは角を曲がった。
曲がった瞬間、懐から封筒を取り出す。
歩きながら、糸の結び目だけほどく。
視線は落とさない。指だけでほどく。
封筒の中から、折り畳まれた布が出た。
布の端に、黒い点。
煤だ。
そして、小さな紙片。
「印の窪みがあった」
「貼り紙の紙に、針で押した跡がある」
「煤が同じだ」
短い文。
短いから、紙になりにくい。
短いから、頭に残る。
ミラは布を握りしめた。
——繋がった。
刷り場と、札と、名簿は、別々じゃない。
同じ“手”が押している。
ミラは歩いた。
夜明け前の薄い街を、薄いまま抜ける。
まだ、セレナは消えていない。
消えていないなら、間に合う。
間に合わせるには、紙より先に動く人間が必要だ。
ミラは、走らなかった。
走れば、狩りが追いつく。
代わりに、歩幅を一つだけ大きくした。
——紙が薄い時間のうちに。




