16.白仮面
屋敷の朝は、静かだ。
静かすぎると、逆に音が浮く。紙を置く音。蝋を切る音。靴底が石を踏む音。どれも、当主の部屋へ届くようにできている。
アークは机の上の書類を閉じた。
封蝋は割っていない。割れば、それは“読んだ”になる。読んだものは、背負うものになる。背負えば、次に何をするかが決まる――宰相府はそうやって人を動かす。
扉の外で、執事が一度だけ咳払いをした。
ノックじゃない。咳払いのほうが古い合図だ。紙より前から屋敷に残っている。
「失礼いたします」
執事が入ってきて、机の端へ一枚の紙を置いた。
手袋はしていない。紙で手を汚さない家の者の手だ。だが執事の指先には、ほんの少しだけ黒い筋がある。外の仕事に触れた黒さだ。
「宰相府から、照会が届いております」
「照会」
アークは紙を見た。宰相府の印。文面は丁寧で、丁寧だから強い。
《白い仮面の目撃情報について》
《当該人物が港湾事故に関与した可能性》
《関係者の身元照会》
白い仮面。
アークの眉が動く前に、執事が言った。
「ご存じの通り、あの名は……紙の中だけで育つ名でございます」
「目撃情報という形を取っていますが……“見た”のではなく、“見たことにする紙”が先に出回っております」
見た者はいない。だが、紙は“見たこと”にして走る。
紙が走れば、人の口が追いかける。口が追いかければ、狩りが始まる。
アークは紙の角を指で押さえ、ゆっくりと机へ戻した。
「港の件を、白仮面に結びつけたか」
「はい。すでに街では、噂が先に走っております」
執事は淡々と報告した。淡々としているのに、言葉の選び方が慎重だ。屋敷の中で慎重な言葉が増えるとき、外で誰かが消されている。
「噂の出所は」
「掲示板、号外、そして……刷り場です」
刷り場。
紙が走る前の場所。
アークは顔を上げた。
「刷り場に、宰相府の目が付いたのか」
執事は一拍置き、答えた。
「目が付く前に、目が付くように仕立てられております。……“白い仮面”という名で」
アークは息を吐いた。
名が道具になる。
道具になった名は、誰かを切る。
「港の現場は」
「“証拠の筋”はまだ細うございます。ですが、犯人探しの熱だけは太くなっております」
執事の言い方は、現場の人間の言い方だ。紙の言い方ではない。執事は紙を読むだけの人間じゃない。紙が届く前の“手”を知っている。
アークは机の引き出しに手を掛け――止めた。
止めたまま、引き出しの上に掌を置く。
何かを確かめるような置き方。
執事はそれを見ても、視線を動かさない。
見たことにしない。屋敷の中で生きる作法だ。
「宰相府は、私に“照会”と言っている」
アークが言うと、執事が静かに頷いた。
「はい。返せば、返したという紙が残ります」
返さなければ、無視したという紙が残る。
どちらでも、紙が残る。
アークは指先で照会の紙を軽く叩いた。
乾いた音が一つ。
「……返さない」
執事の眉が僅かに動いた。
「当主として、よろしいので」
「当主だからだ」
アークは淡々と言った。
「“白い仮面”に答えた瞬間、私はその名を認める。認めれば、宰相府は次からその名で人を狩れる」
執事が小さく息を吸った。
「では、どうされます」
アークは窓の外を見た。
庭の端に、低い塀がある。
塀の外は街だ。街には掲示板があり、号外があり、刷り場がある。
そして、いまは狩りがある。
「噂は止まらない」
アークは言った。
「だから、噂の外側へ出る」
執事が問う。
「外側へ」
「紙の外だ」
アークは椅子から立ち上がった。
立ち上がる動きは静かだ。静かな動きは、決めた動きだ。
執事が一歩だけ下がり、道を開ける。
「……奥で、待っております」
「待つな。屋敷を守れ」
「承知いたしました」
執事は頭を下げた。頭を下げ方に、いつもより重さがある。心配の重さだ。
アークは扉へ向かい、取っ手に手を掛け――止めた。
「ひとつだけ」
執事が顔を上げる。
アークは言った。
「“白い仮面”という名で、誰かを切らせるな。……特に、現場の手を」
執事が短く頷いた。
「守ります」
アークは扉を開けた。
廊下の空気が冷たい。屋敷の静けさが、外の騒ぎを余計に際立たせる。
紙が走る国では、名が走る。
名が走れば、狩りが始まる。
アークは表情を変えないまま、歩き出した。
噂の中の白仮面ではない。
当主としてのアークのまま、紙の外へ出るために。




