149.前控帳の行
白布の向こうの空気がまだ張っているうちに、外の戸が二度鳴った。
軽くはない。
遠慮もしない。
役目のある者が、呼ばれて来た音だった。
女官が振り返る。
「御前」
「宰相が」
「入れなさい」
間を置かない返答だった。
白い廊下の向こうで戸が開く。
足音が近づく。
磨かれた靴だ。
だが急いではいない。
急げば足りないと知っている歩き方だった。
宰相は一人で入ってきた。
外套は黒い。
飾りは少ない。
胸元にだけ、細い銀の留め具がある。
それだけで十分だった。
この部屋では、誰も名乗りを要らない。
宰相の目は、最初に女王を見なかった。
白い机を見た。
左に死亡確認控。
中央に《光》の束。
右に当主直答。
その並びを見たところで、足が止まる。
「……これは」
「声で読まなくていい」
白布の向こうから女王が言った。
「指で読みなさい」
「どこが繋がって、どこが不自然か」
「その机の前で」
宰相は一礼した。
だが言い訳はしない。
白い机へ近づく。
まず左の死亡確認控を開く。
遺留欄。
保管先。
その下。
欄外の小さな追記へ指が止まる。
《身元照合後、別紙参照》
次に中央の《光》の束を開く。
受理印。
仮置番号。
引継先。
立会要否。
その一番下。
《生体欄は別照》
宰相の指が、そこで止まったまま動かない。
アークは黙って見ていた。
ここで先に答えを言えば、ただの糾弾になる。
今、必要なのは本人の口だ。
宰相はようやく息を吐く。
「死者の紙と、生きて渡す紙です」
女王はすぐ返す。
「それがなぜ同じ夜に走るのですか」
「本来は走りません」
「では、なぜ走った」
宰相は答えない。
答えないまま、右の当主直答へ目を移す。
《公爵家当主直答》
家印はない。
本人名で差し込まれた返答紙だ。
宰相の目が、そこで初めてアークへ向く。
「お前が止めたのか」
「横から差しただけだ」
アークは返す。
「止まったのは、御前留が入ったからだ」
女王が言う。
「今は感想ではなく、行を読みなさい」
女官が白い机の横へ、もう一冊持ってくる。
細長い帳面だった。
表紙は灰。
角が擦れている。
留め紐には、短い木札が付いていた。
《前控帳》
宰相の顔色が少しだけ変わる。
「短鍵の帳です」
女官が言った。
「今夜分だけ抜いてあります」
女王の声が落ちる。
「開いて」
宰相が帳を開く。
紙は薄い。
だが線は細かい。
時刻、受理札、持込元、引継先、立会の有無。
前控で動いた紙が、行で並んでいる。
宰相の指が上から下へ滑る。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
そして、中ほどで止まった。
女王が聞く。
「どこです」
宰相は帳を見たまま答えた。
「この行です」
アークも横から見る。
時刻は、死亡確認控の確認時刻とほとんど変わらない。
受理札の欄には、細くこうある。
《光》仮受
持込元。
《北棟経由》
そこまでは、さっきまでと同じだ。
だが、その右。
引継先の欄で、アークの目が止まる。
《白読室前仮留》
前控より先だ。
まだ鈴を鳴らす前に、
もう行先だけが帳に入っている。
「先に書いてあるな」
アークが言う。
宰相は頷いた。
「普通はありえない」
「前控で鈴が鳴ってから、引継先が立つ」
「先に立つのは、御前側が事前に待機を許したときだけです」
女王の声が冷たくなる。
「私は許していません」
女官が一歩だけ下がる。
部屋の温度が、そこで少し下がった気がした。
宰相はもう一度帳を見る。
今度は、その行の一つ上へ。
そこには別の記載があった。
受理札欄は空白。
持込元も空白。
だが、引継先だけが先にある。
《南三 隔離控》
アークが眉を動かす。
「南三」
その言葉は、街では使わない。
王城の内側でしか通じない縮め方だ。
女王が問う。
「どこです」
宰相はすぐには答えなかった。
帳から目を離さず、確かめるように二度読む。
それから言った。
「南第三隔離房の前控です」
白い部屋が静かになる。
王城外じゃない。
街でもない。
護送でもない。
城の内側だ。
アークの喉が一度だけ鳴る。
「死者にした紙の夜に、城の中へ入れたのか」
宰相は苦く答える。
「帳の上では、そう読めます」
「帳の上では、じゃない」
女王の声がすぐ刺さる。
「あなたの役所の帳です」
「読める形で通ったなら、通したのです」
宰相は黙った。
言い返さない。
言い返せないのではない。
言い返せば、もっと軽くなると分かっている黙り方だった。
女官が帳の下へ、もう一枚小さな紙を差し出した。
前控で使う控え札の写しらしい。
薄い灰紙だ。
裏に指の跡が残っている。
宰相がそれを見る。
「……この字は前控書記じゃない」
「誰の字です」
女王が聞く。
「南三側の受取手です」
「隔離房の前で札を受ける者がいます」
「札を受けたら、部屋番号ではなく、まず前控名で返す」
アークは帳と灰紙を交互に見た。
《白読室前仮留》
《南三 隔離控》
別々の行だ。
だが、時刻は近い。
しかも、どちらにも名がない。
人の名前を消して、部屋の前だけを残している。
「誰が受けた」
アークが聞く。
宰相は灰紙の端を見る。
爪で少し押された跡がある。
そこに、小さな丸印が二つ。
「南三の夜番は、二人です」
「札は二つ印で返る」
女官がすぐ言う。
「今夜の夜番名簿を取ります」
「待ちなさい」
女王が止めた。
部屋がまた静かになる。
女王の声は低くなかった。
だが、そこから先は命令の声だった。
「名簿はあとです」
「先に開ける」
宰相が顔を上げる。
「御前」
「その隔離房は今も使えますか」
一拍。
「使えます」
宰相が答えた。
「ただし、長鍵が要ります」
アークが机の横を見る。
さっき前控で聞いた二本の鍵。
短鍵は前控の束。
長鍵は庫そのもの。
だが今、開けるのは庫じゃない。
南三の隔離房だ。
女王が言う。
「長鍵を持ってきなさい」
女官が頭を下げる。
「はい」
「宰相、あなたも行くのです」
「承知しました」
「アーク」
白布の向こうから名を呼ばれる。
「あなたも来なさい」
「ただし、先に扉へ触れるのはあなたではありません」
アークは白い机を見る。
死亡確認控。
《光》の束。
当主直答。
前控帳。
灰紙。
さっきまで紙だった。
だが、もう違う。
今は扉だ。
女官が帳を閉じる。
細い音がした。
その音のあとで、白布の向こうから最後の一言が落ちた。
「夜が明ける前に、南三を開けます」




