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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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救護の名簿



救護所の空気は、薬草と汗で重い。


血の匂いは薄い。

薄いようにしてある。

布を当て、顔を背け、誰もが「事故だ」と言える形に整える。


整えた瞬間、紙が強くなる。


俺は外套の襟を上げ、救護所の入口を見た。


入口には縄が張られている。

縄の前に机が一つ。

机の上に名簿が一冊。

その横で、役所の印が押されていく。


——救護区画は、宰相府が押さえている。


港湾代理が言っていた通りだ。


だからこそ、ここに“規則より現場を優先する”人間がいないと通らない。


「閣下」


執事が俺の横で声を落とした。


「責任者は、あちらです」


指差しはしない。

視線だけで示す。


縄の内側、机の向こうに女がいた。


髪は一つに結って、袖は肘までまくり上げている。

貴族の女じゃない。

役所の文官でもない。


救護の責任者——港の医療班長、セラ。


俺は彼女の前へ進んだ。


「セラ」


名を呼ぶと、彼女の手が止まる。

止まるのは驚きじゃない。

“今、紙が増える”と判断した顔だ。


「……公爵閣下」


膝をつこうとするのを、俺は手で止めた。


「いい。頭を下げる時間があるなら、手を動かせ」


セラは一拍だけ俺を見て、すぐに頷いた。

こういう人間は、上の言葉より現場の速度で動く。


「何を」


俺は短く言う。


「一人、救護の名簿に入れてほしい」


セラの目が僅かに細くなる。


「“誰”ですか」


聞き返し方が正しい。

名が出れば、それが紙になる。

紙になれば、狩りが寄ってくる。


俺は名を言わない。


代わりに、事実だけ言う。


「整備の男だ」

「事故の直前の控えが抜かれてると言った」

「今、掲示の前で囁かれている」


セラの指先が、名簿の端を押さえたまま止まる。

止まったのは理解したからだ。


「……吊される」


「吊される前に、救護へ回す」


セラは俺を見て、声をさらに落とした。


「規則では無理です」

「救護は宰相府の管轄です。今朝から、入口の名簿も“向こう”の紙です」


“向こうの紙”。


俺は頷かない。

頷けば確定する。


代わりに言う。


「だから、あんたの判断でやれ」


セラが一瞬だけ唇を噛んだ。


やれば危ない。

だがやらなければ、人が死ぬ。

現場の人間は、その二択を嫌っている。


俺は畳みかけない。


その代わり、救護所の中を見せた。


担架。

濡れた布。

水桶。

震える手。


「ここは命の場所だ」

「紙の場所じゃない」


セラの眉間が、ほんの少しだけ緩む。

怒りだ。紙への。


「……分かりました」


短い返事。


「ただし、名は書けません」

「書いた瞬間、ここが狩りの入口になります」


俺は言う。


「名はいらない」

「“救護要員”として入れろ」

「事故対応の臨時手当の名簿に入る形で」


セラの目が動く。


それなら、紙の種類が変わる。

犯人探しの紙じゃない。

命を動かす紙だ。


セラは机の引き出しから、小さな札を出した。


木札。

薄い。

でも、縄の内側を歩ける札。


札の裏に、鉛筆で記号を一つ書く。


「この印で入れます」

「“救護”の札です。役所の札じゃない」


紙より弱い札。

だからこそ、現場に効く。


セラは札を俺に渡さない。

渡したら、公爵家が“手を出した”紙になる。


代わりに、執事へ視線を送った。


執事が一歩前へ出る。

自然な距離。

自然な動き。

屋敷の人間は、こういう動きを習っている。


「……拝受します」


執事が札を受け取り、袖に隠した。


セラは名簿に何も書かず、次の患者の腕に布を巻いた。

名簿は動かない。

けれど、現場は動く。


その動きの中で、俺は扉のほうへ視線をやった。


そこに、リオがいた。


救護所には似合わない立ち方で、縄の外側に立っている。

汚れない靴。

汚れない指先。

なのに、ここにいる。


見張りか。

協力か。

まだ決めない。


俺は視線を戻し、セラにだけ聞こえる声で言った。


「誰にも言うな」

「“救護の名簿”だけで守れ」


セラは頷いた。


「はい。……紙が来たら、紙では返しません」

「“患者”で返します」


その言い方に、現場の強さがある。


---


救護所を出ると、外の空気が急に冷たかった。


縄の外には、人がいる。

掲示を読んだ目。

誰かを探す目。


その中に、さっき話に出た整備士の男が混じっているかもしれない。


俺は足を止めずに、執事へ言った。


「男を見つけろ」

「呼ぶな。目で拾って、救護へ流せ」


執事が頷く。


「はい」


そのとき、背後で紙が擦れる音がした。


振り向かない。

振り向いたら、そこが“場”になる。


リオの声が、俺の背に落ちた。


「今夜までに動かします」


“動かす”。


何を動かすのか、分かっている言い方だ。

救護の札を持った男を、掲示の前から外す。

吊し上げの紙を、遅らせる。


俺は立ち止まらずに言った。


「今夜じゃ遅い」

「指が上がる前だ」


リオが、同じ速さで続ける。


「だから、今ここです」


返しが上手い。

上手いのが怖い。


俺は言う。


「救護の責任者を巻き込んだ」

「失敗したら、あいつが消える」


リオは即答しない。


即答しないのは、誠実さじゃない。

計算の時間だ。


「……消させません」

「消えれば、救護所が止まる。救護所が止まれば、港が止まる」


紙じゃなく荷の話で返してくる。

嫌いじゃない。

だが信用もしない。


俺は答えない。


答えた瞬間、俺の言葉が紙になる。


---


救護所の裏手で、執事が小さく言った。


「閣下。……いました」


視線の先。

荷車の陰に、男がいる。


整備士だ。

袖が油で黒い。

目が乾いている。

夜を越えた目だ。


男は周囲を見て、喉を鳴らした。

掲示の前で名前が囁かれるとき、人はこういう喉をする。


執事が近づく。


声は出さない。

手だけ動かす。


セラから預かった木札を、男の掌に落とす。


男が札を見る。

記号を見る。

意味を理解するのに、時間はかからない。


救護の札。

縄の内側へ入れる札。


男は一度だけ、俺のほうを見た。


礼も、言葉もない。

それでいい。


言葉は紙になる。


男は札を握り、救護所へ向かって歩き出した。

走らない。

走れば目立つ。

目立てば指が上がる。


背中が縄の内側へ消えていく。


その瞬間、俺の胸の奥の冷えが、ほんの少しだけ緩んだ。


だが同時に、別の冷えが来る。


——救護へ入れた。

——だから次は、紙が“救護”を狙う。


狩りは、獲物を変える。


俺はリオへ視線を向けた。


リオは俺を見ない。

見ないまま、救護所の入口の名簿を見ている。


名簿を見る目だ。

人を見る目じゃない。


俺は言った。


「次は救護所だ」

「紙が来る」


リオの声が低く返る。


「来ます。……だから、入口の紙を“遅らせる”」


遅らせる。

それは俺の言葉でもある。


俺は歩き出した。


紙より先に。

指が上がる前に。


救護の縄の内側で、ひとつだけ命が延びた。


それだけで、今日は十分じゃない。

十分じゃないから——次の手が要る。


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