129.まだ白い欄
赤い判は、押されたあとで下へ落ちてくる。
ミラとリオは右階段の口まで来ていた。
石段は狭い。壁には古い紙の糊が残り、足もとには赤い泥が乾いてこびりついている。
上へ回す紙は、ここを通る。
靴磨きの子は階段の影にしゃがみ、顔を上げずに親指だけで上を指した。
その先で、女の声が落ちてくる。
「道を空けて! 受領片が先!」
受領片。
ミラの足が止まる。
次の瞬間、灰の腕章をつけた女が細い盆を抱えて石段を降りてきた。
盆の上には細長い袋が二つ。片方は白い紐、もう片方は赤い紐だ。
上の紙が少しだけずれている。
見えた。
《光》
その下に、赤い三文字がはっきり乗っている。
受領済。
ミラが低く言う。
「押された」
リオの目も同じところを見る。
だが、彼はすぐに紙の下端へ目を落とした。
「下はまだ白い」
白い。
《光》の下にある短い欄のうち、一つは赤のすぐ下で埋まっている。
だが、その隣は空白だった。
そのとき、上から別の声が飛ぶ。
「因の札は張り出し台で合わせろ!」
「先に受領片だけ回せ!」
因。
誰のせいにするかを書く札だ。
ミラの頭の中で順番がつながる。
上ではもう《光》が通った。
だが、“原因”はまだ別だ。
あとから重ねる。
あとから読ませる。
だから下へ落ちてくるのは、終わりじゃない。
途中だ。
階段の下で、黒い腕章が声を張った。
「開けろ! 受領済が下りる!」
その一声で、人が半歩ずつ割れる。
配給待ちの列が揺れた。
何も知らない人間まで、赤い字だけで道を空ける。
赤は早い。
意味が全部分からなくても、人は赤に従う。
灰の女が盆を抱えたまま階段を降りきる。
曲がり角で、後ろの男が肩をぶつけた。
盆が傾く。
紙が落ちる。
一枚だけ、白い札が石段に滑った。
リオが先に動いた。
踏まれるより早く拾い、角だけを持って灰の女へ返す。
「落とすな」
女は息をのみ、受け取る。
「……ありがとう」
リオは返事をしない。
その一瞬で、ミラは拾われた札の下端を見ていた。
細い字がある。
《因》
その右は、まだ空白だ。
やはりだ。
“誰のせいか”は、まだ決まっていない。
いや、決まっていても、まだ紙に乗っていない。
階段の上から、また声が落ちる。
「張り出し台を先に開けろ!」
「読み手を呼べ!」
張り出し台。
読み手。
そこまで聞けば十分だった。
ここから先は、帳場の奥じゃない。
人の目に見せる場所だ。
黒い腕章が灰の女から赤紐の袋を受け取る。
袋の口から、受領済の赤がまたのぞく。
それを見た後ろの女が、すぐ隣へ言う。
「もう通ったんだって」
隣の男が聞き返す。
「何が」
「知らない。でも上で受領済」
その後ろで、別の声が混ざる。
「また公の字じゃないのか」
「公爵家の件だろ」
まだ誰も読んでいない。
因の札は空白だ。
それでも、口だけは先に走る。
ミラはリオの袖を軽く引いた。
「上はもう遅い」
リオが頷く。
「次は張り出し台」
「原因が貼られる前に見る」
二人は階段の脇を離れる。
黒い腕章はもう、赤い袋を盾みたいに前へ出して歩いている。
受領済の三文字だけで、人をどかせる気だ。
靴磨きの子が立ち上がり、今度はつま先で床を一回だけ叩いた。
それから外の明るいほうを指す。
表。
張り出し台は、表にある。
配給列の向こう、壁のいちばん目につく場所。
毎日、人が読む場所。
読めない者には、読み手が声にする場所。
そこへ因の札が重なれば、もう止まらない。
ミラは歩きながら、頭の中で順番を言い直した。
《光》は通った。
受領済は押された。
でも、因はまだ白い。
白いうちなら、まだ間に合う。
背後で、誰かがまた言った。
「公爵家だって」
違うかもしれない。
まだ書かれてもいない。
けれど、張り出されれば、
その“まだ”はすぐ消える。
ミラとリオは列の外へ出た。
向かう先はひとつだった。
赤はもう走った。
次に人を動かすのは、まだ白い欄だ。




