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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
北線の削除

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125/157

125.結び目の白



本文:

誓約対象の束を抱えた腕が動いた。結び目を見失えば、《光》は帳場の奥で固まる。


帳場の裏廊下は狭い。狭い廊下ほど、抱えた束が目立つ。

ミラは裏戸の影から、黒い腕章の腕だけを見ていた。顔は要らない。束を見る。

抱えた灰紙の上、紐の結び目に白い糸が一本だけ混じっている。


白い糸一本。原本の束だ。控えには付かない。


「いた」


声は出さない。唇の内側だけで言う。

黒い腕章は束を胸へ押しつけ、廊下の奥へ急いだ。急ぐ足は、渡しに行く足だ。

渡した先で《光》が置かれる。置かれたら、狩りは正義の顔を持つ。


向こうから、役所の腕章が一人来る。後ろには帳場付きの下働きが盆を抱えていた。

盆の上には、封蝋を温めた小鍋。甘い匂いが細く流れる。


ミラは靴先で、床の油を薄く伸ばした。

転ばせるためじゃない。急いだ足に、半拍だけ考えさせるためだ。


役所の腕章が黒い腕章の前で止まる。

止まりきる前に、ミラが言った。


「その束、結びが逆」


大きな声じゃない。でも、役所の耳には届く。

役所の腕章の目が反射で紐へ落ちた。落ちた瞬間、肩が固まる。

原本の結び目を逆にしたまま帳場の外へ出せば、責任が残る。残る責任は、役所が一番嫌う。


「……戻し台へ置け」


黒い腕章が即座に返す。


「確認不要だ」


「原本なら不要じゃない。外で持ち回すな。戻せ」


戻せ。


その一語で、黒い腕章の足が止まる。止まった足は、もう負け始めている。

廊下の脇には、小さな木台がある。戻し台。照合前の束を一拍だけ置く台だ。


黒い腕章は束を置かない。置けば、手が離れる。

離れた束には、別の順番が付く。


廊下の外から、靴磨きの子が顔だけ出した。顔は上げない。靴だけを見る癖のまま、指を二本立てる。


二本。


足が増える。追っ手が来る。

ここで長引かせると、束が奥へ消える。


役所の腕章が黒い腕章の肘へ手を伸ばした。

その拍子に、後ろの下働きの足が油を踏む。盆が傾き、小鍋が跳ねた。

熱い封蝋が石床へ散り、下働きの体が前へ倒れる。


その前に、リオがいた。


影だった足が、一拍で人になる。

リオは倒れてきた下働きの肘をつかみ、反対の手で鍋だけを受けた。封蝋は床へ落ちる。でも、顔にはかからない。膝も打たない。


リオは軽く言った。


「紙は逃げない。人は転ぶ」


下働きが目を見開く。

礼を言う前に、リオはもう鍋を床へ置いていた。

誰もが一瞬だけ、そちらを見る。熱いものは、人の目を引く。


その半拍でいい。


ミラは袖の内から、本物の《通行》を出した。

戻し台の端へ滑らせる。役所の腕章の目が、それを拾う。

本物。さらに白い紙片を、紐の結び目の下へ差し込む。《受領済》の頭だけを見せる。


頭が変われば、束の行き先も変わる。


役所の腕章が反射で言った。


「照合回しだ。台へ」


言わせた。


黒い腕章の歯が鳴る音がした。でも、役所の前では逆らえない。

逆らえば責任が残る。責任が残れば、黒は前へ出られない。


とうとう黒い腕章が、束を戻し台へ叩き置いた。

置いた瞬間、手が離れる。離れた束は、もう守れない。


リオは下働きを壁際へ寄せたまま、空いた手で束を持った。

持つ動きに迷いがない。本物の《通行》が台に見えているから、誰の目にも運ぶ側に見える。


役所の腕章が黒い腕章へ怒鳴る。


「お前は残れ。結びを見直す」


残れ。


その一語で、黒い腕章の視線が束から外れた。外れた視線は、もう戻らない。


ミラは先に歩く。走らない。走ると盗みになる。

歩けば手続きに見える。


リオが束を抱えて続く。白い糸の結び目が胸の前で小さく揺れた。

廊下の角で、靴磨きの子が足先だけで道を示す。右じゃない。左。

左は配給台の裏を回る細道だ。人が少ない。少ない場所は、紙を隠すのに向く。


背後で声が上がる。


「待て!」


遅い。


遅い声は、紙のあとから来た声だ。

役所の腕章が黒い腕章を押しとどめている。黒い腕章の肩は前へ出たいのに、足だけが責任に縫われている。


その向こうで、別の声が混ざる。


「配給、まだ?」


生活の声。

狩りより先に立ってほしい声だ。その声が表へ残っている限り、役所は完全には底へ落ちない。


細道の先に、古い控え箱置き場があった。今は空だ。

空の箱が二つ、壁際に積まれている。


ミラはそこでやっと止まった。


「開く」


リオが束を箱の上へ置く。

白い糸の結び目は固い。固い結びは、誰かが解かせたくない結びだ。


リオは爪を使わない。靴の内側から細い針を抜き、糸の返し目だけを浮かせる。

浮いた白糸が、するりと抜けた。


束が開く。


一枚目。《誓約対象》

二枚目。空欄。

三枚目。空欄。


四枚目で、ミラの指が止まった。


短い紙片が、上から差し込まれている。


《光》


書いてある。まだ名前じゃない。呼び名だけだ。

呼び名だけ先にある。


ミラはその下をめくる。

薄い紙が、もう一枚はさまっていた。薄い紙ほど、処理が早い。

上端の印字を見た瞬間、リオの目が細くなる。


《処理:死亡扱い》


ミラは息を吸わない。吸えば、喉が鳴る。喉が鳴れば、意味が音になる。

《光》の下に、《死亡扱い》。


順番が悪いんじゃない。

これが順番だ。


誰かを光として受けるために、同時に誰かを紙の上で死なせる。

ミラは下端を見た。署名欄がある。だが、狭い。人の名前を書く幅じゃない。家名も、通り名も入らない。

短い役目だけを書かせる幅だ。


リオが低く言った。


「これ、名前の紙じゃない」


ミラは紙から目を離さずに答える。


「役割を書かせる紙」


その瞬間、表のほうで怒鳴り声が箱置き場まで届いた。


「誓約対象の束がない!」


ない。


消えた。

もう帳場には戻らない。


ミラは《光》の紙片を抜き、狭すぎる署名欄を見つめた。

ここに書かれるのは、たぶん名前じゃない。誰かが引き受ける役だ。


そして、その役は、もう中で決まっている。

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