削除の報せ
港の朝は、冷たい。
潮の匂いが強いのに、体の芯は温まらない。
濡れた木箱の上に白い息が落ち、縄がきしみ、鳥の鳴き声だけがやけに明るい。
私は歩かされた。
腕章の男が前を行き、兵が後ろにつく。
縄で縛られてはいない。
縛られていないほうが、逃げられない。
逃げた瞬間に“逃亡”になる。
逃亡になった瞬間、紙が完成する。
完成した紙は、狩りを呼ぶ。
通りすがりの港の人間が、ちらりと私を見る。
見て、すぐに目を逸らす。
目を逸らすのは優しさじゃない。
関わったら削られるのを知っている。
腕章の男が、歩きながら言った。
「君は、物分かりがいい」
昨日も聞いた言葉。
褒め言葉じゃない。処理の言葉。
「署名をした。あとは簡単だ」
「“保護”の札を貼り替える」
「それで終わる」
貼り替える。
それは紙の中で生きる人間の言い方だ。
「終わる、って」
私が問うと、男は答えなかった。
答えないことが答えだ。
---
裏門を抜けると、小さな建物があった。
倉じゃない。
役所の出張所みたいな、簡素な箱。
扉を開けると、紙の匂いが濃くなる。
インク、糊、湿った繊維。
潮よりも、この匂いのほうが息を奪う。
机が一つ。
椅子が二つ。
壁に掲示板が一つ。
掲示板には札が貼られている。
札は、整っている。
整っている札ほど、怖い。
腕章の男が、掲示板の前に立った。
「見ておけ」
男は言った。
「君は、これから“いない”扱いになる」
私は掲示板を見た。
そこに、私の名があった。
——セレナ・フォルス
職務上の不正の疑いにより一時保護
昨日と同じ文。
だが、違う。
下に、細い文字が追加されている。
——保護先:宰相府管轄(港)
港。
書いた。
書けるようにした。
私の背中が冷える。
「……書けたんですね」
腕章の男は淡々と答えた。
「必要になった」
必要。
便利な言葉。
「必要になったから書ける。必要がなければ書かない」
「そういうことだ」
男は、当たり前の説明みたいに言う。
私は息を吐いた。
それでも、まだ終わっていない。
終わっていないから、ここで見せている。
腕章の男が、札の端に指をかけた。
紙が擦れる音がした。
男は、札を剥がした。
剥がした瞬間、掲示板の板が露出する。
板の色が、少しだけ黒い。
そこだけ、何度も剥がされた跡だ。
何度も名が消された場所だ。
男は剥がした札を、机の上へ置いた。
置き方が雑じゃない。
雑じゃないから、仕事だ。
「次は、これだ」
男が取り出したのは、別の札だった。
新しい札。
紙が厚い。
墨が濃い。
札の上段には、同じ文がある。
——セレナ・フォルス
職務上の不正の疑いにより一時保護
だが、下の行が違う。
——保護先:記載せず
記載せず。
私は喉が鳴るのを堪えた。
「……わざわざ、書くんですか」
男は札を掲示板に当てながら言う。
「書かない、では弱い」
「“記載せず”と書くことで、正しさに見える」
正しさ。
正しさは、紙にすると強い。
札は貼られた。
糊が乾く前の艶が、朝の灯りを反射する。
艶は綺麗だ。
綺麗なものほど嘘を隠す。
男は貼り終えた札を、指で軽く撫でた。
撫で方が、整備士の手じゃない。
現場の手じゃない。
「これで君は、“どこにいるか分からない”」
男は淡々と言う。
「分からないものは、怖い」
「怖いものは、噂になる」
「噂になれば、民が勝手に補う」
補う。
補われた物語は、必ず誰かを悪にする。
私は言った。
「逃げた、と書かれる」
男は頷きもしない。
否定もしない。
否定しないのが肯定だ。
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扉がノックされた。
控えめなノック。
控えめだから、怖い。
「入れ」
腕章の男が言う。
入ってきたのは、文官だった。
服の肘が擦れている。
机に向かって働く人間の擦れ方だ。
文官は紙束を抱え、腕章の男に低く言った。
「中央の掲示、準備できました」
「号外も回ります」
腕章の男が短く返す。
「よし」
文官がこちらを見ないまま続ける。
「……“白い仮面”の件も、今朝の紙に入ります」
「『公爵家が裏で動いている』という筋で」
私は胸の奥が冷える。
白い仮面。
アーク。
彼の名は出していないのに、紙は彼を捕まえる。
名の代わりに、仮面を捕まえる。
腕章の男が言った。
「民は物語が好きだ」
「物語があれば、秩序が保てる」
秩序。
また便利な言葉。
文官は頷き、扉の外へ下がった。
扉が閉まる。
腕章の男は私に言った。
「君は、もうこの街の中では呼ばれない」
「呼ばれない者は、守られない」
私は、声を出す前に息を吸った。
叫べば終わる。
終われば、紙が完成する。
私は静かに問う。
「……何をしたいんですか」
腕章の男は、少しだけ首を傾げた。
「混乱を避けたいだけだ」
嘘じゃない。
嘘じゃないから厄介だ。
混乱を避けるために、誰かを削る。
削ってできた空白を、紙で埋める。
私はその仕組みを、ようやく正面から見た。
---
外へ出される。
港の風が顔に当たる。
潮の匂いが、さっきより遠い。
私は歩かされながら、掲示板の札を思い出した。
——保護先:記載せず
“いない”ことにされる。
“逃げた”ことにされる。
“悪”として完成する。
そのとき、腕章の男が小さく言った。
「君は運がいい」
私が目を向けると、男は淡々と続けた。
「血を出さなかった」
「だから、紙がまだ強くならない」
私は息を止めた。
血。
血が出れば、“襲われた”と書ける。
“制圧は正しい”と書ける。
書かれたら、狩りは止まらない。
私は、声を平らにして言った。
「……あなたたちは、血が欲しいんですか」
腕章の男は答えない。
答えないことが答えだ。
私は前を向いた。
港の道の先で、誰かの指が上がる気配がした。
紙が回り始める気配がした。
そして――
私の名は、静かに削られていく。




