103.北の小屋
坂を上がると、風が冷たい。
風の冷たさが、匂いを運ぶ。
甘い匂いは弱い。
弱い匂いほど、長く残る。
坂の上で、声が遅れて追いかけてきた。
「遺留品が出た」
「確認済だ」
見ていないのに、決まっていく。
決まったあとで、紙が追いつく。
ミラは振り返らない。
振り返れば、輪の順番が付いてくる。
リオが先を歩く。
足音が軽い。
軽い足音は、音を残さない。
北の外れの道は細い。
石標が一本、倒れかけている。
《北線 外れ》と彫られた文字に、札が貼られていた。
《立入禁止》
札は新しい。
新しい札は、急いで貼られた札だ。
ミラは札の角を見る。
欠けた角の印はない。
目立たない札ほど、現場では強い。
「三つ」
リオが小声で言った。
「小屋、三つだ」
小屋は並んでいる。
屋根が低い。
窓が小さい。
窓が小さいのは、外を見せたくないからだ。
ミラは地面を見る。
車輪の泥が二本。
一度止まって、また動いた跡。
止まった場所に、泥が濃く溜まっている。
「ここで荷を下ろした」
ミラは言い切らない。
言い切れば、道が紙になる。
でも、足跡は言い切っている。
小屋の前に縄が張られていた。
胸の高さの縄。
結び目に札が下がっている。
《点検中》
点検。
窓口の言葉。
輪の言葉。
同じ言葉は、同じ順番を作る。
縄の外に、腕章が二人。
縫い目が新しい。
片方の靴は走らない靴。
リオは笑わない。
笑えば軽くなる。
軽くなったものから狩りが始まる。
ミラは息を吐かない。
吐けば白くなる。
白い息は、そこにいた証になる。
腕章の男がこちらに気づいた。
目だけが動く。
口は動かない。
口を動かすと、名が生まれるからだ。
男が短く言った。
「止まって」
短い言葉は札になる。
札になれば、後ろの指が増える。
ミラは止まらない。
止まらない代わりに、距離だけを残した。
縄から三歩。
押し返されない距離。
連行されない距離。
ミラは縄の札を見た。
札の裏に、もう一枚の紙が貼ってある。
端だけが見える。
《出荷》
表は点検。
裏は出荷。
二枚の札で、別の順番を走らせている。
リオが通りすがりの声を作った。
「配給の道、いつ開くんです?」
腕章の男は答えない。
答えない代わりに、札を指で弾く。
「危ない」
また短い言葉。
また札になる言葉。
ミラは地面の濡れを見た。
縄の内側だけ、泥が新しい。
外側は乾いている。
内側にだけ、荷車が入った。
小屋の窓の隙間が、わずかに黒い。
布が貼ってある。
内側から光を切っている。
ミラは耳を澄ませた。
布が擦れる音。
それと、短い息。
息は続いている。
でも続いている、と言い切らない。
言い切れば、守るか殺すかの紙が来る。
縄の近くに、厚い札が一枚落ちていた。
誰かが拾い損ねたか、わざと落としたか。
《出荷》
札の端に、薄い鉛筆の番号。
同じ癖だ。
同じ数字の切り方だ。
ミラは札を拾わない。
拾えば、順番を持つ。
順番を持てば、責任も来る。
代わりに、番号を目で取った。
目で取るだけなら、まだ言い逃れができる。
リオがミラの横で、息だけで数えた。
「二人。いや、三人」
「中にもう一人?」
「靴が三つ分」
靴は嘘をつかない。
歩き方も嘘をつかない。
ミラは小屋の横へ回った。
縄の外を回る。
回るのは、逃げ道を消さないためだ。
小屋の裏に、川へ落ちる細道がある。
そこに、荷車の泥が落ちていた。
泥は新しい。
新しい泥は、いま動いている泥だ。
「小屋は、止まり場所」
ミラは声を落とした。
「本命は、川沿いへ抜ける」
リオが頷きそうになって、やめた。
頷けば同意になる。
同意になれば、紙になる。
そのとき、小屋の中で布が大きく擦れた。
息が一度、止まった。
止まったのが、息なのか。
止めたのが、息なのか。
ミラは唇の内側で、甘い匂いを確かめた。
匂いは濃くなっている。
近い。
近いほど危ない。
近いほど、紙が間に合う。
坂の下の方角から、また声が上がった。
「遺留品、送ったぞ」
送った。
送れば終わったことになる。
終わったことになれば、ここで何があっても、紙は追いつかない。
ミラはリオにだけ聞こえる声で言った。
「追うのは荷車。開けるのは小屋じゃない」
リオが小さく言う。
「じゃあ、札は」
「札は、後ろで読む」
前で読ませない。
後ろで読ませる。
ミラは川沿いの泥を見た。
泥は北へ続いている。
北の線へ。
消されたはずの線へ。




