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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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名を削る手



倉の中は、息が遅い。


暗いからじゃない。

寒いからでもない。


言葉が少ない。

少ない言葉ほど、ここでは強い。


机が一つ。

椅子が二つ。

紙束が三つ。


その紙束の一番上に、丁寧な文が載っていた。

丁寧な文は、刃を隠す。


腕章の男が、紙の端を押さえる。


押さえ方が上品だ。

上品な指は、逃げ道を塞ぐ。


「署名しろ」


短い命令。

短いほど、正しい顔をする。


私はペンを握ったまま、動かさない。


紙には、こう書いてある。


——混乱を避けるため。

——安全のため。

——関係者の保護のため。


保護。


その二文字がいちばん冷たい。


最後の行だけ、違う温度で並んでいる。


——違反した場合、当該名は公示から削除される。


削除。

紙の上では軽いのに、現実を沈める言葉だ。


私は息を吸って、吐いた。


言い返したい言葉が喉まで上がってくる。

それを出したら終わる。


終わらせないために、私は黙る。


腕章の男が淡々と言った。


「君が黙れば、君の代わりに紙が喋る」


紙が喋る。

それは脅しじゃない。

この国では、現実だ。


「署名を拒めば、“反抗”と記録される」

「反抗が記録されれば、名を削る理由になる」

「理由ができれば、民は安心する」


安心。


その言葉が、狩りの燃料になる。


私は目を上げた。


机の向こうに、リオがいる。


声を出さない。

腕章の男の横にも並ばない。


それでもここにいる。

ここにいるだけで、意味がある。


リオは私を見ない。

見ないまま、紙の角を揃える。


角が揃う。

揃うと、紙は「真実」に見える。


リオの指先は静かすぎた。

静かすぎて、慣れている。


腕章の男が言う。


「読む必要はない。署名だけでいい」

「紙はあとで整う」


整う。

整った紙は、疑われにくい。


私はペン先を余白の上で止めた。


余白は、縄だ。

ここに名を書いた瞬間、縛られる。


腕章の男は苛立たない。

苛立たないのは、勝っているからだ。


「君は賢い」


またその言葉。

褒め言葉じゃない。処理の言葉。


「賢いなら分かるだろう。ここで逆らえば、君だけじゃない」

「現場も消える」


現場。


私は視線を落としそうになって、落とさない。

落としたら、現場の顔が浮かぶ。

浮かべたら、心が揺れる。


揺れは、紙に書ける。

書かれたら、終わる。


腕章の男が、机の横から厚い台帳を出した。


綴じられた紙。

抱えると腕が疲れる重さ。


表紙に、ただ一行。


——公示削除台帳。


削除台帳。

言い切ることで恐怖を制度にする紙。


男は台帳を机の上に置かない。

私の正面には出さない。


見せないのは、見せる必要がないからだ。

恐怖は、想像のほうが効く。


男は淡々と言う。


「署名は形式だ」


形式。


その瞬間、背筋が冷えた。

形式なら、すでに決まっている。


「形式……?」


声が、かすれた。


男は初めて少しだけ口角を上げた。

笑いじゃない。確認だ。


「君はもうここに入った」

「認証口を通った」

「名は記録された」


私は喉が鳴るのを堪えた。


——署名は儀式。

——本体は、入った時点で終わっている。


リオの指先が、紙の角を押さえる。

押さえた場所が、私の視界の端に入る。


そこに、紙がもう一枚ある。


薄い紙だ。

薄いのに、文字が重い。


私は読もうとして——止めた。


止めたのに、目が勝手に拾う。


リオの指が、さりげなくその紙の端を押さえた。

押さえた指先が、私の視界から文字を隠す。


「見るな」


そう言っていないのに、そう言われた気がした。


私は、余計に見てしまう。


影の下の文字が、一行だけ、目に刺さった。


——削除予定:セレナ・フォルス。


息が止まった。


署名は形式。

形式の前に、結論がある。


私は喉の奥で、言葉を押さえつけた。


いま出せば、紙になる。

紙になれば、狩りの餌になる。


私はペン先を余白の上で止めたまま、言った。


「……私の名は、もう削るつもりなんですね」


腕章の男は表情を変えない。


「秩序のためだ」


秩序。

便利な言葉。


私の胸の奥で、何かが静かに割れた。

音はしない。

だからこそ、戻れない。


リオの指先が動く。

私の名が書かれた行を、影の下へ押し戻す。


隠すのは、優しさか。

隠すのは、支配か。


分からない。

分からないまま、分からないふりをする。


それが、この国で生きる技術だ。


腕章の男が机の端を軽く叩いた。


小さい音。

小さい音は強い。


「署名しろ」


私はペンを取り直した。


指先が震える。

震えは弱さじゃない。


ここまで来ても、守ろうとしている証拠だ。


私は、紙の文面をもう一度だけ読んだ。


——混乱を避けるため。

——関係者の保護のため。


関係者。

その言葉の中に、港の人間が入る。

整備士も入る。

ミラも入る。


入った瞬間、みんな削れる。


私は決めた。


ここで叫ばない。

ここで暴れない。

ここで血を出さない。


血が出たら、紙が強くなる。

「宰相府が襲われた」と書ける。

「制圧は正しい」と書ける。


書かれたら、狩りは止まらない。


私はペン先を紙に落とした。


名前を書くのは、怖い。

でも——名前を書かないほうが、もっと多くが消える。


サインが一文字ずつ増える。

そのたび、何かを売っている気がした。


最後の払いを終えた瞬間、腕章の男が紙を引いた。


引く動きが早い。

早いのに丁寧だ。

丁寧な早さは、逃がさない。


男は署名欄を確認し、淡々と言った。


「よろしい」


よろしい。

それは裁判の言葉じゃない。

処分の言葉だ。


腕章の男が立ち上がる。


「移送する」


「……どこへ」


私が問うと、男は答えない。


答えないことが答えだ。


港の湿った空気が、頭に浮かぶ。

潮と油と紙の匂い。


リオが紙束を整える。

整え終えて、ようやく私のほうへ視線を向けた。


ほんの一瞬だけ。

目だけ。


そこに感情はない。

感情がないように見せるのが、いちばん怖い。


でも、その目の奥にだけ、薄い合図があった。


——今は、黙れ。


私は頷かない。

頷いたら、ここが“共犯”になる。


だから、目を伏せた。


腕章の男が扉を開ける。

外の光が差し込む。


「歩け」


私は立った。


足がふらつく。

ふらついた分だけ、床の冷たさが伝わってくる。


倉の出口で、振り返りそうになって、やめた。


振り返ったら、ここが終わりになる。

終わったら、紙が完成する。


私は前を見た。


港へ向かう道の先で、

すでに紙が待っている気がした。

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