最終章 細川ガラシャ「そして・・・」
細川邸。
中庭の隅に私達の休む部屋が用意されている。その部屋の前で未来が洗車をしていた。
ザパーンッ!
「OKッ。ピッカピカッ!」
御満悦の未来。
白いTシャツにツナギを履き、ツナギの上半身を腰に巻いて、バケツを抱えた未来が汗を拭った。
「お疲れ」
私は、離れたところで、マットの砂埃を落としながら、未来を労う。。
「まだまだよ」
未来は振り返って微笑んだ。
「何?」
「ワックス。とことんピカピカにするんだから」
未来は、高笑いでガッツポーズを見せた。
「やけに、気合いが入っているわね」
「まあね、ここぞという時に無様な格好見せられないでしょ」
未来は車のトランクから液体ワックスを取り出した。
「未来、まさかこの車で戦場にでも出向く気?」
私がそう言うと未来が振り返り、ニタァっと笑った。
「えっ、マジッ?!」
「まっさかあ、いくらボティが頑丈だからって、疵も付くし、ガラスは衝撃で割れるでしょ。それに、ローンだってまだ3年もあるのよ」
「自分の車は、大切にってことか・・・・・」
「そうよ、物は大切にしなさいって、習ったでしょ」
「まあね。そんな言葉を習った事は覚えているけど、未来が物持ちのいい人かどうかは覚えていませんけどね」
私は目配せをした。
「もう、失礼ね・・・・・。あっ!」
「どうしたの?」
未来は、頭をポリポリ掻いた。
「この時代に居続けたら、ローン踏み倒せるわね」
「はいはい、駅前のラ・セーヌの苺パフェ、鳥町隆史のコンサート、医大生との合コン、その他エトセトラと引き換えに、ここに残るってのなら、どうぞご自由にぃ〜」
私の言葉に、未来はハッとなった。
「前言徹回いますっ!」
未来は、そう言って軍人のように直立敬礼をした。
「あんたってば、ホント欲望に弱いわね」
私は拳を軽く握って口元に当て、細めで囁いた。
未来は、頭を掻きながら、
「本能に従順と言って欲しいなあ」
と、すねた口調で言った。
私が鼻で笑うと、未来も鼻で笑った。
そして私は微笑んで、未来の車内にマットを敷いてワックス掛けを手伝った。
私と未来は、船着き場で忠興別れたその日、忠興と逢うことはなかった。
その次の日、私達が目を覚ますと、忠興は既に屋敷を出ていた。家中の人々に聞いても、忠興の行き先を知り得ることは出来なかった。
忠興は、賄いの者に、
「珠緒殿、未来殿にはご不自由無きよう、手厚くおもてなしをするよう。但し、外出はお控え下さるよう、お伝えするように!」
と、それだけを言い残して、屋敷を出たということだった。
私と未来は、忠興が留守のこの屋敷で、持て余した時間を洗車に当てたのだ。現代へ戻る為にはこの車のチカラが必要だからであった。
「熊ぁー!久しぶりだな」
「亀さんじゃないか。ウレシイねえ兄弟。しかし、風の噂じゃあ流行病で逝ったって聞いたぞ」
そう言って熊は、まさに熊のような大声で笑った。
「アホぅ勝手に殺すな」
「まあ、おめえ見たいな遊び人は、そう長くはねえな」
「勝手に言ってろ!」
二人は、気兼ねない関係のようだった。
「ところでよう、亀さん。お袋さん、元気かい?」
「いやああ、近頃、腰痛が酷くてな。家に篭りっきりでよう。もう時期、死ぬから早く所帯持って孫の顔を拝ませてくれって、うるさいんだよ」
「まさか、寝たきりって訳じゃ・・・・・」
「いやいや、元気なんだが近頃神経痛がひどくてね」
「そいつは、大変だな」
「なにね。お袋の湯治も兼ねて、明日から飛騨に向うんだ」
「飛騨?」
熊は聞き直した。
「おう」
「飛騨は止めときな。飛騨はダメだ」
「なんでだ?」
「あっち方面は、慌ただしいようだ」
「戦か?」
亀の声が上がった。
「こらァ、でかい声出すな!」
慌てて、熊が亀を小突いた。
「イテッ。す、すまん」
「こんなとこで、立ち話もなんだ、どっかでメシでも食おうや」
「あっ、お、おう!」
そう言って、熊の誘いに亀が答えると、その場を離れる足音が徐々に小さくなった。
その足音を屋敷の塀の内側から、耳で追っている私と未来。
辺りが静かになった。
それでも、私と未来は塀の外に耳を傾けていた。
「どうなされた!」
突然、背後から声を掛けられ、私も未来も驚き、そして振り向いた。
「た、忠興さんっ!」
未来が声を上げ、忠興に駆け寄る。作業途中だったシートカバーを持ったまま掛け寄ろうとしてドアに引っかけて、カバーが少し破れた。
未来は、引っかかったシートカバーを外すと丸めて車に放り込んだ。
未来に続いて私も歩み寄る。
「無事だったんですね?」
と、未来。
「無事ですと?もちろん、怪我一つござらん」
忠興は、未来に向ってそう言うと、未来の後ろに居る私に、視線を移して微笑み、広縁に腰掛けた。
「お声も掛けず、無断で外出してご心配をお掛けしました」
「とても心配しました。戦に行かれたのかと・・・・・」
わたしは、ホッとして言葉が途絶えた。
「あっ、それは・・・・・」
忠興は、言葉を詰まらせた。私と忠興との間に流れる沈黙の時間。
未来は黙って私たちの側から離れ、途中だった車のシート掛けを再会した。
「さて、シートも掛け終わったし・・・・・。珠緒っ!」
「えっ、はいっ?!」
我に帰る、私。
未来は、バケツに雑巾を掛けて、ブラシとスポンジを持って、車から離れはじめていた。
「私、後片付けしてくるから」
「あっ、ゴメン。今、私も・・・・・」
「いいから、いいからあ」
未来は、そう言って目配せをして、その場から立ち去った。
「珠緒殿」
「は、はい」
「お掛けにならぬか」
忠興は、自分が腰掛けている広縁の床を、ポンポンと軽く叩いて、私に腰掛けるように促した。私は、誘われるまま忠興の横に腰掛けた。
「留守の間、ご不自由はござりませんでしたか?」
「はい、皆さんに良くしていただいておりましたので、何一つ不自由はありませんでした」
「それは、よかった」
忠興は、微笑んだ。
「忠興さん。その・・・・・」
「なんでしょう?」
「その、お姿は・・・・・?」
私は、恐る恐る訊ねた。
忠興は、微笑む。
「緒用ができました。些か大坂を離れます」
「ど、どれくらいですか?」
「恐らく、10日・・・・・、ほどでしょう」
忠興は、そう答えたが、私の心に不安が過ぎった。
「忠興さんは、どちらに尽かれるのですか?」
私、いきなり確信を突く質問をした。
「どちら・・・・・と?」
「はい、天下分け目の戦に・・・・・」
私の問いに、忠興はゆっくりと首を横に振った。
「珠緒殿が、ご心配頂くことではございませぬ」
「そうはいきません。豊臣軍が負け・・・・・!」
と、言いかけて、忠興は私の口を塞ぐように、手を翳した。
「珠緒殿。滅多なことを口にしてはなりませぬ!」
「でもっ・・・・・!」
「なりませぬ。誰が何処で聞いているかも知れませぬ。事は珠緒殿の命に関わるのです」
忠興は、そう言って私の量肩に手を置くと微笑んだ。その時、私は私の肩が震えているのに気が付いた。
「さあ、大きく呼吸をして」
忠興の優しい目。私は、深く大きく呼吸をした。
次の瞬間、ストレスとその解放により、僅かに目が眩んで身体のバランスを崩し、忠興に抱きかかえられた。
「珠緒殿。どうなされた!」
「ご、ごめんなさい。チョット、めまいがしただけです。大丈夫」
「珠緒殿。案ずる無かれ。この忠興、必ず帰ってまいります」
「は、はい」
私は、返事をするだけ。忠興の言葉に、一番素直に応じられる言葉、忠興が振り返ることなく心置きなく前に進む為には、「はい」としか言えなかった。
忠興には、私の気持ちが解っていた。
「珠緒殿、この戦から帰ってきたら、茶会を致しましょうぞ」
忠興は微笑んだ。
「あっ・・・、そうだ。私、練習しておきます。お茶も詠も、少しでも忠興さんに近付けるよう、一生懸命修行して待ってますから!」
私の胸は、燃えるように熱かった。
「楽しみにしておりますぞ。それではっ!」
忠興は立ち上がった。
「忠興さんっ!」
私は嫌な予感がした。胸騒ぎ・・・・・。
忠興は、振り向いて微笑む。一瞬時が止まった。そして忠興は、戦場へと足を向けた。
その夜は、眠れなかった。
もう、馴れているはずの闇夜の静寂が、余計に不安を掻き立てる。
「ふぅ〜っ・・・・・。ふぅ〜・・・・・」
出てくるのは、溜め息ばかりで天井の隅が見えるほど暗闇に目が慣れていた。
「珠緒、どうしたの。眠れないの?」
「ゴ、ゴメン、起こしちゃった?」
「そんなことないよ・・・・・」
未来は、そう言って寝返りをうって私の方に身体を向けた。
「私もね、珠緒と同じで眠れなかったの」
「えっ?」
私は、一瞬ドキッとした。
「違う、違う。忠興さんにチョッカイなんか出さないわよ。略奪愛って私の趣味じゃないしいね」
「べ、べつに私は・・・・・」
「いいの、いいの。心配してあげたら、想いも届くわよ」
「だからぁ・・・・・!」
「あっ、珠緒。顔が紅い!」
「えっ、ウソっ!」
「うそよ。いくら見えるったって、この暗闇で顔色が解る分けないじゃない」
未来がクスクスと笑った。
「そ、そうね・・・・・」
私も微笑む。そしてまた、部屋に静寂が戻る。
「未来・・・・・」
「んっ?」
「もし・・・・・。もし、このまま元の世界へ戻れなかったら・・・・・」
「そうね、そういう事も覚悟しておかなきゃいけないのかな・・・・・」
「・・・・・」
「珠緒は、元の世界へ戻るか、忠興さんと暮らすのか、選択できるとしたらどうするの?」
「それは・・・・・」
「私達には、第三の可能性もあるのよ」
「第三の可能性?」
「そう、もう珠緒だって解っているはずよ。再び別の時間へ異動してしまうことを・・・・・」
未来は、低い声で言った。
「・・・・・」
私は答えられなかった。
「もし、このまま、時間の中をさまよい続けるようなら、私達は歴史の中に生きながら、歴史に存在しない、池の上に浮かぶ木の葉・・・・・」
「もういいよ!」
私は、未来の言葉を遮った。
「ゴメン・・・・・。でも、出来ることはある」
「・・・・・」
「私達は、信じることはできる。元の時代に帰ること、好きな人ともう一度逢えること。そして、信じ続けることはできるの。例え、歴史に名を刻まれなくても、自分らしく生きることは出来る。今言えるのはそれだけかな・・・・・」
「・・・・・」
「珠緒?」
「・・・・・」
私は、元の時代に戻りたい願いと、忠興と一緒に居たい気持ちとが交錯していた。
「珠緒っ!」
未来はいきなり跳ね起きた。そして、その鼻先を私の鼻先につくかと思えるほど、近付けてこう言った。
「行こう、珠緒!」
「えっ、なに?」
「明日、忠興さんに会いに行こう。同じ時間を生きるなら悔いの無い生き方をしようよ」
「でも、戦場なんか行ったら邪魔になる・・・・・」
「それじゃあ、珠緒。忠興さんは、歴史上、戦死した?」
「い、いいえ」
「それじゃあ、問題無し!でしょ」
未来は、それが当然のように言った。
私は、一瞬考えて、
「うん、行こう。今を大切に生きる為に!」
と、明るく答えた。
「これで、荷物は全部積んだ?」
未来が運転席後部のドアを開けたまま言った。
「後はお弁当だけ!」
「容易がいいねぇ」
「忠興さんに!」
「え〜っ。私のはっ?」
未来は膨れ面。
「勿論、ありますっ!」
私は、風呂敷きでしっかりと包み込んだ重箱を車に乗せた。
「グッド!」
未来は、拳の状態から親指を立て、ウィンクした。
「未来、私の方はOKよ」
「そんじゃ、行きますか!」
そう言って、未来は元気よく後部打席の扉を閉めた。
ドンドンッ、ドンドンッ。
私達が車に乗り込もうとしたその時、細川邸の表門が力強く叩かれた。私と未来は一瞬顔を見合わせたが、直ぐに鳴り止んだので、二人とも座席に就いた。
「そじゃあ、珠緒」
「よろしくね、未来」
私達は、新年を迎えたかのような、すがすがしい気分だった。時間の谷間にを滑り落ちてから、初めて進むべき道を自分達で決めたからかもしれない。
未来は、ギアをパーキングからドライブに切り替えると、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。私はフロントガラス越しに見える青空を見て、忠興の事を想った。
(忠興さん・・・・・)
「忠興さん・・・・・。って、顔を知てるわよ、珠緒」
「えっ、ど、どこにっ!」
私は頬を探る。
「あのねぇ・・・・・」
未来の冷ややかな視線に、私はハッとなって、頬が紅くなった。
「もう、からかわないでよ。未来!」
「ごちそうさま。ほんじゃ、気持ち入れ直して、出発っ!」」
「はーいっ」
そして、車は屋敷の表門へと向った。私は助手席で地図を見て、再度旧街道をチェックして関ヶ原へ向うルートのチェックを始めた。分厚いロードマップは忠興に渡してしまったが、以前高速道路のサービスエリアで記念にと貰ってきた地図が座席のポケットに入っていたのを洗車の時に見つけていた。街から街へ移動するには使いやすいマップである。旧街道はこの時代の主要幹線道路である。いわばこの時代の国道のようなもの。現代の小道の多いロードマップよりは、高速道路配布のマップの方が使いやすいと言えた。
私は膝元の地図でチェックを続けていた。
間も無くして、未来の運転する車は屋敷の角を曲がって、表門が視界に入った瞬間、未来がブレーキを踏んだ。
「な、なに?」
未来は目を凝らす。
私は一瞬未来の顔に目を向けたが、直ぐに視線を追って、前方に視線を移した。
表門が開いていた。私達の出発の為に開いていると思ってみれば大違い。門の辺りでは押し問答になっている。
「何よ、あれ?」
「さあね」
未来はそう言って、サイドブレーキを引いた。
私はシートベルトを外して、車から下りた。
「ちょ、ちょっと、珠緒っ?」
「大丈夫。チョット事情を聞いてくるだけ」
「あっ、でも・・・・・」
未来の心配を他所に、私は車を降りて門の方へ歩き出した。
「あの・・・・・」
私が声を掛けようとしたその瞬間、
「いたぞっ!」
外から進入知ようとしてきた侍集の一人が、私を見てそう言った。
「な、なにっ?」
進入を制していた、忠興の家臣が、
「五十嵐殿。お早く立ち去られよ!」
と、厳しい表情で言った。
「はい・・・・・?」
私は全く状況が飲み込めない。
「そこだっ。そこにいるぞ!」
門から強引に押入ろうとしているのは、五十名程の手勢である。「忠臣蔵」の討ち入りが四十七士。かなりの人数である。今、視界に見える兵はどう見ても、「迎えに来た」などというレベルではない。まさに罪人を多勢で囲み、確実に捕らえる意思を感じさせる人数であった。
邸内にドッと人がなだれ込み、もはやその勢いを止めることは出来なかった。
「な、なに?!」
私は、あまりの勢いに驚いた。そして同時に騎馬が一騎入ってきた。
「あ、あれは!」
馬上に居たのは、石田三成であった。
「な、なぜ?」
そう、何故、石田三成が私達を捕らえようとしているのか解らなかった。否、強いて言うなら、私達の持ち物であった。先日、未来が船着き場の茶店で三成に披露した、百円ライターやカメラ付携帯電話が裏目に出た。
私は一目散で車まで掛け戻る。助手席のドアに手を掛けた瞬間、反対側の運転席ドアから飛び出した。
「命が惜しかったら、下がんなさいっ!」
未来が叫ぶと同時に、迫り来る兵に向って何かを投げた。細長い筒から煙が上がる。未来の手から離れると、放物線状に空中を舞って、兵の前に落ちた。
バババンッ、ババ、ババ、バンバンバンッ。バンバンバンッ!
(ダイナマイト?)
私は、一瞬そう思ったが、そんな物が万に一つも未来の車に積んであるはずがない。間も無くして爆発音は止まったが、煙は出続けている。
「は、発煙筒?」
爆音が止まって解ったが、未来が投げたのは発煙筒だったのだ、発煙筒の廻りに、花火がテープで巻き付いて燃え尽きていた。
兵達の動きは止まっていた。
「三成さん。私達に何か御用でしょうか!」
未来は威風堂々と言った。
すると兵は左右に分かれ、その中央に道を作った。
ゆっくりと、馬に乗ったまま、三成が前に出る。徐々に発煙筒の煙も小さくなっていく。
「お迎えに参りましたぞ。大坂城で参りましょう」
三成は悪びれもせず言った。
「随分物々しいお迎えのようですが?」
「近隣諸国が騒がしくなりましたゆえ。馳せ参じました」
三成の瞳の奥がギラッと光った。
「珠緒、どうする?」
未来は私に意見を求めた。
私に迷いは無い。助手席の扉の横に立ったまま、三成に向き直った。
「私は・・・・・。私は、行かない。私は、大坂城へは行かない。忠興さんの所へ行きます!」
私は自分の想いを言い切った。未来は私の堂々とした態度に微笑んだ。
「・・・・・だ、そうです。じゃあ、そういう事で」
未来は、運転席側のドアを開け、私は助手席側に手を掛けた。
「そなたたちに選択権は御座らん。珠緒殿はキリスト教信者でしたな」
「それが何か?」
「先程、キリスト教は信仰禁止の発布がございました」
「・・・・・」
私は、眉間に皺を寄せて三成を見た。
「キリスト教を信仰することは、罪を犯したここと同じ事になりまする。しかし、我々は血も涙もないという訳ではない。大人しくご同行なされよ」
三成の一言に、車に乗りかけた未来が降りて、
「何を、訳解んないこと言っての。三成さん、お構いなく。私と珠緒は忠興さんの所に行きますから!」
と、強い口調で言った。
三成は苛立ちを見せる。
「問答ォ無用ョーッ。捕らえろ!」
その一言で、三成の軍は再び前進してくる。
私達は急いで車に飛び乗った。ドアを閉めたと同時に未来がギアに手を掛け、一気に 「R」に落とすとアクセルを踏み込んで、同時にハンドルを一杯まで右に切る。
車が一八〇度回転し、未来がギアを「D」に切り替え輪が逆回転して、地面に敷かれていた砂利が回転しながら放射状に飛び散った。
「うわーっ!」
悲鳴とともに兵士達の足が止まる。石の礫の雨が無数降りそそぐ。
しかし、それも足止め程度にしかならなかった。
「裏門へ抜けるわよ!」
未来はそう言って、ハンドルを強く握った。
「何かある?」
わたしは、助手席から身を乗り出して、後部座席の荷物をあたる。
「お弁当とか荷物がいっぱいで・・・・・」
「花火、爆竹、発煙筒、あと予備ガソリンとか残ってない?」
「ちょっと未来、あんたってば普段からそんな妖しげなものを積んでるの?」
私は未来を怪しい目で見た。
「あのね、ガソリンっつったって、ホワイトガソリンよ。キャンプで使うのよ」
「キャンプね。確かにそうだけど・・・・・」
「足元。後部座席の足元にあるでしょ」
未来にそう言われて、私は後部座席の足元を覗き込んだ。
「あっ、あったあった!」
私は、ホワイトガソリンの缶に手を掛けた。次の瞬間、車体が 左右に揺れて、私は後部座席に頭から倒れ込んだ。ホワイトガソリンの缶に他の物がぶつかって、ゴワンッと鈍い音がしたのを、私は知っていた。
「痛ぁーっ!」
「ゴメーンッ。珠緒、文句は後ろの方達に言ってね」
「もう、許さないっ!」
私は、後部座席の運転席側の窓を開けた。
右に屋敷、左に広がる美しい庭園。しかし、その庭園を眺める余裕も無く、河の流れのように整った庭石を巻き散らかしながら、車は蛇行している。
「早くっ。珠緒、そのホワイトガソリンを撒いて!」
「わ、わかってるけど・・・・・」
車窓から顔を出せば缶が出せず、缶を出せば顔が出ない。
「未来、ダメ。上手く撒けない・・・・・。あっ!」
車の揺れで、缶を持った私の手が窓枠に当たって地面に落としてしまった。
「未来っ!]
「仕方ない。珠緒、前に戻って!」
未来がそう言うと、カチッと音がした。
未来がカーステレオの下に手をやって、車載ライターのボタンを抜き取った。そしてそのまま、車外へ投げた。
しかし、何も起きない。私が落とした缶とライターの落ちた位置に距離があったのだ。
「未来っ!」
「チェッ、失敗したか、仕方ないわとにかく逃げ切る!」
未来は、ハンドルを右に切って、屋敷の裏門に向って最後のカーブを切った。
キー、ギュルルルッ!
曲ガッタ途端に未来がブレーキを踏み込んだ。
裏門が破壊され、更に潰された門の瓦礫の上に、大八車が数台積み上げてあった。これで乗用車が突っ切るのは不可能だと、私も未来も思った。
「未来、どうする?」
「表門なら、抜けられる。戻るしかないわ!」
未来は、険しい顔で言った。
「ええっ、あの群衆に飛び込むのォォォ!」
私がそう言った瞬間、未来はギアをバックに切り替えて、ハンドルを切った。
「ちょ、ちょっと!」
「珠緒、黙ってないと舌を噛むわよ!」
次の瞬間、車が庭石に乗って跳ねた。
「あわわわわッ」
屋敷の角を再び曲がり、表門への向うルートを再び直進しようとした。しかし、目の前には、三成の追手が迫っている。
「仕方ない。珠緒、後部座席の足元に白い缶に入ったガス欠用の予備のレギュラーガソリンがあるから、私が車を止めたら、キャップを開けて放り投げて!」
そう言って、未来はブレーキを踏んだ。
「えっ?」
私は耳を疑った。
車は右九十度に頭を振って停まった。
「珠緒、早く」
未来が急かす。私は未来に向って言った。
「白い缶なら、さっき投げたわよ」
次の瞬間、未来が顔面蒼白になった。
ー 切り札 ー
未来にとっての切り札だった、自動車用のガソリン缶を既に失っていたことは・・・・・。私達にとって、この屋敷から逃げ出す最後のアイテムであった。
それが、既に無い・・・・・。
「手を出し尽くしたってことォォォォォ!」
未来は両手で髪の毛を掴んで吠えた。
車は九十度反転、頭は屋敷を向いている。一気に切り替えし、正面強行突破するにも、十分なスペースがない。未来の腕では切り返しに5〜6回かかる。
そして、目の前には敵集団が・・・・・。
ガキーンッ!
一の太刀が、車の天井を叩いた。
「な、なにすんのよ!」
未来が、怒鳴った。同時に、
「この鉄の箱馬を抑えよ!」
と、外で声が響く。
ドスドスドスッ!
次に運転席、運転席後部のドアを突き刺す音がした。
「うがっ!」
刀の一本が、ドアを貫き私の右太股に刺さる。血が滲み出て刀の周りが紅く染まる。外に視線を移すと、ガラス越しに、ニヤリと笑う顔が見えた。
「幽斎様がな、細川の家が第一なそうな」
この武者の一言が、大きく胸に刺さった。
忠興の父、細川幽斎は、由緒ある細川家を護る為に、三成を使って強行に出たようであった。
由緒ある家。豊臣方西軍への忠誠。細川の血を護る為に最悪命を奪ってまでも忠興と私の間を割こうとしている。
「こ、これが、戦国・・・・・、時代・・・・・」
「た、珠緒ォォォ!」
未来が振り叫ぶ。
「だ、大丈夫よ・・・・・」
私の足の傷は深く無かった。寧ろ、刀によって傷つけられる現実と、策略によって陥れられようとしている精神的ダメージが大きかった。
「珠緒、しっかり掴まって!」
未来は、屋敷に向ってアクセルを踏み込んだ。
ドア貫き、私に傷を負わせた刀がバキンッと音を立て折れた。
「どうする気?」
「チマチマ、切り返ししている時間はないわ。屋敷に突っ込んで、座敷内でUターンする。襖破っても車への影響がないから、Uターンして屋敷から再び飛び出したら、一気に表門まで突っ切るわよ!」
「わ、わかった」
私は、後部から未来の座る運転席にしがみついた。
車は屋敷に向って進む。庭石が前輪を跳ね上げた。
ガクンッ!
「きゃあッ!」
屋敷の広縁に車の前輪が掛かる。駆動部分の後輪は右側が浮き、左側一本で屋敷に這い上がろうとしている。
未来は、レバーをドライブからローに落として、再びアクセルを踏み込む。
「こ、このぅ、あ・が・れぇ〜!」
未来の願いもむなしくタイヤはスリップする。
そして、車は、電線に絡まった凧のような状態になった。
気がつけば、完全に取り囲まれている。それでも、未来はアクセルを踏み続けた。
「そろそろ、観念されよ」
勝ち誇った表情で、三成が馬上から最後通告をする。
未来がどんなにアクセルを踏み込んでも、車は揺れるだけで精一杯。気がつけば、私の右足は足首まで真っ赤に染まっていた。
「忠興さん・・・・・」
私は峰野十字架を握り締め、最後に忠興のことを思った。
「いい加減、諦めろ」
運転席側後部ドアに近い、武者が未来に命令する。
万事休すと思った瞬間、とんでもないことが起きた。
ボーンッと爆音とともに炎が舞い上がる。先程投げたガソリンに車載ライターが火をつけたのだ。
一帯が炎に包まれ、三成の馬が暴れ出す。暴れる馬に煽られて、武者が三人車の後部にぶつかるように倒れ込んできた。その勢いで、車の後輪が何かに当たって、車が屋敷内に飛び込む。
「やったー!」
未来の歓喜の声が聞こえ、私はホッとした。
車は屋敷に飛び込み、直ぐに未来が右にハンドルを切る。Uターンして屋敷から飛び出す為に、和室に飛び込んだ瞬間にハンドルを切って、隣の部屋に続く襖を蹴散らした。次の瞬間、紅い炎が私達の車に襲い掛かるように包み込んだ。爆発したガソリンの炎が屋敷に燃え移っていたのだ。
そして次の瞬間、車体がガクンッと沈んだ。
建築基準法もない時代に車を支えるだけの床の強度はなかったのだ。津波のように襲い掛かる炎、もはや逃げ場は無かった。
アクセル踏み込む未来。車は必死になって沈んだ床を這い上がった。
「なんとかなるわ!」
未来が私を勇気づける。
もう一息で車は抜け出そうとしていた。
その時、ミシミシと撓る音がした。
「なにっ!」
私は周囲を見回す。
「なにって、何が?」
未来が、私に問う。
「何か変な音・・・・・」
そう言いかけて、直後に大きな破壊音がして、天井が焼け崩れた。
「きゃぁぁぁぁー。忠興さあーんっ!」
忠興の名を呼んだ私は、後部座席で倒れるように意識を失った。
「珠緒殿、珠緒殿・・・・・」
忠興の声で私は目を覚ました。
「ここは?」
私は身体を起こそうとした。
忠興が、そっと掛け布団に手をあてがい、左右に首を振った。
「無理をなさいますな」
忠興はやさしい瞳で言った。
「全ては終りました」
「終った?」
「ええ、もう心配いりませぬ」
「戦が終ったのですか・・・・・」
私の問いに忠興は笑って答えた。
「それより、珠緒殿、お加減はいかがかな?」
「ええ、もう大丈夫です」
と、答えた。しかし、何か不安だった。
「それは、安堵いたしました。それでは、ゆっくりと養生なさると良い」
そう言って忠興は立ち上がった。後ろの襖が開くと、忠興は吸い込まれるように、隣の部屋へ移った。
「ちょっと、待って!」
私が声を掛けても、返事をしない。
「忠興さん!」
布団から出て追いかけようと私は身を起こそうとしたが、動かなかった。
「ま、待って、忠興さん。待ってーッ」
何度も呼んだが、忠興は無言のまま私から離れていった。
私は、叫んだ。
「忠興さーんッ!」
そこで、私は再び目を覚ました。
白い天井が見える。辺りをゆっくり見回すとカーテンが掛かっていた。
左側を見ると点滴がゆっくりと落ちている。
「こ、ここは・・・・・」
頭をゆっくり廻して右側を見る。窓から明かりが差していた。人の姿がぼんやりと見えた。
「オハヨ。気分はどお?」
そこに居たのは、紛れも無く未来だった。
「未来ッ!」
私は、ベットにいた。身体を起こそうとしたが、右足に痛みが走り、再び頭を枕に沈めた。
「珠緒、足が痛むんでしょ。無理しないの。起きなくていいから」
未来は、そう言って私のベットの横に置いてある折畳み式の椅子に腰掛けた。
「こ、ここは・・・・・?」
「中央病院、5階外科病棟」
「中央病院?」
私は、枕元のカードを見た。そこには、確かに外科病棟・五十嵐珠緒様と書いてあった。
「そう、私達は帰ってきたのよ。あの時代から、帰ってきたの」
「帰ってきた・・・・・」
私は天井に視線を移して考えた。
「ええ、覚えている?高速道路で事故。あの、事故直後の時間に帰っていたの」
「事故直後の・・・・・」
私の頭の中は、まだぼんやりしていた。
「夢・・・・・?」
私は、あらためて未来の顔を見た。
「いいえ、夢じゃない。私達は時間の中を旅してきたのよ」
「そして、戻ってきた・・・・・?」
「そう、戻ってきた。戻るべき場所にね」」
未来は、小さい子に説明するように、ゆっくりと話をしてくれた。
高速道路での事故、その後に起こったこと。細川忠興や明智光秀でのこと。お互いに確かめ合うように、時間の経過を追って話をした。
「私達は何の為に、何をする為に、戦国時代なんて動乱の場に流されたんだろうか・・・・・」
私は窓の外を見た。そこには樹齢数百年の時を超えて立っているような、大きな楠の木があった。
「この楠の木は、この大きさになるまで、どれほどの人々を眺めてきたんだろう・・・・・」
「珠緒・・・・・」
「ただ、今は空しさがあるだけ・・・・・」
「空しいの?」
「ゴメンッ」
私は、未来に謝った。未来も同じ時間の中に居た。私だけが不安で苦しい想いをした訳ではない。ただ、心の奥では、細川忠興に対する想いを消し去ることは出来なかった。
未来が、不意に溜め息を吐いた。
「忠興さんが忘れられないって顔をしているわよ」
「えっ?」
「待ってね」
そう言って、未来は持参して足元に置いていた手提袋を、自分の膝の上に乗せた。
「そ、そんなことないよ・・・・」
「いいの、いいの。珠緒は隠せないタイプ。直ぐに顔に出るからね」
未来は手提袋から、A4サイズのコピー用紙を数枚出すと、私の枕元に置いた。そして、買ってきたばかりの本を三冊、サイドテーブルに置いて立ち上がった。
「珠緒」
未来の声に、私は目線を未来に移した。
「珠緒、何も言わずに、まあ読んでみて。その紙、昨日インターネットでの情報をアウトプットしたのよ。本はサービス♪」
「何よ?」
「まあ、いいから。私、珠緒の家に電話してくるわ。意識戻ったってね。あっ、それと、売店でなんか飲み物でもかってくる。珠緒は何か飲む?」
「ありがとう。それじゃあ、オレンジ」
「わかった。じゃあ、チョット行ってくるね」
未来は、自分の出した資料の説明を一切せず、病室から出ていった。
私は、意味深な言葉を残して退室した未来を見送ってから、印刷されたA4用紙を手に取ってみた。それぞれの、紙に赤いマーカーが引いてある
「忠興さんに関する事柄だわ・・・・・」
そこには、忠興の人生の年表があった。
「ええっ!」
その資料によれば、細川忠興には既に妻が居たのだ。
そんなはずはない。別蘭には本能寺の変の記述があり、織田信長が明智光秀の謀反にあると書かれている。この事件以前に、忠興に妻がいるとすれば、私達が知らないはずが無かった。
2枚目、3枚目と読んだ。そして、4枚目で私の手が止まった。
「こ、これはっ?!」
細川忠興の妻は、明智光秀の娘であった。
「これは、一体・・・・・」
私の胸は鳴り出し、軽いめまいを感じながらも、気を取り直して続きを読んだ。
そして、未来の記したマーカーが数行にわたって記されている項目があった。
細川ガラシャ。
明智光秀の三女として出生する。名前を「玉」いう。細川忠興の妻として嫁ぐが、本能寺の変によって、明智一族が処刑される。しかし、ガラシャは細川忠興の計らいにより人里は馴れた山中に幽閉され、処刑から逃れる。数年後、幽閉を解かれ細川家に帰るが、家内の確執により、信仰禁止をしりつつキリスト教に入信。洗礼を受けガラシャの名を与えられる。夫・忠興出兵中に豊臣方の命令を拒み、屋敷に火を放って命を絶つ。
私は、肩から力が抜け、文章を読む為に上げていた腕が、布団の上に落ちた。
病室のドアの脇に未来が立っていた。
「珠緒」
「わ、私は・・・・・」
私は、半信半疑だったが、未来の次の言葉で我に帰る。
「そうよ。珠緒は、歴史的に存在したのよ。玉=珠緒、ガラシャ=五十嵐。そして、細川ガラシャは、キリスト教信者」
未来は、歩きながら、そう説明して椅子に座った。
「わたしが、細川ガラシャ・・・・・」
「そう、少なくとも、あなたは、歴史的に細川忠興の妻として存在したのよ」
「わたしが、忠興さんの妻・・・・・」
何だか嬉しかった。細川忠興の妻であったことが、とても嬉しかった。
「よかった」
未来が呟いた。
「えっ?」
「正直、迷ったの。このことを知らせて、珠緒が辛い想いをするんじゃないかってね」
未来は微笑んだ。
私は首を左右に振った。
「いいえ、教えてくれて、ありがとう」
「大した事じゃないわよ」
未来は、ウィンクで答えた。
「ああ、珠緒。珠緒のお母さん、すぐに病院に来るって。まあ、しばらくは病院でゆっくりして早く身体直しなさいよ。卒業式も終ったことだし、丁度いいじゃない。それじゃね」
そう言って、未来は袋から、ジュースを一本出して、袖机の上に置くと立ち上がった。
「えっ、もう行くの?」
「これから、車を買いにね。今度は新車よ。し・ん・しゃ!」
「新車?」
「むふっ。廃車になった車のトランクの中から、茶碗が出てきてね。それを親戚の骨董屋に見てもらったら、大層な値段で売れてね。前のローン返して新車が買えるほど残ったのよ」
「なんで、また・・・・・」
「忠興さんからの贈り物よ。ちゃんと、手紙も入ってた」
「何ですって。それを、未来の独断で売っちゃったの?」
私は驚いた。
「まあね。私が売ったのは千利休の愛用品の茶碗。それで、珠緒の枕元にあるのが、忠興さんが作ったもの」
未来に、そう言われて枕元に手をやると、確かに茶碗があった。
「未来・・・・・」
「それじゃあね。珠緒!」
「ん?」
「退院したら、今度は新車でどっかいこうか?」
「もう、コリゴリよ!」
私は笑顔で答えた。
「じゃあね」
そう言って、未来は病室を後にする。わたしは、軽く手を振ってこたえた。
茶碗を手に取ろうとして、一緒にメモが置いてあるのに木が付いた。それは、忠興の手紙を現代用語にして書き移したものだった。おそらく、骨董屋の主人の字だろう。未来と違って達筆だった。
珠緒殿、そなたに出逢ってしばらくして、本能寺の騒ぎの後、忽然と姿を消された。便りも無く二年後に再会したとき、気がつきました。今度、出兵致しますが、必ず戻りますので、もう何処ににも行かないで欲しい。私が最も大切にしている自作の茶碗をお預けします。その茶碗を私と思って、再会できるその日迄持っていて下さい。
珠緒 殿
細 川 忠 興
私は、忠興からの手紙を枕元に置くと茶碗を手にした。しばらく見つめて、茶碗を頬に当て瞳を閉じた。その時に、涙が一滴零れた。
窓際のレースのカーテンが風に吹かれて、ふわふわと浮いている。
その窓の外で、街の時計棟の鐘が、鳴り始めた。
時計棟の鐘は、その音を耳にする全ての人々に平等に鳴り響いていた。