エピローグ
「――ヘンベイン、今回は特別任務だ」
「はい!」
影の本部で、総長は一人の女性諜報員へ任務を伝えていた。
すべての説明を終えると、隣に座るエレナへ目を向ける。
「ベラドンナ、何か補足はあるか?」
「いえ、問題ありません」
「では、さっそく潜入の準備に取り掛かります! 失礼します!」
ハキハキと答えると、ヘンベインは軽く頭を下げ立ち去っていく。
その場には総長とエレナが残された。
「お前もたまには現場に戻ってみるか?」
「ふふっ、それもいいかもしれませんね。でも総長、もう私が出る幕はありませんよ」
そう微笑みながら、エレナはヘンベインの後ろ姿に視線を送った。
エレナの結婚から五年。
結婚後しばらくは、公爵夫人でありながら影のエースとして活躍していたエレナも、二年前に一線を退いた。
今は影の特別顧問として、後進の育成に携わり、己が培った経験を次代へ伝えている。
「……ヘンベインは頼もしい諜報員に育ったな」
「はい。特に変装、潜入、色仕掛けは、きっと誰にも負けませんよ。今回の任務も安心して任せられます」
エレナは温かな眼差しを、遠くの方で仲間たちと話し合う彼女へ向けた。
「私ももう年だ。そろそろ後任を見繕う頃かもしれんな」
「もし真剣にお考えなら、特別顧問としてお手伝いしますのでおっしゃってください」
「ああ、その時は頼もう。だが……引退しても、これといってすることもないからな」
「総長、私は……総長のことを本当の父親のように思っています。なので、いつでも我が家にお越しください。私たち《《四人》》でお待ちしています」
エレナが真剣な面持ちで告げると、総長は一瞬目を見開いた。
そしてふっと唇に笑みを浮かべ、つぶやく。
「――それはありがたい。コーデリア様とカシアンへのいい土産話になりそうだ」
◇◇◇
その夜の夕食後。
エレナとジークヴァルトは居間でソファに並んで座り、今日一日の出来事を語り合っていた。
こうして互いの日常を分かち合う時間を、二人は大切にしている。
そこに流れる穏やかな空気は、かつて菓子店で過ごしたひとときを思わせた。
「そうか、総長がそんなことを」
「はい。私もジーク様も、すでに実の両親を亡くしていますから、ヴィンセントとフィオナには祖父母がいません。……だから総長がこの子たちを、祖父のように可愛がってくれたら嬉しいなと思って」
そう話しながら、エレナは己の腕の中で眠る、小さな男の子を見つめる。
ジークヴァルトもまた、瓜二つの小さな女の子を腕に抱いていた。
二人は一年半前、男女の双子に恵まれた。
エレナが現役を引退したのも、懐妊が理由だった。
「意外と総長は、孫を甘やかしそうだな」
その場面を想像したのか、ジークヴァルトが小さく吹き出す。
すると、そのわずかな動きに反応したのか、ふいにフィオナが目を覚ました。
「とーたま」
舌足らずな声を漏らし、小さな手でジークヴァルトの服をきゅっと掴む。
不思議なことに、ヴィンセントもつられるように目を覚まし、「かーたま」とエレナの方へ甘えるように頬を押しつけてきた。
エレナとジークヴァルトは、思わず顔を見合わせる。
「ふふっ、二人とも起きちゃいましたね」
「ほぼ同時にな。さすが双子だ」
二人は自然と笑顔をこぼし、笑い合う。
「あ、そうだ。忘れてた! 実は本部から戻った後、今日はお菓子を作ったんです。ジーク様、もしまだお腹に余裕があれば、召し上がりますか?」
「もちろんだ。私が菓子は別腹なのを、エレナもよく知っているだろう?」
「そうですね。しかも、林檎パイですから」
「それは楽しみだ」
エレナは息子をジークヴァルトに預けると、厨房に赴き、林檎パイを石窯で軽く温めた。
本来、公爵夫人が厨房に立つことなどない。
けれど、エレナは例外だ。
平民のエレナとして営んでいた菓子店は、さすがに続けられなくなってしまったため、その代わりに公爵邸で菓子を焼いている。
今ではジークヴァルト専属の菓子職人のようなものだった。
(今日は子ども用のお菓子も作ったのよね。喜んでくれるかしら?)
エレナは弾むような足取りで居間へ戻り、机上に菓子を並べた。
林檎の甘酸っぱい香りと、バターの香ばしい香りが部屋を満たしていく。
「いい匂いだ」
目元を綻ばせたジークヴァルトが、さっそく林檎パイを頬張る。
かつて眉間に皺を刻んで食べていた夫の顔に、今では隠しきれない幸福が浮かんでいた。
「これ、ほしい!」
「たべる!」
双子も目をキラキラ輝かせて、元気よく手足をばたつかせ始めた。
「ヴィンセントとフィオナは、こっちね?」
そう言ってエレナは、パイの代わりに、林檎のコンポートを差し出す。
子供用に砂糖控えめで、柔らかく煮た林檎を二人の口元へ運んだ。
「おいしー!」
「もっと、もっと!」
キャッキャッと笑顔を弾けさせる双子に、エレナはにっこり微笑んだ。
その時、ふと横顔に突き刺さるような視線を感じた。
(えっ?)
ハッとジークヴァルトを見れば、彼はじとりとした眼差しでエレナを見据えている。
「ジーク様?」
「初めて見る菓子だが……それは、新作か?」
「ええ、まぁ。試しに作ったものなので、新作といえば新作ですけど」
「私も食べたい」
「……ただ煮ただけですよ?」
「どんなものでも、林檎の新作だけは逃したくない」
やけに真剣な顔でそう言われ、エレナは思わず吹き出してしまった。
笑いで手を震わせながら、子どもたちにしたように夫の口元へ林檎を差し出す。
「甘さは控えめだが、林檎本来の甘みが引き出されていて、これはこれでうまいな。ワインと合いそうだ」
ジークヴァルトは目を閉じて感覚を研ぎ澄ましながら、熱心に感想を口にする。
そして咀嚼し終え、目を開けると――ふいにエレナの首裏に手を回して引き寄せた。
「んっ」
二人の唇が重なる。
その口づけは林檎の甘酸っぱい味がした。
「――やはり、どんな菓子よりも、エレナの唇が一番だな」
「もう、子どもの前ですよ……!」
エレナはほんのり頬を染め、夫を睨めつけながらも、胸が温かなものでいっぱいだった。
(心から愛する人と結ばれて、子宝にまで恵まれて……私は本当に幸せ者だわ)
こんな日がくるなんて、数年前までは思っていなかった。
ずっと見守ってくれた総長とシスター。
娘の幸せを願ってくれた母・コーデリア。
そして、命に代えてこの国の平和を守った父・カシアン。
今の自分があるのは、彼らのおかげだ。
(大切な人たちとの、このかけがえのない日々を守るために――私もこの国をジーク様と守っていくわ)
国家安全保障局長官の妻として。
影の特別顧問として。
そして双子の母として。
これからもジークヴァルトと互いの信念を尊重し、手を取り合って人生を歩んでいこうと、エレナは心に誓った。
〜END〜
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