(28)答え合わせ《蛇足最終話》
「……可哀想なミレーヌ。本当に、俺から逃げられると思っているなんて。
嘘でもいいから、俺を愛していると言えばよかったのに」
ミレーヌの頬を包んでいた掌が脱力したかのようにスルリと顔の輪郭を滑り落ちたのを合図にクラウドがポツリと呟いた。
ミレーヌを真上から見下ろす美しく整った顔には作り物のような感情の無い笑みをのせている。
(嘘でも、いいから……?)
ミレーヌはクラウドの凍りつくほどに冷たい瞳を見つめ返したまま、彼の薄い唇から落とされた言葉を反芻していた。
(……嘘でも愛していると言えばよかった、ですって? クラウドの言う愛の意味とは違うというのに……?)
クラウドが悪いわけじゃない。
ただ、知らないのだ。ミレーヌがどんな気持ちで義弟を見ているかなど。
それでも、言い知れぬ苛立ちと悲しみが湧き上がるのを抑えられない。
「言えるわけないじゃない……」
秘めたまま去るつもりだった。
知られたくなかった。
だから、逃げ出そうと決めたのだ。
クラウドに侮蔑に満ちた目を向けられたら、胸が張り裂けてしまいそうだったから。
(知れば、クラウドは私を軽蔑するわ。それとも、突き離せずに更に苦しむのかしら?)
大切な人なのに、いっそ苦しめてやりたいとさえ思ってしまう。
恋は、憧れた物語のように綺麗なものではなかった。
こんな惨めで汚い気持ちを自分が抱えてしまうなんて、思わなかった。
ミレーヌの大きな瞳からはとうとう耐えきれずに溢れた涙が零れ落ちた。
「私は、貴方に恋をしているのよ……」
※※※
声を震わせて吐露された言葉に、クラウドはピタリと動きを止めた。
どうしても自分から離れていくというのなら、仕方がない。
ミレーヌをひどく傷つけることになっても、実質的に縛りつける強行手段を選び取ろうと彼女の両手首を一纏めにしてソファに縫い付けたところだった。……のだが。
「………………、ミレーヌ、今…なんて?」
願望から来る幻聴だろうかと耳を疑うほど、これまでの経緯とミレーヌの言葉が頭の中でリンクしない。
(ミレーヌが、恋……俺に?)
まさか。
この期に及んで都合が良すぎる、とクラウドは自嘲しながらも激しく動揺していた。
その猜疑深い表情を不快が故と捉えたミレーヌが顔を青くしてボロリとまた涙を一粒零す。
「ルーカス様に言われたわ。私がクラウドに恋をしていると……」
「……ルーカス、が?」
「貴方は私の可愛い義弟なのに、私は、姉弟とは違う形で、貴方を愛しているんですって」
「おかしいでしょう?」と、苦しみに歪んだ笑みを浮かべ、瞳にはますます涙が溢れていく。
それと比例するようにクラウドの痛いほどだった手の力がゆっくりと抜け落ちて、ミレーヌは囚われていた自身の両手を引き抜くと流れ落ちる滴を隠すように顔を覆った。
「でも、それは、本当のことなの……」
細い指の隙間から小さく嗚咽が漏れるのをクラウドは呆然としたまま聞いていた。
彼女の心が手に入らないのなら身体だけでも自分に縛り付けてしまおう。心は無くともそばにいてくれれば良い。目を背けて、強く抱きしめてしまえば、きっとそれでも満たされるはずだ、と。
けれど、胸の奥深くではミレーヌからの愛を求めていた。
本当は、ずっと、それだけだった。
得られないと諦めていたものが唐突に目の前に差し出されている。
手を伸ばすよりも先に、瞬きを忘れたクラウドの瞳の片方からは一筋の滴が頬を伝っていた。
ミレーヌの顔を覆っていた手の甲に、ポトリと水滴が落ちる。
反射的に掌の隙間からふとクラウドを見上げると、まるで名画の一枚のような美しい顔が睫毛さえ震わせることもなくただ静かに涙を流していた。
「!!」
ミレーヌは驚きに息を飲んだ。
咄嗟に彼の両頬を自身の涙で濡れた掌で包み込む。
「クラウド、クラウド、ごめんなさい…っ」
義弟の泣き顔など、まだ十に満たない子供の頃に一、二度見た程度しかない。
ミレーヌにとってそれは自分が先程まで泣いていたことも忘れるほどの衝撃だった。
(傷つけてしまった。私は、なんて馬鹿なことを!)
家族なのに、義姉なのに。
自分は濁った感情を曝け出し、義弟を汚してしまった。あの一瞬、ミレーヌは確かにクラウドが自分の想いを知って、傷付けばいいとさえ思ったのだ。
「だ、大丈夫よ…っ、クラウドの結婚の邪魔なんてしないわ。お義父様にもお母様にも許してもらえるように、私がちゃんと頼んであげるから!」
ミレーヌは細い指の腹で彼の涙を拭い、頬を引き寄せ、幼い子に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。クラウドはされるがままにそんなミレーヌをただ見つめ返していた。
「私は貴方のことが一番大切なの。本当よ。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかった…っ、約束は果たせなくても貴方の足枷になるつもりはないわ!」
「……約束?」
ポツリと聞き返された言葉に、ミレーヌは頷いた。
「だって、こんな私が『保証人』にサインをする資格なんてないでしょう…?」
その言葉に瞳を見開いたクラウドは、頬を包んでいたミレーヌの手をゆっくりと引き剥がすと自身の片手で目元を抑え俯いた。
「ふっ…」と息の漏れる微かな音が聞こえると、次第にその腕や背中は小さく震え出す。
「クラウド……っ、ああ、泣かないで……」
「く、くくく…、あははははっ!」
「?!」
突然聞こえてきた場面にそぐわない笑い声にミレーヌはビクッと肩を揺らした。
「あはは、ははっ、まさか、嘘でしょうミレーヌ!」
本格的に泣かせてしまったかと思い胸が痛いくらいに締め付けられていたのに、なんとクラウドは自重からか顔を逸らしてはいるが、どうみても腹を抱えて笑っている。
「な、なに……? どうして笑うの?」
(もしや壊れた? 壊れたの?)
困惑するミレーヌへ笑う合間にチラリと視線を寄越したクラウドは、目が合うだけで堪らないとばかりに再び吹き出した。
「ちょっと……」
「ご、ごめん…っ、まって、だって、おかしくて!」
(おかしい!?)
どう考えても笑う場面ではないはずだ。
ましてこちらは彼の涙に狼狽え、心底愚行を後悔していたというのに、笑いのツボがどうかしている。
「ひ、酷いわ。私はこんなに真剣に話をしているのに……っ」
クラウドは深呼吸を数度繰り返したのちに漸く笑いを収めた。
ミレーヌは瞳を潤ませたままキッと眉を寄せてクラウドを睨むと、クラウドは目尻を下げてもう一度「ごめんね」と謝りながら、何事もなかったかのようにソファからミレーヌを抱き起こす。
その間ぼそりと「ああ、危なかった……」とため息混じりに呟いて、一度ギュッとミレーヌを抱きしめると呆気なく離れていった。
「???」
一体、あの涙はどこに行ったのか。
もしかして最初から幻でもみていたのだろうかと思うほど今のクラウドは鼻歌でも歌い出しそうなほどの上機嫌に見える。
「ねぇ、ミレーヌ。貴女が言っているのは、もしかして、婚姻誓約書のこと?」
訝しげにクラウドを見遣れば、彼は口端にはまだ笑みの残骸を残しながら胸の内ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、ミレーヌの目の前でヒラリと広げてみせた。
「よりによって、どうして保証人だなんて思うのかな。どう考えてもミレーヌがサインするのはコッチでしょう」
そうして、自身のサインの隣に並ぶ配偶者欄をちょんと指差す。
「……妻?」
「妻」
「……あ、え? だって、そこはアリアナ様の」
「アリアナ? 何それ」
「!?」
まるで初めて耳にした名前であるかのように、首をこてんと傾げられる。
「な、なにそれ……って、ナッちゃんの従姉妹のお嬢さんで、貴方がダンスのお相手をしたでしょう!」
「それが何?」
「な、な……に……!? なにって……アリアナ様は結婚するつもりだって言っていたのよ!」
「へえ、誰と?」
「誰っ、て……」
ワナワナと体を震わせていたミレーヌは、クラウドからの冷静な問いに対して段々と自分の記憶に自信がなくなってきた。
果たして本当にアリアナはクラウドと結婚すると言っていただろうか。
(言ってたわよね? え…違うの? わ、わからない……)
言っていたような気もするし、言っていないような気もする。けれど、当の本人は知らないらしい。そんなことがあるのだろうか。いや、ないだろう。それならやっぱり、何かが違うのかもしれない。
「……誰……、かしら……?」
「ふっ……! ゴホゴホッ」
ミレーヌが推理小説の主人公のような難しい顔をして呟くからクラウドは思わず吹き出したが、それをすぐさま咳払いで誤魔化した。
あまり笑いすぎるとミレーヌがヘソを曲げてしまうからだ。
「……笑った?」
「笑ってないよ。でも、少なくとも相手が俺でないことはわかってくれた?」
「うっ。で、でも、それならなぜ私が伯爵家から出……! ……あ?」
「うん。そう、それそれ」
「!?」
クラウドがミレーヌの表情から結論に考えが至ったことを察して肯定の返事をする。
ミレーヌは心を読まれた事に、さらに驚愕の表情を浮かべた。
「俺たちに血の繋がりはないけど、せめて体裁的にそうしておかないと頭の堅い親戚筋が納得しなくてね」
俺だって一瞬だろうとミレーヌが他家に入るなんて嫌なんだよ? と、底冷えするような笑顔とともに付け加えられた。その顔が相当嫌だと言っている。
「それに書類上だけで良いと言っているのにアムルートが『養子にするのなら一度きちんと子爵家で預かる』と言ってきかないんだ。ミレーヌの事となるとあの人は本当に口煩くて……。ちょっとシスコンすぎると思わない?」
いい歳して気持ち悪いよね、と眉を寄せているが盛大なブーメランとなって自分へ返ってきていることにクラウドは気付いていない。同族嫌悪とはこのことである。
(えっと、つまり、クラウドは結婚しない。……いや、する? 私と? ええ……?)
ミレーヌは流れ込んできた情報量の多さに困惑し、それらをうまく処理できずに頭を抱えそうになった。
あの婚姻誓約書はナタリアの夜会の後に出されたものだった。そんなに前からクラウドは自分と結婚しようと思っていたということだろうか。そう行きついては再び(何故?)と脳内で疑問が繰り返される。
「……私はクラウドの義姉よ?」
「そうだね」
「結婚って、夫婦として、一生を相手と添い遂げるということなのよ?」
「そうだね」
(そうだね? わかっててやっているの? じ、重症だわ……。クラウドがシスコンなのはわかっていたけれど、まさか、ここまで追い詰めてしまっていただなんて……)
自身が義弟に掛けた刷り込みという名のシスコンの呪いが、こんなにも根深いことにミレーヌは恐ろしくなった。
このまま呪いを利用してクラウドと結婚してしまう(やったね!)という手もあるが、それをやってしまうのはいくら悪い義姉の自覚があっても一生良心を痛めるだろうことが目に見えている。
「ミレーヌ、なぜ俺をそんな可哀想なものを見る目で見てくるの?」
「クラウド、あのね……私、貴方にずっと言ってなかったことがあるのだけれど」
今こそ義弟に悪夢の話を告白するときが来たのだ。
自分のしたことの後ろめたさと嫌われたくないという気持ちがせめぎ合い、ミレーヌが一瞬躊躇して口籠もると、クラウドが「あの夢のこと?」とアッサリ話を引き受けた。
「え」
「悪夢がどうとか言っていたよね」
「聞いていたの!?」
「たまたま聞こえたんだよ」
『たまたま』の域が広い。これは意図的に全部聞かれていたと思った方が良いかもしれない。
「俺がミレーヌを手にかけるだなんて、夢だとしても酷いよね」
ついさっきまで別の意味で手に掛けようとしていたことは棚に上げながら、内心あり得なくもないとクラウドは思っていた。
自分の性格から考えても、不要な物、まして不快な物であるのならいつまでも近くに置いておくことはない。
さすがに殺しはしないまでも、あのまま蔑ろにされ暮らしていたらそれなりの処理はしていそうだ、とも。
(……けれど、まあ、無いだろうな)
ミレーヌならば、おそらく夢のことがなくともクラウドを見捨てられなかっただろう。遅かれ早かれ今と同じ結果を辿っていたはずだ。
そして、それはクラウド自身も。
「クラウドは私がいかに利己的で性悪な義姉であるかを知っているというのに、平気なの?」
「言い方がアレだけど、たとえどんな思惑があろうともミレーヌと積み重ねた時間に変わりはないでしょう? まあ俺はミレーヌであればなんであろうと構わないよ。そんなことより」
「そんなこと!?」
長年心に淀み続けていた罪悪感や後ろめたさをどうでも良いことのように一蹴されたミレーヌは「あの、もっと何か……こう、ないの?」と戸惑いを露わにした。
クラウドは「ないよ」とあっさり告げてニコリと笑うとミレーヌの小さな手を救い上げその掌にわざと軽いリップ音を立ててキスを落とした。
「んなっ!?」
「ねえ、ミレーヌ。ミレーヌが俺の前から消えようとしたのは、俺が他の相手と結婚すると思っていたから?」
「!!」
「ミレーヌは、俺に恋をしてくれているって言ったよね? ああ、違う。俺を愛してるんだっけ?」
「!!??」
クラウドにとっては『そんな事』よりこっちの方が重要であると早々に話題を戻してきたが、ミレーヌにしてみればたまったものではない。
感情が昂りもう会わない覚悟をしたからこそこぼれ落としたミレーヌの秘めたる想いを蒸し返された。しかも思いっきり聞き返されている。
答えなどすでにわかっているはずなのに非常に良い笑顔で詰めてくるクラウドにミレーヌは顔を真っ赤にさせたままフルフルと震えた。
その反応にクラウドは更に花が咲くように顔を綻ばせる。
「ねえ、ミレーヌ。ミレーヌと、俺の愛は同じものだね」
「おなじ……」
クラウドのそれは『家族愛』ということだろう。
ミレーヌが首を振り「違う」「そうじゃない」と言い募ろうとすればするほど、クラウドは嬉しそうに相好を崩す。
「うーん、どう言えば信じてもらえるかな。そもそも、俺は貴女を姉だなんて思ったことは一度もないんだけど」
「え」
「この世でただひとりの女性として、愛してる。俺が妻にしたいのは最初から貴女だけだ。それ以外なんて考えた事もない」
ミレーヌが息を飲み、その大きな瞳がこぼれ落ちそうなほどに見開かれた。
クラウドのこれ以上ないストレートな告白に、はしたなくもポカンと口を開けてしまう。
(ひとりの女性として……)
その言葉に徐々に顔が熱くなってくる。
(そ、そう。え、そうなの……?)
異性として意識されていたと聞けば素直に嬉しい。
と、思うのに、長年姉だと思われていなかった事にも地味にショックを受けている自分がいる。
喜んでいいやら悲しんでいいやら複雑で不思議な心境に陥るミレーヌに畳み掛けるようにクラウドは続けた。
「俺は世間の目などどうでも良いし、ミレーヌがいれば子も要らない。ただ、生涯そばにいて。どうしても、俺は貴女なしでは生きていけそうにないから」
これまでのミレーヌの不安や誤解を解くように丁寧に言葉を尽くしてくれているのがわかる。
しかしミレーヌの中でクラウドは義弟から好きな異性にジョブチェンジしたばかりで自分の心の変化を受け入れるだけでもいっぱいいっぱいの状態だ。
これまでもクラウドからの似たような言葉や態度はあったのかもしれないが、一体自分がどう受け止めてきたのかが全く思い出せない。むしろ今となってはこの人を相手にしてきただなんて信じられないとさえ思う。
けれど、そんなクラウドから紡がれる愛の言葉の隙間に、ふと気が付いた。
ミレーヌを見つめるクラウドの瞳が揺れていることに。
ミレーヌの小さな手を包み込む熱い掌が僅かに震えていることに。
愛を確信しながらも、きっと彼は、今もミレーヌからの拒絶を恐れている。
「正直に言えば、まだ父の許しは得られていない。義理とはいえ姉弟の結婚をよく思わない者も多いだろう。それでも、必ず貴女を守るからどうか俺を信じてほしい」
赦しを乞うように、クラウドの視線がミレーヌに縋り付く。
「……怖い?」
そう問うクラウドは、いつもの自信に満ち溢れた彼ではなく。
時折、ノックするかのように繋いだ手を引いてミレーヌが自分へ振り返るのを待っていた小さな義弟がそこに佇んで居るかのようだった。
(……私の可愛い義弟は、まだここに居たのね)
ミレーヌは目元を緩りと細めてクラウドと向かい合い、宥めるように彼の額に自身の額をゆっくりと合わせた。
ピクリと反応したクラウドに構わず、そのまま穏やかな声音で語りかける。
「……大丈夫。大丈夫よ、クラウド」
想いを伝えるように、包まれていた手を彼の指に絡めてそっと握り返す。
「暗闇の探検なら私たち何度もしてきたじゃない。どんな場所だってふたりで手を繋いでいたら怖くないのよ。
クラウドも、知っているでしょう?」
ミレーヌは、ふふっと悪戯に微笑んだ。
一瞬瞠目したクラウドは「……うん。知ってる」と小さく呟くと、子供のように破顔してミレーヌを強く抱きしめた。
《蛇足・終》
お読みいただき、ありがとうございました。