23.妹君は浮き足立つ
「もうすぐ市内に着きますが、どうしますか?」
小窓からイーヴォが声をかけた。
彼とて若い男女が密室の中、互いに手を重ね合っている甘い雰囲気を醸し出されているところに、無粋な声などかけたくはなかった。
が、仕事だから仕方がないとむしろ気付かない振りをした。
「……門のところで降ろしてくれ。少し歩きたい」
「かしこまりました」
彼は小窓を片手で器用に閉めると、手綱を持ち直した。
馬車はやがて、ゆっくりと停車した。
「……降りる」
リーゼロッテの手を名残惜しそうに彼女の膝に戻すと、ユリウスは先に降りて行った。
彼に続いて降りようとすると手を差し伸べられる。
イーヴォの手……ではなく、ユリウスだ。
難しい顔を作った彼は「……手を」と言うと、気恥ずかしいのかほんの少し視線を外した。
つい先ほどまで握っていた手ではあるが、こうして改めて触れるとなるとどことなく照れくさい。
(いいえ、リーゼロッテ。これはエスコート。ただのエスコート。平常心に戻りましょう)
そう自分に言い聞かせ、ぎこちなくも無事地上に降りたてた。
「リーゼ、どうでした? この辺りの街道の風景は王都とは一味違うでしょう?」
御者席から降りたイーヴォがにっこりと笑って聞いてきたが、彼女は曖昧な笑みで当たり障りのない返答をした。
正直、馬車が止まるまでリーゼロッテは気が気ではなかった。
なにせユリウスと手を重ねて以来、ずっとそのままだったからだ。
とても車窓の風景を楽しむ余裕などない。
「では……ひととおり回ったら帰ってくる」
「はい、ごゆっくり。いってらっしゃいませ」
にこやかに送り出すイーヴォに背を向け、二人は市内へ続く門をくぐった。
門番との軽い問答を終え、市内に入ったリーゼロッテはその景色に目を見張った。
彼女が通った学院のある王都は、別名水の都とも呼ばれ一定の幅に整備された川や美しい橋の造形などが有名である。
いわば、自然や元の地形をある程度利用した佳景が特徴だ。
しかしこの辺境の地で市内、と呼ばれるこの都市は全く性質が異なる。
数本の大通りが放射状に伸び、そこから不規則にのびた小道には煉瓦造りの家がびっしりと立ち並んでいる。
ここまではよくある比較的栄えた都市の街並みだ。
しかし、他の都市との違いは、頑強に作られた二つの高さの違う城壁が都市をぐるりと囲む。
城壁の間に堅牢な防塁と、近くの川から引いてきたであろう堀が張り巡らされている。
等間隔に空いた望楼に、城壁より一回り高く作られた塔が数本そびえ立ち、兵士らしき人影が小さな蝋燭のようにじっと立っている。
これでもかというほど防衛に重きを置いた城郭都市を、彼女は見たことがなかった。
「珍しいか」
あっけにとられた彼女に、ユリウスが苦笑気味に訊ねた。
「……貿易の要所とお聞きしてはいましたが、これほどとは思っていませんでした」
「元は何百年も前に作られた砦だ。そこに平民が住むようになったのが始まりと言われてる」
ユリウスの言葉に彼女は城壁を見上げながらただただ頷いた。
「リーゼ」
彼はそっと腰に手を伸ばし、リーゼロッテを引き寄せる。
突然のことに驚く彼女はダクマーの時のことを思い出した。
あの時とは違い、彼の胸からは芳しい香りの中に僅かな汗の匂いがする。
(わ、私ったら……何を想像して……っ)
その直後に馬の嘶きとともに馬車が通り過ぎた。
どうやら道の往来で上ばかり見ていた彼女をさりげなく助けてくれたらしい。
「あ、ありがとうございます」
「いい。気にするな」
ユリウスは優しく笑うと、彼女の髪を愛でるように撫でた。
(私ったら、お上りさんみたいだったわ……ユリウス様の恥になってしまう)
図らずも往来で抱き合うような形になってしまった彼らを、通行人たちが好奇の目で見てくる。
いたたまれなくなってきた二人は「い、行くぞ」「は、はい行きましょう」とぎこちなく身体を離した。
市内に一歩足を踏み入れれば、先ほどまでは聞こえなかった喧騒が耳に飛び込んでくる。
大通りには背の高い建物から低い掘っ建て小屋まで商店がずらりと立ち並ぶ。
活気ある客引きの声と、行き交う人たちで往来は賑わっていた。
王都と比べてしまうとやや雑多な印象を受けるが、独特な空気感がリーゼロッテの心を浮き立てた。
「さて、どこへ行きたい」
「え? あ、あの……ユリウス様のご用事はよろしいのですか?」
「元々、今回は商人から話を聞くのが目的だったからな。リーゼの買い物のついでだとでも思ってくれ」
そう言うと彼は、返事を促すようにじっと彼女を見つめた。
しかし急に言われても初めて来た場所で行きたい店を言う方が難しい。
「ええと……では、手芸品……糸を取り扱っているお店があればそちらに」
「わかった」
少々難しい顔になってしまった彼女に、ユリウスはふっ、と頬を緩ませた。
思わず見惚れてしまうほどの微笑みに、彼女の胸がどきりと音を立てる。
未だに彼の微笑みは心臓に悪い。
春の陽気はおだやかで散策にはもってこいだった。
華やかな服装の人々が行き交い、その側を馬車が走る。
王都では見たこともない珍しい商品を取り扱う店に、新鮮でどこか懐かしく、つい見入ってしまう。
歩きながらそんな彼女を、ユリウスも穏やかに見守る。
彼の生暖かい眼差しに気づき、リーゼロッテは耳まで赤くして俯いた。
「……すみません」
「いや、いい。気にするな。馬車にさえ轢かれなければ、好きなように振る舞えばいい」
リーゼロッテは痛いところを突かれたように小さく呻いた。
僅かに顔を上げると、ユリウスが悪戯な笑みを浮かべている。
(ユリウス様ったら……もう、意地悪だわ)
「気を付けます」と蚊の鳴く声で言う彼女に彼は「そうしてくれ」と言うとゆっくり歩き出した。
歩調を合わせた彼の横を歩きながら、リーゼロッテは改めて思う。
ユリウスは優しい。優しくて強く、一緒にいると時折ドキドキする。
彼ともし本当に婚約──その先の結婚ができたなら、きっと片時もそばから離れないのに。
リーゼロッテは自分の追放者という立場を内心恨めしく思った。