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「覚える」と「憶える」  スタイルの多様性

 今回のテーマは「おぼえる」についての表記、すなわち「覚える」と「憶える」です。

 といっても今回は、どちらを使ったものか戸惑っている、という話ではありません。わたしの中には、「覚える」と「憶える」に関するかなり明確な使い分けの基準があります。「おぼえる」というのは多義的な単語であるわけですが、その基準というのはおおよそ次のようなものです。


知覚する:覚える(痛みを覚える)

習得する:覚える(運転を覚える)

記憶する:憶える(名前を憶える、あの事件を憶えている)


 つまり音声としては同じ「おぼえる」でも、表記の上では、その意味するところによって「覚」と「憶」を使い分けているわけですね。

 さて、では一体何が気になっているのかというと、それは、わたしのスタイルとは異なる表記もよく見かける、ということです。この違いが何によって生じているのか、前々から気になっていたのです。

 「おぼえる」の表記には、大まかに次の三つのタイプがあるように思います。


①「覚」と「憶」を使い分ける(細部はともかくとして)

②全て「覚」と表記

③全て平仮名で表記


 「覚」と平仮名を使い分ける、「覚」と「憶」と平仮名を使い分けるというのもあるかもしれません。もし、これら以外のタイプをご存知でしたら、是非ともお知らせください。

 今回特に問題にしたいのは、①と②の違いです。議論をしやすくするために、「おぼえる」には先ほど述べた「知覚する」「習得する」「記憶する」の三つの意味があるものとしましょう(国語辞典を引くと、古い用法も含めてもっと色々な語義が記載されているのですが、普段使うのはおおよそこの三つの意味だと思います)。また、先ほどのわたしが用いている基準を、とりあえず①の代表的な例としておきます。すると①と②の違いは、「記憶する」の意味の場合に「憶える」と書くか「覚える」と書くか、という違いだということになります。

 なぜ「記憶する」意の「おぼえる」を、ある人は「憶える」と書き、ある人は「覚える」と書くのでしょうか。人によって色々な根拠があるかもしれませんが、「覚える」と書くことについては、ひとつ有力と思われる根拠があります。そう、漢字使用の目安、例の常用漢字表です。

 常用漢字表に当たってみると、「覚」には「おぼえる」「さます」「さめる」という訓が記載されていますが、「憶」には訓がありません。前回、常用漢字表に従った表記は多くの人にとって読みやすい可能性がある、という話をしました。常用漢字表のこの効用を尊重するならば、「おぼえる」という語に常に「覚」の字を当てるのは、実に合理的なことです。もちろんわたしとしても、このスタイルを否定するつもりは全くありません。


 では次に、「記憶する」の意味で「憶える」と書くことの根拠を述べることにしましょう。これはわたしの個人的な考えではありますが、同時に「憶える」派の最も有力な拠り所ではないかと思います。

 それはすなわち、字の持つ意味です。三省堂の『漢辞海 第二版』を引いてみますと、「憶」の語義には「記憶する」と載っているのですが、「覚」の語義にはそれに当たる記載がありません。ただ、「日本語用法」の所に、「おぼえる。記憶する。習得する。」という記述があるだけです。

 つまり、「覚」という字の本来の意味(すなわち古典中国語中の単語としての意味)には、「記憶する」はないわけです。わたしは漢字の本来の意味、字そのものの意味に割とこだわるほうなので、「記憶する」意の「おぼえる」は「憶える」と書いている、というわけです。

 もっとも、漢字が日本においても長い年月使われてきたことはいうまでもないことです。その中で、日本独自の用法というのも生まれてきたわけですね。「記憶する」意の「おぼえる」に「覚」の字を当てる日本語用法は、おそらく、まず「知覚する」意の「おぼえる」に「覚」の字を当て、それから「おぼえる」ならどんな意味でも「覚える」と書くようになったのでしょうが、日本語の単語としては「おぼえる」というひとつの語であるわけですから、これは全く自然なことといえます。古典中国語における字義にこだわらず、日本独自の用法によって「おぼえる」を常に「覚える」と書くのも、もちろん間違いではないわけです。


 ところで、字の本来の意味といえば、「覚」には本来「習得する」の意味もありません。わたしが本当に字そのものの意味にこだわるというのなら、「知覚する」は「覚える」と、「記憶する」は「憶える」と、そして「習得する」は平仮名で「おぼえる」と書くべきかもしれません。

 あるいは、「習得する」を意味する字は「習」や「学」あたりでしょうから(漢文は得意じゃないのでちょっと自信ありませんが)、「おぼえる」とか「おぼえる」と書くという手も……いや、これはやめておきましょう。振り仮名がないと、誰も「おぼえる」とは読めません。言語において慣用はものすごく大事ですから、これはちょっと無理そうです。


 「おぼえる」についての話はこれくらいにして、せっかくですから、音声としては同じだけど意味によって漢字を使い分けているという語の例を、もう少し挙げてみることにしましょう。参考までに、わたしの書き分けの基準を示すこととします。自分のスタイルに似ているな、と感じる方もいらっしゃるでしょうし、自分とはかなり違うな、という方もいらっしゃるものと思います。


「みる」

一般的:見る(遠くを見る)

映画鑑賞:観る(『マイ・フェア・レディ』を観る)

診察する:診る(病人を診る)

看病する:看る(入院患者を看る)


 漫画か何かで、特別な意味合いを持たせて「視る」という表記を使っているのを見たこともあります。全て「見る」を使う、という人も多いでしょうね。


「きく」

自然ときこえる:聞く(雷鳴が聞こえる)

注意してきく:聴く(話を聴く)

質問する:訊く(名前を訊く)


 こう書くと簡単そうですが、小説を書いていると、「聞く」と「聴く」は本当に悩むことがあります。一度使い分けて書くと決めてしまった以上、ぞんざいにするわけにもいきませんしね。もちろん、全て「聞く」と書いても良いわけです。


「わかる」

判明する:判る(消息が判る)

理解する:解る(理屈が解る)

それ以外:分かる


 これは、字を使い分けている人でもかなり意見が分かれるところではないかと思います。全て「分かる」と書くというスタイル、また平仮名で「わかる」と書くというスタイルも見かけます。

 他にも「あう」とか「とる」とか「さす」とか、音声的には同じでもいくつかの表記がある言葉が、色々とありますね。


 以上、表記にゆれがあるいくつかの言葉について、簡単に検討してきました。重要なことなので特にお断りしておくのですが、本稿は、特定の表記法が唯一正しいと主張するものでも、また特定の表記法を否定するものでもありません。まず事実としてスタイルの多様性を認めた上で、ではなぜ色々あるのかをじっくり考えてみると面白い発見がありそうだ、という動機で書いたものであります。付け加えるならば、こういった言葉の問題に関心がある方々と、その面白さを共有したい、ということもあります。

 また何か言葉について気になることがあれば、このような形で再びまとめてみるかもしれません。とりあえず今回は、ここまでとしておきましょう。お読みいただき、ありがとうございました。




今後取り組んでみたい、日本語について気になること

・会話文の最後に句点を打つ人と打たない人がいるのは、何が原因なのか。

・「こんにちは」を「こんにちわ」と表記する人が増えているのは、何に起因しているのか。

・なぜ「ある」は動詞で「ない」は形容詞なのか、また「いない」とは言えるのに「あらない」とは言えないのか。



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