15
気がついたとき、背中に温もりを感じた。
「…………間に、あった……か」
声は、あり得ない。
こんな所に居る云々より。
「な、んで? しばらく、ムリとか……昨日」
「……オレは平気、だ。キミが、辛い思いをするよりは……ずっと」
背中から聞こえた声は、やっぱりだけど辛そうだ。昨日の帰り道と、同じ。今朝声をかけた時と、同じ。
ムリをしている。
ムリをして、何で居るんだろう?
何で、背中から抱きしめているの?
「――晴夏、大丈夫?」
「えっと……何が?」
「何がって、急に頭を抱えて倒れたのよ」
「それで、どうしたらいいか分からなくて、救急車を呼ぼうかパニックになってたら……」
彼が、来たという。
それにしても――と考える。
急に頭を抱えて倒れたとか、自覚がない。記憶が確かなら、バスが来ちゃうと引っ張られ、時計を見たのが九時一分。
あと四分だった。
今は九時三十二分。バスはもう、行った後。
空白の三十一分。
一瞬、何かがフラッシュバックする。
視界が白く、そして黒くなり……広がって行くのは、赤。
そこに沈むのは、サイズの違う二つの肌色。
聞こえたのは、多重のサイレン。競うように激しくなっている。
漂ったのは、危険な匂い。ツンッとした。
「っ!」
ズキリッとした痛みに、
「思い、出した」
どうして忘れていたのか。どうして気にもしなかったのか。
それは多分、閉じ込めていたもの。
それはきっと、忘れたかったこと。
夢じゃなかった。
全て、現実にあったこと。自覚し、思い出した。
「晴夏?」
「ね、ねぇ、大丈夫? 救急車、呼ばなくていいの?」
「そ、そうだよ。晴夏、病院行こうよ。ちゃんと検査してもらおうよ!」
戸惑いの声。
わたしは首を振って、『大丈夫』と言った。これは体調が悪い訳じゃなくて、記憶が戻ったことによる……疲労、だと思う。
心の。
「本当に大丈夫。朝、少し眩暈がしていたから……多分、風邪でもひいちゃったかも」
「晴夏」
「ごめんね。せっかく遊びに行こうって時に風邪なんか引いちゃって。大丈夫だけど、ごめんね」
どんなに大丈夫と言っても、友だちは信じてくれない。
それでも信じてもらえるよう、精一杯笑って『大丈夫だから』と『ごめんね』を伝え続けた。彼の手を握り続けたまま。
「…………今度、必ず埋め合わせしてね」
「約束よ、晴夏」
「分かった。約束する。本当に、台無しにしちゃってごめん」
月曜日に元気な顔を見せてねと、友だちが帰って行く。
『またね』も『バイバイ』も、ない。
こんなもの、なのだろうか。
その言葉はまだ、言うべきじゃない。
友だちの姿が見えなくなって、ああ本当に帰ったんだと思うと、少し悲しい気がする。
だけど『少し』なのは、彼が居るおかげ……かな。
「ベンチまで歩けるか?」
「ん。大丈夫」
手を引かれ、ゆっくり歩く。
休日の公園なのに、遊ぶ子どもはなし。散歩をする人も、通り抜ける人も。
しばらくの沈黙。
握り続けている手は、何だか勇気を与えてくれている気がした。
「ねぇ、さっき言った辛い思いって……アレ、なんだね。だって、アレは――」
アレは、血と人だから。
聞こえた多重のサイレンは、警察と消防と、救急車。
漂ったのは何の匂いか、まだ分からない。
広がる赤は間違いなく人間の……血。そこに沈んだサイズの違う二つの手は、
「父さんと母さん。もう、死んでいたんだね」
間違うはずもない。
あれは、父さんと母さんだ。万年新婚夫婦で、いつも結婚指輪を身に着けていた。
もう……居なかった。この世界に存在しない。
何で、忘れてしまったんだろう。
「思い出してしまったか」
「うん。兄さんは知って……なきゃ、おかしいよね」
「口止めしたのはオレだ」
「え、何で?」
「…………狂った事例を、見てきたから」
それは、言われた本人が一番辛いことだと言う。
大切な人を失った人は、生きる糧が必要だ。
一つが、生きていると思い込むこと。けどそれは、他人から見れば心が病んで痛々しかったり、奇異の目で見られたりする。
生きることを諦めるよりは、いいのに。
人は『正常』にしようと踏み込んだりする。本当はもう居ないことを無理やり言い聞かせ、その結果が……狂い、なのだと。
狂いは、破壊と崩壊しかない。
「……どうして、そこまで」
「約束、だから」
「兄さんと?」
弱々しくだが『違う』と首を振り、わたしの肩に頭を預けた。
閉じられた目。心なしか、顔色が悪い。
「約束だからって、身体張らなくてもいいのに。倒れちゃったら守れないよ?」
「……分かっている。オレがそうしたいから……そうするだけ、さ」
「結構、バカだよね」
「……兄さんにも、言われた」
ポロリと零れた言葉。
兄さんは、彼の兄さん。そんなのは、確かめなくても聞かなくても分かる。
見えたようで、まだ見えない彼。
だけど……だけど、大切な――人。
ああ、そっか。わたしは彼を、そんな風に思っていたんだ。
好きとか、嫌いとか言う前に。わたしにとっての彼が、どんな存在なのか。
「ありがとう」
大切な人が側に居る。
ただそれだけで、温かかった。




