第5話 星のふる洞窟
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あれから、どのくらい歩いたのだろうか。
スニーカー越しに伝わる土の硬さにもすっかり慣れて、足の裏の感覚が少しずつ麻痺してきた頃、いつのまにか日が暮れてきていた。
異世界の夜の訪れは、現代の日本と比べ物にならないほど早くて、そして圧倒的に暗い。街灯も、ビルから漏れる明かりも、遠くを走る車のヘッドライトもない。太陽が山の向こうに沈み切ると、世界は一瞬にして濃厚な闇に塗りつぶされていく。
「……さすがに、野宿はまずいか」
アルの手製の手記には、『夜の街道は夜行性の魔物や野犬が出るから、身を隠せる場所を探せ』と書かれていた。焦りながら周囲をそわそわと見回すと、街道から少し外れた岩肌に、ぽっかりと口を開けた小さな洞窟を見つけた。奥行きは数メートルほどで、奥に何かが潜んでいる気配はない。
僕は今日の寝床を、その薄暗い洞窟の中に決めた。
外から見えないよう、入り口の近くに手頃な岩や枯れ枝を少し寄せて遮蔽物を作る。それだけでも、吹き抜ける夜風が遮られて少しだけ体感温度が上がった気がした。
パチパチと火を起こすような高等な技術は、今の僕にはない。闇に目が慣れてくると、洞窟の隙間から覗く、吸い込まれそうなほど綺麗な満天の星空が見えた。現実世界では決して見ることのできない、圧倒的な星の数。まるで、天然のプラネタリウムの中に閉じ込められたみたいだ。
ゴツゴツとした岩の地面に横たわり、アルからもらった教科書や地図が入った革の袋を、少し潰して頭の下に敷く。即席の枕だ。
「つ、つら……めちゃくちゃ痛い……」
寝返りを打つたびに、背中や腰に容赦なく岩の硬さが突き刺さる。17年間、ふかふかのベッドで寝ていた僕の体にとって、この環境は控えめに言っても最悪だった。明日には間違いなく全身が筋肉痛で悲鳴を上げているだろう。
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じっと横たわっていると、昼間の疲れがドッと押し寄せてくる。
ふくらはぎはパンパンに張り、スニーカーの中で足の指がじんじんと熱を持っていた。日本にいた頃は、駅から家まで歩くのすら面倒で、よく親に車での迎えを頼んでいたっけ。そんな甘ったれた日常が、まるで何年も前のことのように遠く感じられる。
真っ暗な洞窟の中、時折、遠くの森から「アオーン」という、犬とも狼ともつかない不気味な遠吠えが聞こえてきた。そのたびに僕の心臓はドクンと跳ね上がり、反射的に身体を丸めて息を潜める。
(……本当に、僕は別の世界に来てしまったんだな)
昼間は歩くことに必死で紛れていていた実感が、静寂の中で一気に押し寄せてくる。スマートフォンを見ようと無意識にポケットに手を伸ばしかけ、元の世界のものは、今着ている服以外なにもないこと思い出して手を止めた。今の僕には、タイムラインも、友達の日常の呟きも、動画サイトのくだらない広告も、ここには何一つ存在しなかった。
孤独と恐怖が、冷たい霧のように足元から這い上がってくる。もし、あのままあの町に引きこもっていたら。今頃どうなっていただろう。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
冷たい風の音を聴きながら、袋のなかの手紙の存在を意識する。
ゴワゴワとした手触りの革袋にそっと触れてみる。その中には、アルが不器用な字で僕のために書いてくれた手記と、小さな護符が入っている。
あんな風に、僕のために何かを遺そうとしてくれた人がいた。あのさびれた街に、僕の無事を祈ってくれている人がいる。言葉も文化も違う異邦人の僕を、あいつは「仲間」として送り出してくれたんだ。
ただそれだけの事実が、冷え切った洞窟の中で、僕の心をじんわりと満たしていく。
誰もいないはずの暗闇の中で、不思議と独りぼっちではないような、奇妙な安心感があった。
体は痛いが、少しだけ、心があったかかった。
「……おやすみ、みんな」
誰に言うでもなく呟いて、僕はそっと目を閉じた。
目を閉じると、やっぱりまだ、あの日の学校の放課後、夕日に照らされた教室のあの子の顔がぼんやりと浮かんでくる。よく笑い、よく怒り、僕のくだらない冗談に付き合ってくれた友達の顔。日常という名の、温くて心地よかった檻。
けれど、今の僕の耳に届くのは、SNSの通知音ではなく、異世界の静かな虫の声と、夜風が木々を揺らす音だけだった。
それはどこまでも冷徹で、けれど同時に、僕が今ここで確かに生きていることを教えてくれるリアルな音だった。
明日も、また歩かなければならない。どこへ続くかもわからない道を、この足で一歩ずつ。
不安がないと言えば嘘になる。それでも、僕の胸の奥には、小さくとも消えない灯火が灯っていた。
深く息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たす。
僕はゆっくりと、深い眠りへと落ちていった。
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