ひとりぼっち
《ひとりぼっち》
私は生来、運の悪い人間だった。
ただ道を歩いているだけで自転車とぶつかり舌打ちされ、酔っぱらいの揉め事に遭遇し、予報にもない雨が降り出すという始末。そもそも、こんな全国屈指の治安が悪い地域に住み、なんならずっとそこで暮らしてきた家系に生まれてきたことから、すでに私の凶運さが見て取れる。
さあ、でも今は運の悪さを嘆いている場合ではない。このままでは学校の朝礼に間に合わなくなる。先週自転車が故障してしまい、この距離を歩いて通学しているので、普段よりかなり時間がかかってしまうのだ。
第一志望だった公立高校に落ち、滑り止めとして受けていた私立に入学した後になって他人の入試の不正行為が発覚した。それがなかったら私は合格していたらしいが、だからと言って高校を入りなおすのも面倒で、結局は家から地味に遠いその私立高校に通い続けている。
ここは治安は悪いが別に都会ではない。公共交通機関は発達していないし色々と面倒だから、自転車が無理なら歩くしかないのだ。
イライラしながら、薄汚い道を早足で進む。盗まれないよう常にポケットに入れている財布の中の小銭がジャラジャラ音を立てた。
今は何時だろう。最悪、ダッシュすれば間に合うか……。
せっかく特進クラスにいるのだから、せめて優等生枠に入っていたい。だからいつも学校生活はきちんとしている。体調不良でもないのに遅刻はしたくない。
歩みは緩めずに、スカートのポケットを漁りスマホを引っ張り出す。
「…………え」
はっ、と、なにかを感じて視線を前に戻した。
あ。
さすがに死んだわ、私。
目の前にあったのは、明らかに車道を外れてフルスピードで進むトラック。
一瞬スローになるような世界で、私は妙に冷静だった。それはもう、運転席のおっちゃんが居眠りしてるのがはっきり認識できるくらい。
あー。死んだ。
さっすがこの私だ。運が悪い。
すべてを諦め、目を閉じる。自分の身体がどうかなるところなんて見たくない。
そう、覚悟していたのだけれど。
「…………あれ?」
覚悟に反して、ぶつかる衝撃も、音も痛みも何もなかった。
いくら待てども、なんにも。
もしかしたら、即死したせいでなにも感じなかったのかな。
いや、でも、まだたしかに生きているような感覚があるけれど……。
なにかおかしいと思い、恐る恐る目を開ける。
大きなトラックの顔は、まだ目の前にあった。
目の前で、静止していた。
「はぁっ、嘘!?」
いや、あそこでブレーキかけて間に合うわけない!
トラックの陰で目を疑いつつ、運転席を凝視する。おっちゃんはまだ首を盛大に傾けて眠っている。
――これは死ぬ直前の妄想か何かなのか? 無意識な現実逃避か?
数々の死にかけた経験を持つ私でも、さすがにこれは初めてだ。死にそうになっても、走馬灯も何もまったく見たことないのに。
まさか、視界がとんでもないスローモーションになっているのだろうか?
いや、トラックは明らかにぴたりと止まっている。
なんだ、これは……。
「よっ、ゆっこちゃん」
「……はぁ!?」
突然快活そうな声が響き、あたりを見回して声の主を探す。
でも、さっきと変わらず、誰もいない。
すると、ははっと笑い声が聞こえた。
「ゆっこちゃん、上だよ、上」
「上?」
言われるがままにふっと上を向く。
「……うわあっ!? 誰っ、なんしてんの!?」
「えー?」
上、目と鼻の先で静止したトラックの上、そこには足をそろえて座っている人影があった。
「私のこと、見えるよねー?」
「見えますっ」
「それならオーケーオッケー♪」
「お、桶井産業?」
「そのCM今もやってるの?」
「は、はい?」
「そういえばこのトラック、オーケーオッケー桶井産業! のやつだよ」
「……それがどうしたん?」
「あははっ。ちょーどうでもいいね」
その人は笑うと、何メートルもあるトラックの上からひらりと飛び降りた。
「え、危なっ……!」
思わずぎゅっと目を閉じたが、その人は私の横に軽やかに着地した。まるで体重がないみたいに、なんの音も立てず。
私より少しだけ背が低く、近くで見ると同い年くらいの少女のようだ。透けそうなほどに白い肌に、言語化できないような色の瞳。髪は長くてゆるくふたつに束ねられている。そして、ファンタジーの中とかでしか見ないような不思議な服。ダークな紫なのに、素材と形が柔らかい印象を作っている。すべてにおいてミステリアスだ。
こんな言葉が浮かぶなんて恥ずかしいが、まるで、妖精みたいだと思った。
「ところでさ、今、時間が止まってるんだよね。だから遅刻する心配はしなくてオッケー」
「……え」
こんな緊急事態の中でも遅刻のことを考えていたのを見抜かれてしまった。
いや、そうじゃなくて。時間が止まってる、って?
「どゆこと?」
「端的に説明しますとですね、ゆっこちゃんが危うく死にかけて、ってかそのままにしてたら死んでて、死なないように私がぱぱっと時を止めたってわけ」
「はぁ?」
「あんたほんっとに運悪いねぇ。今回こそはガチで死んでたよ」
「え、てことは、もう死なんの?」
「まあそうだね。今は死なない」
そう言うと、彼女は服の布同士の隙間に手を突っ込んでなにやら捜し始めた。そのようには見えないが、そこにポケット的なものがあるらしい。
「たしかここに……あった!」
妖精のような彼女の手には、ひとつの瓶が握られていた。よく見ると、ペンも。
「はい、これあげるね」
「えっ…………ええ?」
「ええ? って思うよねぇ。まあ説明を聞きなはれやーゆっこちゃん」
妖精のこのふざけた感じと呼び方、どこか既視感があった。けれど、次の瞬間には真剣な顔をして話しだしたので、私は口をつぐむ。
「幸運なあなたへ」
「っ……………………」
「あなたは今、死んだけど、私によって一瓶分の未来を授かりました」
「一瓶分の、未来?」
「うん」
私は、手の中の瓶を見つめる。インク瓶のようで、深紫色のインクでいっぱいに満たされていた。
「ゆっこちゃんは、そのインクとペンを使って、自分の未来を書いていかないといけないの」
「書かないとどうなる?」
「自分以外の時間が止まったまま進まない」
「えっ、それいいじゃん」
すると、彼女が意味ありげで複雑な表情をした。
「そんなにいいもんじゃないよ、時が止まった世界って」
「へぇ」
「聞く気はなさそうだねっ。まあいいや。で、書いたことはすべてそのまま現実になるから、どんな願いでも書けば叶えられる。でも、人間の生死に関することには抗えないから叶わないよ。それだけ気をつけて」
「まじか……じゃあ、インクが切れたら?」
「そのときは寿命だ。あ、書いてインクを使い切ったわけじゃなくても、瓶からすべてこぼしちゃったりしたら一緒だから細心の注意をよろです」
「はい」
「逆に言えば、インクさえ残っていれば絶対に死ぬことはないからね。有意義に使うように!」
まじか。
これは、すごい。
すごいものを手に入れてしまった。
「浮かれてびゃーって使ったらすぐ無くなっちゃうからね? あ、あと、必ずその万年筆に入れて使うんだよ?」
「大丈夫」
「……そっ」
ジャムの瓶を前後に少し潰したようなサイズの瓶に、インクは満タンに入っている。万年筆を使ったことはないのでどれくらいインクが持つのか予想はできないが、普通のインクではないようだし、工夫次第でどうにでもなるだろう。
なにより、これは願いが叶うインクなんだ。
なんて、良いものを。
私の一生分の不運は、今、回収された。
そっか、そこの釣り合いを取るために今まで運が悪かったのか。
それなら許せる。
「じゃ、私そろそろ戻るよ?」
「え?」
妖精の声に、はっとする。
「……またね、ゆっこちゃん」
そう言うと、彼女はトラックの陰に姿を消した。
「え、え、ちょっと」
慌てて覗いてみても、もう誰もいなかった。この一瞬でどこに移動したのかは全くわからないけど、まあいい。妖精なんだから理屈じゃ説明できなくても仕方ない。
「……さて」
さて、時間を進めるために未来を書かなくては。
そう思ったけど、なんせ遅刻危機だから学校の近くに着いてからにしようと思いつき、瓶とペンをタオルで厳重に包んで鞄にしまった。
さあ行こう。
……あ。
ふと、トラックの運転手のことが気にかかった。
時が進めば、このトラックは再び動き出すんだろうか。
もし、元の勢いのまま突き進んだら……。
……しょうがない。面倒だけど、時間も止まっていることだし。
それから私は、運転席から寝ているおっちゃんを引きずり出し、トラックが来ない方向の街路樹の根本になんとか連れて来てから、やっと学校へと向かった。
私は、このインクの使い方について、綿密に計画を練ることにした。
最終目標は、誰からも不運な女なんて呼ばれなくなること。
自身の凶運さに振り回され、やりたいことがなんにもできない人生はもう終わりだ。
そのためには、まずはこの家から、この街から、出なければいけない。
「ただいま」
「愛妃子、おかえり」
単純な名のくせにすんなり読んでもらえることが少ないこの名前も、私の運が悪いことに関係している。子供の名前はできるだけシンプルなものを好んでいた両親が、私に限って熟考したせいだ。なんでそうなったかというと、私は生まれる前にも一度死にかけていたから。それだけあって親の想いが募ってしまったのだ。
そんな家族の中では、私は完全に「運の悪い子」としてしか扱われていない。それほど不運が多すぎたのだ。
「ゆいちゃん、今日はなんにもなかった?」
「毎日心配せんでいいよ、ばーちゃん」
「そうかい。でも今日はお父さんが大変だったみたいだねぇ……」
「え、なんかあったの?」
すると、料理中のお母さんが口を挟んだ。
「仕事場のトラックが事故起こしたんやって。まあ怪我人も死人も出なかったらしいけど」
「あ、あー……」
父の勤め先は桶井産業だ。そういえばそうだった。
「あんたが不運持ち込んだんじゃないやろね?」
「違うわ」
いや、違くない。
「そういえば、今日みんな習い事?」
「うん。武志と瑛太は野球で莉子はバレエ」
「そっ」
どうりで家が静かだと思った。下の兄弟たちはみんな不在だったのか。
怪我をしたり教室が閉まったりで、幼少期に私が始めた習い事は全部すぐに辞めてしまっていた。私とは違い凶運なんて持ってない弟や妹たちは、長く続けられているから羨ましい。
まあ、いい。
これから私が誰よりも強運になってやるんだから。
家の2階に駆け上がる。兄弟が多い上に3世代で暮らしているから、自分専用の部屋なんてあるはずがない。狭い部屋を妹と共用だ。
なんとかして配置されている勉強机の上に、宿題などと共にインク瓶と、それから万年筆を置く。仏壇の木のようなもので作られた万年筆は、昔の文豪が使っていそうで格好いい。
しばらくは焦らずに、インクの減るスピードがどのくらいのものなのかを確かめることとしよう。将来的な使い方を細かく決めていくのは、それからだ。
この家を、家系を出て、この街を出て、できることならこの国からも出ていきたい。国の学校の勉強でわかることが、この国の将来が落ちていくことくらい。そんな国からは出ていけるものなら有り難い。
それに、好都合なことに、私は英語が好きで、なんなら外国語を専攻できる大学に進学したいと思っていた。我が家にそんなお金があるのかとは思うが、そこはインクの力でなんとかなるかもしれない。
幸い、こんな不運な人間でも頭だけは切れるのだ。誰よりも長く充実した人生を生きて、私を嗤った人たちを見返してやる。
そう強く決心して、私のインクと共に生きる日々が始まった。
「愛妃子は運が悪いかいなぁ。早死にすんなよぉ」
「はあ、酒とタバコばっかりの父ちゃんが一番先に死にそうやけんね」
「こら、食事の場でそんな話せんのふたりとも」
酔っ払うたびに息子や娘たちの将来の想像話を始め、私には「早死にする」しか言ってこない父。いつか身体壊してもインクの力なんて貸してやらないと決めている。でも、生死に関することはインクでも動かせないのか。じゃあもう仕方ない。
「瑛太は勉強ができるから大学に行くかなぁ、な?」
「小学生に言ってもわからんやろ」
「父ちゃん頑張るからなぁ。好きなところに行けよ」
「……ごちそうさま」
食べ終わるやいなや、私は2階に駆け上がる。
妹がいないうちに、次の未来を書いてしまわないといけない。わがままな妹にあのインク瓶と万年筆が見つかったら、どうせ「見せて使わせて」が始まってしまうから。
使っていない古いリュックサックの中に隠している、小さくて頑丈なケースを取り出す。中にはスポンジを詰めて瓶とペンを保護した。ここに入れておけば、どんな地震があろうとも大丈夫だ。
ひと通り書き終えて、瓶の中を見つめる。すでに1週間分ほどは書いたが、まだ全く減っていないように見えた。やはり、普通のインクよりも減りが遅いのだろう。
何か間違いがないか、未来を書いたノートをざっと見返した。できるだけ小さい字で書くことを気をつけるために、かなり小さなサイズのノートを選んで使っている。インクの節約だ。
この調子で行けば、本当に誰よりも長生きすることができるかもしれない。インクに限りがあるので長さには期待していなかったが、もし太く長く生きることができるのならそれが一番に決まっている。
にやりとして、またインク瓶たちを元の場所に戻した。そして、学習道具を取り出して広げる。
成功のためには、努力ももちろん必要だ。努力だけじゃどうにもならないことがたくさんあるのは誰よりも知っているつもりだが、やっぱり自分が勉強しないことには何にもできない。
それを、それをわかってないやつらに、不運なやつはなにしてもだめだな、なんて運のことだけ言われてたまるか。
魔法で運を引きつけて、誰よりも、幸せになってやる。
それだけを燃料に、私はひたすら勉学に励んだ。
数年後、私は晴れて目標だった国際学部に合格した。
インク瓶を手に入れてから今までの間に、私の憧れは外国語専攻から変化していた。もっと国際社会問題に関わって、発展途上の国を変えられるような、そんなリーダーシップのある人になりたかった。
大学進学にあたって、私は初めて生まれ育ったこの街を出た。つまり、この家も出ることになる。
ひとつめの目標を、ようやくクリアしたのだ。
これもすべて、インクの魔法のおかげだ。魔法がなきゃ、どうせ運の悪さで大学に落ち、そもそも進学するお金なんてなくて、私は働かされていただろう。この薄暗く汚い街で。
新幹線から外を眺める。もう永遠に、あの街からはおさらばだ。
瓶の中のインクは、驚くことにほとんど減っているように見えなかった。なみなみ入っていたインクの水位が、緊張感のない量まで下がった程度。やはり普通ではない。このインクだからこそ、この減り方をしているのだろう。
大学も新居も綺麗な都会の中にあって、夢見ていた快適な暮らしが始まった。ひとり暮らしで増える家事も特に苦はない。このくらいはひとりでできて当然だと思った。
高校時代までずっとひとりぼっちだった私にも、大学ではたくさん友達ができた。みんな、社会や未来を真剣に考え、変えようとする熱を持った人々だ。
バイトもいっぱいして、学部のプログラムの補助もあって留学もできた。
そして私は、自分の将来をどう過ごすかを決定する。
とある小さな発展途上国の農業に、私はビジネスチャンスを見出していた。成功すれば、この国はもっと豊かになる。国民性も素敵で、なにより自然の美しさは格別だった。もうちょっと発展すれば、観光業で栄えてもおかしくない。
赤道近くの国で気候も大きく違うし、少し離れた国では紛争も起きている。感染症だってある。
それでも、私は行きたかった。
幸い、引き止める人なんて今はもう周りにいない。だって似た夢に燃える友達だけだもの。
家族には、すべてが決まってから事後報告した。どうせ、国名を聞いたってどこのことかさっぱりわからないだろうけど。
何度も飛行機を乗り換えて、やっと到着する。スーツケースひとつにまとめた最小限の荷物を手に、私はその地に降り立った。
現地での生活は、本当に充実していた。
もちろんすぐに軌道に乗るのは難しい。でも、私は魔法のインクを持っている。人々と大きな揉め事を起こすこともなく、わりとすんなりと受け入れてもらえた。
日本を出て、予期していなかった良いことがある。読みにくく似合わない自分の名前を捨てることができたのだ。だって、漢字なんてないから。ユイコが言いづらいのか、慣れた人たちはみな私のことをユッコと呼ぶ。
農家の人々にも、私はリーダーとして慕ってもらえた。それでも、みんなと同じ目線で過ごすのがいちばん大切で、私はいつだって偉そうになんてしない。そんなふうに日本の縦社会から抜け出せて、もう息苦しくなかった。
そして、この国に来てもう数年経った今日も、私は小さな自室でノートを開く。
今は高校のときから進化して、頑丈で火も水も通さない上、ロックまで付いているアタッシュケースに瓶とペンを入れている。もちろんすべては現地の人たちにも内緒だ。このケースは、常に見つからなくて絶対に安全なところに置いている。
書き終えて、次は今日の振り返りを始める。
日記のようなものを記入していると、ふと、ユッコと呼ぶ声がした。
男性の声。誰の声かすぐにわかり、私は返事をして表に出た。
私が関わっている農場の、歳が近くて仲良くしている人だった。
インクを手に入れてからというもの、未来は自分で操作するので、心から驚くことというのはあまり起こらない。
しかし、このときは、私は本当に驚いて、でも同時に喜びの花が咲いたようにも感じた。
ギラギラと星の煌めく夜だった。
私は、彼にプロポーズをされた。
本当に心底びっくりして、でも、今まで彼にそういう気持ちを抱いたことがなかったかと言われると、嘘になる。
しかし、自分でそういう未来を書けるほどの勇気は私にはなかったのだ。
そんな私とは違って勇気ある彼の、インクの未来をも無視した行動。
ああ、これが魔法でも抗えない生死に関することなのかな、と思った。
実際、それは正しかった。事業が広く知られるようになり、日本のテレビが取材に来たりなんてしたお祭り騒ぎな時期が一段落した頃、私たちの間に子供ができた。
私がインクで書いた未来にも、なんなら初期の計画にも全くないことだ。私はずっと、独り身でこの地域に尽くすものだとばかり考えていた。
それでも、このインクに反した出来事が起こって本当に良かったと思う。心から愛せる家族がいる生活というのは、思っていたよりずっと幸せなものだった。
彼に、ユッコ、と呼ばれると、あの日インクをくれた妖精の姿を思い出す。
すべては彼女のおかげだ。日本語を話す人の中で、私をゆっこと呼んだ数少ない人。
そういえば、他にもいたな。小さい頃、私をゆっこちゃんと呼んでいた友達。
久しぶりに日本のことを思い出して懐かしくなっていると、息子の泣き声がした。走って転んだみたいだ。
大泣きする子供を抱きしめて愛おしさに浸っていると、まるで、あの不運にがんじがらめにされていた頃が嘘みたいに思えた。
インクを手に入れて、やっと、私は人生の時間を無駄にせず生きることができるようになったんだ。
人生はこんなに永遠の可能性を持っているというのに、高校までの人生が泥まみれで無駄に思えるものだったのは悔しい。でも、その経験のおかげで人生の貴重さがわかるから、インクは一滴も無駄にしていない。
そうだ、最終目標。
高校生でインクを手に入れたときに決めた、私の最終目標。誰からも不運な女だなんて言われなくなることだった。
――達成しちゃったな。
それなら次なる目標は、幸運の維持と、あとは長生きすることだ。私を馬鹿にした誰よりも、充実した長い人生を生ききってやる。
幸い、インクもまだまだあることだし。
この日、私は仕事で、住むところから遠く離れた都市にやってきていた。飛行機が必要なほどの距離があってそれなりに時間もかかるが、子供たちはもう自分たちで学校に通えるほどしっかりしているから大丈夫だ。徐々に発展してきたおかげで、あの子たちだけじゃなく近所のみんなも小学校に通うことができている。
時間がかかるとはいえ私には小さい子供もいるし、今回は日帰りのつもりだった。だからインク瓶と万年筆も、ちゃんとアタッシュケースに入れて家に置いてきている。
ところが、いざ帰ろうとするとトラブルが発生した。
何やら、現地の天候不良のせいで飛行機が飛べないらしいのだ。今回は大雨だ。
しかし、この時期は別に珍しいこともないので、私は特に驚くこともなく空港を出た。こっちはというと、痛いほどに眩しい日差しが降り注いでいる。
現地には最近電気が通ったが、悪天候ならどうせ電話も繋がらないだろう。一応連絡をしてみたが結果は案の定だった。
私はもう1日この地で過ごすことになった。家族もそれは察せるだろうし心配はかけない。大丈夫だ。
未来が切れることもない。私は、時が止まる事態を防ぐために、常に未来は余裕をもって書いている。確か、1週間後まではなにも書き足さなくても平気だ。
スマホのホーム画面、家族の写真を見つめる。私の出張中も元気にやっているかな。
夜になり、眠りについて、朝を迎える。何にも、凶運に邪魔されることなんてない。
朝、私はいつものように早く起きた。
スマホを開き、はっとする。
音を切っていたせいで気がつかなかった。そこには、おびただしい数の通話着信が来ていた。
何事かと思い、すぐにかけ直す。相手は、こっちの都市にいる仕事関係者だった。
どうしたの、と訊くと、彼女は切羽詰まった様子で私の住む地域の名を口にした。
大洪水が、起きている、って。
「え………………」
電話を切ってしばらくすると、その彼女が私の部屋に駆け込んできた。映像を見せながら必死で私に説明をしてくる。
その地域一帯が全部水に覆われて、空からはなんにも見えなくなっている。畑も家もなにもない。全部濁った激流と瓦礫だけになっている。
もしかしたら、あなたの家も。
「そんな……」
思わず零れた日本語、彼女は不安そうに私の顔を見つめていた。
そんな、大洪水だなんて。
置いてきたインク瓶は、万年筆は、無事?
あれがなくなってしまえば、私は……。
さすがに混乱する私に彼女は、まだ現地には帰れそうにもないことを教えてくれた。
最短でも5日は無理かもしれない、と。
――5日。
どうしよう、あまり長引くと、もう未来が切れてしまう。
そうなればもう身動きが取れなくなる。
いや、でも、そもそも家は無事なのか……?
もし洪水で流されでもしていたら、その中の家財も全部。
そうだ、落ち着いて。たとえ流されても、ケースに入れているんだから、瓶が割れることもペンが壊れることもありえない。
大丈夫だ、きっと。
そのとき、手に持っていた自分のスマホが通知音を立てた。同時に灯った画面には、家族の写真。
そうだ、夫は、子供たちは。
私の家族は、無事なの?
――いいや、大丈夫だ。ここまでの洪水は初めてだが、この時期の豪雨は珍しいことじゃない。
特に夫は私より慣れているのだから、きっとすぐに逃げている。
大丈夫だ。
きっと。
「うわ、ちょっとテレビ見てテレビ」
「ああ?」
「見てんこれ、ひどいわぁ。大洪水やって」
「なんや、どこの県や?」
「あんたこれが日本なわけないやろう。どこやろうねぇ、やだ、まさかあの子の国やない?」
「なんやらもっと違う名前やなかったけ?」
「まあ、言われてみれば違う気もするわ」
「あいつが不運を持ち込んでないといいがな。しっかし連絡もろくにしないかいわからんわ」
「あんな遠い国、こっちからの電話のしかたも知らんし。まあ、なんとかやっとるわ多分」
「そうだそうだ。なあ、リモコンはどこや。ニュースなんて見てもくだらん」
「はいはい、どうぞ」
これは、ひどい。
あの都市から飛び、飛行場のある街からずっと進んで、私の家がある村に着いた。
いや、私の家があった村に、着いた。
――なんて惨状だ。
あたりには、もうなにもない。
ずっと、茶色の更地が広がっていた。
「……………………」
こんな、こんな状態じゃもう、家なんて跡形もないだろう。
いや、もしかすると瓦礫くらいは近くに残っているんじゃないか。
そうしたらその近くに、きっと瓶とペンを入れたアタッシュケースもある。
そうだ。それさえ見つければきっと。
まだ未来が切れるまでには半日ある。どうにか、どうにかなるはずだ。
そうだ、だって私はもう不運な女なんかじゃない。
強運な人間に変わったんだ。
ふと、遠くから、ユッコ! と叫ぶ声が聞こえた。
知り合いの農家だ。彼はぜいぜい息を切らしながら駆け寄ってくる。
――洪水の後から、私の家族の姿がない。
彼はそう言った。
はっとした。
そうだ、私の夫に、息子たち。
無事じゃ、ないのか?
彼によると、私の家はもうないようだった。それはまだ覚悟していた。ちなみに彼は、家が高台のほうにあるため浸水で済んだらしい。
みんなはその高台の地区に避難してきていたらしいが、どうにも私の家族が見当たらない、と。
なんだ、それ。
なんだよそれ。
私たちは、急いで元は家があった場所まで向かった。
今までは畑や店で賑わっていた地域も、もう、ほとんど人がいない。遠くのほうから、救助隊らしき人々の集団が来ているのがぼんやりと見えた。今さら来ても遅く思えるが、水が引くまでは来ることができなかったのだろう。
もちろん、どこにも家族の姿なんてない。それどころか、見覚えのあるものは何ひとつ転がっていなかった。
知り合いの彼が、心配そうに黙り込んでいた。
私は彼に向かって、少しひとりにさせてほしいとお願いした。彼はもちろん受け入れてくれたので、私はその場を離れる。
と、同時に、血眼になってケースを捜し始めた。
あるはずだ。絶対に。どこかに。
あの魔法さえあれば、今の状況を絶対に覆すことができる。どうにか、どうにかなるのだ。だって自分の未来を自分で書けるんだもの。絶対にどうにかなる。
私の人生、不運なんてものじゃないって、証明できる。私がやることなすこと、結局はすべては上手いこといくって、凶運なんかじゃない、強運の持ち主なんだって。
誰もいない殺伐とした、泥まみれの更地の中。瓦礫をどけて、砂を掘って、いろんなものをひっくり返して、捜しまわった。
でも、なんにもない。なにも見つからない。
そんな。
だめだ、絶対に見つかる。諦めちゃいけない。
大体、こんなこと未来に書いたつもりはない。
大洪水も、なにもかも。
なんで、なんで未来に書いてない不運が降りかかってくるの。
書いてないじゃん。
――『でも、人間の生死に関することには抗えないから叶わないよ』
急に、あの妖精の声がフラッシュバックした。
生死に関すること?
そうだ、夫と結婚することも、子供が産まれることも、私は書いてない。
それは生死に関することだからだと納得していた。
でも、生まれることだけじゃなくて、死ぬことも、抗えないのか。
考えてみればあたりまえだ。生死に関すること、だから。
死。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
こんな不運、絶対に。
絶対に、嘘だ。
途方に暮れながらも、私はまだ諦めていなかった。
魔法さえこの手に戻ってくれば、きっと。
みんなもう死んだかもしれない。でも、それでも、なんとかしてまた幸運を呼び戻せるんじゃないか。
あのインクの力さえあれば。
でも、捜しまわって、身体が疲れ果てたときに、ふと気づいた。
おかしいな。ずーっと捜しているのに、日が傾かない。
それに、農夫の彼を始め、私を知る人が誰も呼びに来ないのもおかしい。
きっとこんな長時間姿を消したら、心配して捜してくるはずだ。
「なんで……」
汗の流れる額を拭って、なんにもない辺りを見回す。
誰もいなかった。きっとみんなは高台のほうに集まっているのだろう。
でも、誰も捜しに来ないなんて……。
待って。
今、何時?
慌てて腕時計を見る。
――秒針が、止まってる。
そんな。
嘘。
私、こんな中途半端なところで、未来を、あれ?
そっか、忙しかったんだっけ。息子に熱があって。
こんな最悪なタイミングで、続きを書き忘れていたなんて。
なんて、運の悪い。
そんな。
嫌だよ。
こんな不運な人、世界中のどこを捜したらいるっていうんだ。
洪水のあとで荒れ果てた更地で、ひとりぼっちだなんて。
その上、ここは時が止まった世界。誰も動かない。私を捜してはくれない。
本当に、ひとりぼっち。
インク瓶もペンも、流されて消えちゃって。
ああ、どうせなら瓶が割れてインクが零れてしまえば、死んでしまえたのに。
異常なほど頑丈なケースに保管したせいで、ほら、インクは無事だからただ時が止まっただけだ。
すべてにおいて、最悪だ。
私がなにをしたっていうんだ。
私が。
――家族よりも村よりも、なによりも、真っ先にインク瓶とペンの心配をした私が。
「……ははっ」
そんな私だから、相応の仕打ちなのかな。
こんな人格の人間として生きていたなんて、不運だなぁ。
――『そんなにいいもんじゃないよ、時が止まった世界って』
そうだね、妖精さんよ。全然いいもんじゃない。
ひとりぼっちで、ただ自分の凶運さだけが視界を埋め尽くす。
これからずっと、ひとりぼっちなのかな。
さすが、不運な私だ。
END




