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With the Wind!  作者: 肉丸 もりお
忘れたくない君のこと
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薫風の運び手

「西口くんから聞いたんだけどさ、(かもめ)って料理上手なんでしょ?」


 アルバイトを終え、家に帰るつもりでいたところで始まった会話。アルバイト仲間の井上(いのうえ)にそう言われ、里見(さとみ)(かもめ)は苦笑した。


「西口がそんなこと言ってたの?」

「言ってた言ってた。自信満々の大学生が出すもんなんてどうせカレーだろって思ってたらアクアパッツァが出てきてびっくりしたって。しかも超うまかったって」


「自信満々だったかな……。超うまかったなんて言ってた?」


「結構うまかっただったかも? でもおいしかったって」


 井上はいつもの大げさな手ぶりを交えながらそう言うと、少しだけ間を空けて、


「気になるわー。イタリアンつくれるってすごくない? 私なんか大学入ってからずっとお弁当買ってるもん。今度食べさせてよ。ていうか今日これから家行ってもいい?」


 と、口にした。

 鴎は笑みから苦さを除いて、いつもの人のよさそうな、しかし芯は残したままの表情で答えた。


「ごめん。彼女が嫌がるから、家に呼んだりはできないんだ」


「えっ!? 彼女いるの?」


「うん」


「うわっ、じゃあしゃーないか」


 笑って流す井上にこちらも笑い、鴎は控室を出て家路についた。

 金曜日の今日は対面の講義が入っていない。その分お昼はレストランでアルバイトをしている。江袋(えの)高校に入学して以来住み続けているアパートはレストランからそう遠くないので、日課の筋トレの一部として、鴎は基本的に徒歩で移動している。

 長い土手を歩きながら、どうしてあんな嘘をついたのだろう、と考えた。彼女などいない。大学に入ってからずっと独り身だ。井上は可愛いと思うし、話していて楽しいとも思う。今日だけでなく、何度かモーションをかけられているという実感と、それを(いと)わしくは感じない心理がある。


 ではどうして、嘘をついてまで距離を置いたのだろうか。


 わからない。今日に限らず、鴎は自分でも自分の行動に納得のいかないことが多かった。どうして朝夕ランニングを欠かさず、腹筋が割れた状態を保っているのか。どうして自炊を人並み以上にこなそうとするのか。どうして女性と友人以降にまでは近づこうとしないのか。

 一方で(まかな)いのナポリタンのレシピを想像しつつ、妙なやつだなあ、と、我ながらに思う。こっぴどく振られた経験でもあっただろうか。そう胸の中を探ってみても、答えはぱっとしない。あったような、なかったような。おかしな話だ。

 どうしてかもわからないのに嘘をつくのは、かなり不健全な精神状態だと思う。帰ったら虚言壁の兆候を調べてみることを、半分本気で検討する。


 三年生に上がり、一息ついた五月半ば。人生最後の夏休みなどと揶揄(やゆ)されがちな文系大学生のなかで、鴎はほどほどに勉強している方だった。大学での知人は多くないが、毎度の講義で話し相手に困ったことはない。アルバイト先も融通(ゆうずう)が利く上に近場だ。

 生来の穏やかさと偶然の拾い物、そして自身の努力で得た現状に、鴎はとりたてて不満を抱いていない。

 けれども、満足もしていない。経済学部の講義は面白いとは思ったが、自分がそれを活かした仕事に就く(さま)、一年経つころにはしっかりと輪郭を現しているだろうと想像していた像は、未だにあやふやなままだ。


 一体何のために生きているのだろう。一体何を待っているのだろう。


 社会に甘やかされ、暇を持て余した大学生が一度は浮かべるそんな疑問が、鴎には年中ついて回る。


 辺りを行く風は暖気を含んでいて、沿路に植えられた桜の木は既に散ってしまった。大学生活三度目の春が、夏へと席を譲る準備を終えようとしている。小さな駅を通り過ぎたとき、ざわと風が吹き、若葉の香りが鼻腔(びくう)を満たした。

 景色をぼんやり眺めて歩いていると、これで成人なんだものなあ、と、ため息が出た。成人式で久しぶりに会った高校の友人たちからは、鴎も変わった、大人びた、と好意的な声調で評されたが、それは見た目の話だったのか。中身も大人になりたいものだ。


 どうして?


 電柱の陰に隠れた声にそう聞かれた気がした。考え込みかけ、首を振る。まだまだ子供だからだ。働いている友人も、結婚している友人もいる。多少は社会に触れた気になっていれば、大人になりたいと思うのは自然なことだ。それで落ち着いたはずの声に、再び、そうだろうか、と、訊ねられ、鴎は首を捻った。


「あの」


 自分の頭蓋の内に向けられていた意識がつつかれ、慌てて声のした方を見る。

 鴎に話しかけたのは、キャリーバッグを引きずった女性だった。今通り過ぎた駅から降りてきたらしい。麦わら帽子の下で黒い髪が揺れている。


「道をおたずねしたいのですが。充電が切れてしまってアプリが使えなくて。どうかお願いします」


「あ、ええ、はい、どこでしょうか」


 相手のいやに丁寧な口調に連れられ、そう返事をした鴎に、相手は懐から取り出したメモ用紙を見せた。


「この住所をご存じありませんか」


 頭一つ分背の低い女性が差し出したメモに顔を寄せると、鴎はかるく驚いた。その住所は鴎が住んでいるアパートを示すものだったからだ。


「どうされました」


 気づかわしげに尋ねられ、


「あっ、すみません。ここ僕が住んでいるところでびっくりして……」


 と、思わず答える。


 なんだか、下手なナンパみたいだ。


 自分にその気はないのだから、不自然なのはどちらかというと相手の方だ。少し考え込んだ鴎は、一応用心することにした。


「あの、つかぬことをお聞きしますけど、ここには一体どんな用件があるんですか?」


 道案内を頼まれたのが自分の居住地だった不気味さを察したのか、女性はその問いを拒まなかった。


「107号室に友人がいるんです。上田(うえだ)という女性です」


 記憶を探ると、確かに、107号室あたりから女が出てくるのを見たことがあった。挨拶くらいしかしたことがない上に表札を出しているわけではないので、上田なのかどうかはわからなかったが、そう警戒する必要もないか、と、構えを解いた。


「そうですか。変なことを聞いてごめんなさい。えっとですね、ここは……」


 道順を示そうとして、どうせ鴎自身も同じ道を歩くのだと気がついた。


「……ここは僕が住んでいるアパートなので、歩きでいいのならついてきてもらえば案内できます」


「そうですか」


 すぐさま頷くのが見えた。


「それでは、お願いします」


 黒髪の女性と歩きながら、鴎は、おかしな偶然もあるものだな、と、思わずにはいられなかった。ただまあ、交通事故に巻き込まれる割合が大体五百人に一人だったはず。それに一度巻き込まれた鴎は、世の中にはそういうこともあるのだろう、と、妙な理由で納得した。 

 

 事故からもうどれくらい経つのか、計算をしなければ出てこなかった。自分のことだというのにひどく認識が緩い。後遺症がほとんどなくなったおかげかもしれない。元々、事故を経験しても車への恐怖が芽生えるということはなかったし、事故から何年かは引きずっていた足も今は違和感がない。車と衝突したことは不幸だったけれど、それがケガとして尾を引くことがなかったのは、幸運なことだ。


 ふと、歩くペースが速くないか、と、気になった。鴎のやや後ろを歩く女性は文句も注文もつけずについてきているが、歩幅の差というものを考慮していなかった。

 誰かと歩くのは久しぶりなことを言い訳にしつつ、速度を緩める。

 そうして他人の存在を意識すると、今度は、会話もせずにただ歩いていたことが気になり始めた。世間話くらいするべきだろうか。

 迷いながら、顔だけ振り向けて話しかける。


「お友達に会いにいらっしゃったんですか」


「はい。会いに来ました」


 凝視と呼ぶべき目つきで数秒鴎を見ると、女性は麦わら帽子の下にそっと視線を隠した。意図が分からず、鴎は戸惑いながらまた前を向いた。言葉のやりとりはごく短かったが、会話を拒否しているという風ではなかった。むしろその逆で、こちらを見つめる数秒は、なんだか鴎がしゃべるのを待っているような雰囲気があった。


 なんだったんだろう。


 特に答えを導き出すつもりはない問いを(もてあそ)んでいると、今度は別のことが気になった。

 ごろごろと、丸太が石畳の上を転がっているような音が聞こえている。違う。キャリーバッグのキャスターが転がる音だ。

 気づいてしまうと、放っておく方が気分は悪かった。出しゃばりすぎかな、と迷ったが、断られたらそれだけの話だ、と、鴎は考えをまとめた。


「もしよければ、荷物をお持ちしますよ」


 相手はそれまでより少しだけ考える時間を持った。鴎よりも背が低い上に帽子が影になって顔がよく見えない。


「では、お願いします」


 預けられた黒色のキャリーバッグは表面に日を集めていて少し熱かった。受け取るとき、手のひらに食い込んだ生活用品の重さは、ごろごろ引きずるとたちまち主張を収めた。もしも偉人の功績で番付をするなら車輪を発見した人はきっと上位だ、と、つくづく思う。


 ごろごろという音を引きずりながら堤防を進んでいると、そもそもこれは引きずっていいものなのだろうか、という疑問が生まれた。空港内などでの短い移動のためにつけられたキャスターの場合、屋外で使っていると壊れてしまうことがある。鴎自身、それで幼い頃に旅行先での気分を台無しにされた。少し無理をすれば抱えて持てそうだが、さすがにそこまで提案するのは気味が悪いと自分でも思う。


 とりあえず、これは移動用のキャスターかどうか尋ねようとした鴎の背後で、女性が止まった。


 どうかしましたか。そう声をかけようとして、なんとなく思い留まった。


 女性は河川敷に植えられた古木を見ている。梅の木だ。鴎にはわかった。とうに花は散っていて、枝には葉がわさわさと生い茂っている。


 鴎の視線に気がつくと、女性は鴎に向き直った。


「ごめんなさい、勝手に立ち止まって」


「あ、いえ」


 自身も梅の木に近寄って訊いてみる。


「梅がお好きなんですか」


「はい。それに、家の梅の木はこの間花開いていたので、なんだかこちらの方が珍しくて」


「最近花が咲いたんですか。それは珍しいですね。梅の木の開花時期って三月くらいまでですよ」


「お詳しいのですね」


 確かに。

 植物にとりたてて興味を持ったことはない。部屋にサボテンでも置こうか迷って、結局やめたくらいだ。ではどうして知っているのか。


「……ああ、友達に聞いたことがあるんですよ。確か」


「お友達ですか」


「はい。その子の家に遊びに行ったときに……」


 そう話す声が途切れたのは、女性がこちらをじっと見つめているからではなく、違う、という強い思いがあったからだ。思考の間隙(かんげき)に入り込んだ声が押し広がり、無視できない大きさまで疑問を膨らませる。


 家に遊びに行くような友人のことをどうして忘れていたのか。本当にそんな友達がいたのか。いたのだとしたら、やはりどうして忘れていたのか。


 押し黙ってしまった鴎を、女性は特に不審がるでもなく、じっと見ている。やがて、涼しげな声が聞こえた。


「そのお友達の名前を思い出せますか?」


「えっ、それは、名前は」


 妙な質問に警戒する間もなく、大きく連なり、響く内奥の声が、記憶の片隅に押しやられていたものへと向かおうとする。うねることで、妨げようとする何かを掻い潜り、目的地へと向かい、


「名前は」


 それきり止まった。


 三日前に見た夢を思い出すような、困難な仕事だった。ふとしたきっかけで思い出すそういった物事と同じで、忘れてしまったなにか大切なことは、鴎の意思だけでは思い出せそうにない。

 地団太を踏みたくなるほどの歯がゆさがあり、そこに、それでも最後のパーツが見当たらないもどかしさも加わると、鴎は物言うことも忘れ、思い出そうと足掻(あが)いた。

 そんな様子を観察していた女性が、ゆっくりと横を向いた。


「コンビニがあります」


「へっ?」


 犬の素直さで視線を追うと、たしかに、堤防の下の道路脇にコンビニがある。


「あそこで充電をすればアプリも使えますよね。急ぐ事情もないのでそうします。お手数をおかけしてごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げられても、女性がなにを言っているのかわからなかった。視界には、あの真っすぐ射貫く視線をキャリーバッグに向けている女性の姿がある。鴎が持っているキャリーバッグだ。返さなければ動けないのだ。


「あ、どうぞ」


「どうも」


 受け取って一歩下がると、なにか言いたげな数秒を、それでもやはり堪えたまま、


「ありがとうございました」


 と、深々と頭を下げ、女性は土手の中の階段へ向かってしまった。


 鴎は返事もできずに、わけがわからないまま突っ立ていたが、そのとき通り抜けた風が頭に籠っていた熱を奪っていった。若葉の香りに満ちたその初夏の風は、女性からも麦わら帽子をさらった。手で押さえるのが間に合わず、堤防まで飛んできたそれを、鴎は反射的に掴まえた。


 女性は髪飾りをつけていた。梅の花の髪飾りだった。夏にまで咲く梅の花だった。それは鴎の記憶の引っかかりの、最後の一つを取り除いた。

 

 鴎は自身も階段を下りると、女性の目の前に立った。今度はこちらがじっと見つめる。


「あの」


 女の子だった。友達だった。好きだった。いや、今もまだ、思慕(しぼ)は胸に張り付いている。こちらを見つめる瞳の色と、記憶の中で見た瞳の色が重なった。

 夢でないことを確かめるために、その名前を呼ぶ。


(むすび)


 黒々とした黒曜石の瞳が、三年ぶりに鴎を見ていた。最後に出会ったときから随分大人っぽくなった顔立ちに、それでも面影がある。記憶がどれだけおぼろげになっても、忘れることはできなかった人が。六城(ろくじょう)(むすび)がそこに立っていた。


 微かな驚きが表情に浮かび、それが去ると、硬質の瞳が揺れた。


「はい」


 涼しげな声に込められた熱は、鴎だけが気づくものだ。鴎だけが知っているものだ。


「鴎くん」


 三年ぶりに聞く声が、底から浮かび上がった記憶にぶつかり、感情が飛び出た。ぼろぼろと泣き出しそうになるのを懸命に我慢して、鴎は精一杯の、そしてぎこちない笑みと共に、頷いた。


「うん」


 しばらく話をしたあと、鴎はキャリーバッグをもう一度手に取り、麦わら帽子をかぶりなおした結と並んで、家へと帰る道に戻った。そのうち鴎から結の手を握り、指を絡めると、結の方は、腕がくっつくほどまで近寄った。

 一人と一人が寄り添いあって二人になり、梅の木の先の道を歩いている。結びつきは固い。二度と(ほど)けそうにない。

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