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With the Wind!  作者: 肉丸 もりお
忘れたくない君のこと
360/361

Gone

 四月一日の風はまだ肌寒さを残していた。それでも、街路に立つ木々にはちらほらと花がついている。その浮き立つような華やかさも、今は遠くに感じた。

大学の入学式を数日後に控えた(かもめ)は、(むすび)たちを見送りに六城家の前まで来ていた。鴎自身がこれから通う大学は市内にあるので、慌ただしい引っ越しもアパートの内見も必要なかった。結はそうはいかない。賃貸を探すことはしなくても、この土地から出ていかなければならない。

 立派な門構えはもうあの家の並びからなくなっていた。元々出入り口をつなげていただけなので、それを閉じてしまえば行き来はできないらしい。上辺の理解から納得までは下りてこない説明だが、気軽に足を運ぶ先がなくなるということがわかっていれば、それ以上こだわる気は起きない。

 鴎にとって、この春は、絶対的に別れの季節だ。結と離れ離れになる季節なのだから。

 

 結はうつむき気味に地面を見ていて、その表情は定かでなかった。

 どんな言葉をかければいいのか。鴎は必死に考えている。


 じっと何かを待っている二人の傍を、(いおり)が通り過ぎた。


「車で待っとくわ」


 弾かれたようにそちらを見ると、なんだか詰まったところのなくなった目と合う。


「あの、庵さん」


 名前を呼び、その続きが出てこない。もどかしさにがんじがらめにされた鴎に、庵は軽い調子で、


「じゃあな、ハリウッド映画じゃねえんだ。お別れだからってキスすんなよ」


 と、言った。

 結の細い肩がぴくりと揺れる。

 もごもご言っている間に、庵は背を向けてしまった。


「庵さん、あの」


 この人の背中を見た、その数だけ、護ってもらった、語るよりも多くのものを、そこから感じ取ったと思う。

 用意していたはずの言葉は、いざとなって泡立つ感情を込めるには脆く、ぼろぼろと崩れた。その代わりに、鴎は腹の底から大きな声を出した。


「あの、ありがとうございました!」


 振り返ることなく、軽く上げられた右手は、曲がり角の先に消えてしまった。

 思いが胸から一つこぼれ落ち、その穴に風が沁みた。向き直ると、結の視線はまだ足元にあった。

 二人だけだ。初めて話をしたときと同じ。それでも、走ったり止まったりした三年間の分、結も鴎も、背が伸び、声が変わった。あのときよりもぐっと縮まった距離が、そのまま口の重さになっている。

 今日お別れをすれば、明日は会えない。一年、二年、あるいはそれよりも長く。ひょっとすれば金輪際、会えないかもしれない。そのことから目を逸らさず、心を尽くして、言葉を選んだつもりだった。どんな文句がふさわしいのか。

 そんな準備は、一秒が無限の質量を持つ時間が訪れてしまえば、無意味でしかなかった。吹き飛んだそれを黙って拾い集めるだけの時間が過ぎる。


「……私は」


 聞きなれた清澄さが、風に乗って届いた。


「鴎くんと一緒のとき、楽しかったです。幸せでした」


 黒々とした瞳は、出会ったときと同じ、感情を奥底に隠した色をしていた。鴎には通じない。仮面の下の湿りが見える。

 鴎くんは、と、問われる前に、鴎はゆっくりと笑んだ。


「うん」


 視線を落とした先に、小さな手がある。

 その手を鴎がとると、微かに強張った。それがやわらぐまで待って、二人の胸の前で合わせると、自分の両手で包み込んだ。


「僕も」

 

 この女の子に出会ってからの思い出がなにもかも、足跡だけを残して過ぎていく。甘さも苦さも、親しみを携えて鴎に触れた。


 本心を告げる。


「結と会えてよかったよ」


 怒ったように口を引き結ぶと、数秒耐えて、そして、結は鴎の胸に頭を預けた。


「私もです」


 濡れた音が聞こえる。震えを伝える肩を、鴎は受け止めた。唐突に、絶望的な気持ちが湧いて来る。

 離れてしまえば終わりなのだ。この匂いも温もりも、手が届かないところに行ってしまう。抱きしめてしまって、ずっとそうしていたい。

 けれども、結が体に力を込めたとき、それを引き留めることはできなかった。濡れたように黒い髪を伸ばした少女は、泣き顔を収めると、笑って見せた。


「さようなら。また」


「うん。またね」


 そのとき、ふわふわと浮いてきたものを取り除いて、それでも残ったものを。言いたかったことを見つけた。吟味したあと、これは本意に沿っている、と、判を押し、送り出す。


「待ってるから」


 もう一度、泣き出しそうな顔は、強く頷いて鴎に背を向けた。ゆっくりと遠ざかる。その姿が見えなくなっても鴎はそこに立っていた。


 通りに他の人影はない。鴎一人分だけの息がある。風を連れてきた少女は、風を連れて去った。

 鴎は、終わったな、と、思った。


 行ってしまった。もう一人だ。


 花の髪飾りも、宝石のような瞳も、風に揺れる瞳も、現在から過去の箱へと移された。明日どころか今日にもない。これから先、昨日という枠に押し込まれ続けるうちの一つ。そういう存在になってしまった。


 ここからは一人で歩かなければいけない。また会おうと思うのなら、自分は一人でここから立ち去らなければいけない。

 時間の流れは、きっと容赦のない手つきで記憶から結の影を洗い流して、自分はそれにも気がつかないのだろう。だとしても、忘れないように、握った拳に覚悟を刻み込んだ。

 頼れるやつになって、今度はどこまでだってついていってやる。

 ぐいと乱暴に顔を拭うと、地面に吸い付いていた足を剥がして、鴎はおもむろに歩き出した。

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