Gone
四月一日の風はまだ肌寒さを残していた。それでも、街路に立つ木々にはちらほらと花がついている。その浮き立つような華やかさも、今は遠くに感じた。
大学の入学式を数日後に控えた鴎は、結たちを見送りに六城家の前まで来ていた。鴎自身がこれから通う大学は市内にあるので、慌ただしい引っ越しもアパートの内見も必要なかった。結はそうはいかない。賃貸を探すことはしなくても、この土地から出ていかなければならない。
立派な門構えはもうあの家の並びからなくなっていた。元々出入り口をつなげていただけなので、それを閉じてしまえば行き来はできないらしい。上辺の理解から納得までは下りてこない説明だが、気軽に足を運ぶ先がなくなるということがわかっていれば、それ以上こだわる気は起きない。
鴎にとって、この春は、絶対的に別れの季節だ。結と離れ離れになる季節なのだから。
結はうつむき気味に地面を見ていて、その表情は定かでなかった。
どんな言葉をかければいいのか。鴎は必死に考えている。
じっと何かを待っている二人の傍を、庵が通り過ぎた。
「車で待っとくわ」
弾かれたようにそちらを見ると、なんだか詰まったところのなくなった目と合う。
「あの、庵さん」
名前を呼び、その続きが出てこない。もどかしさにがんじがらめにされた鴎に、庵は軽い調子で、
「じゃあな、ハリウッド映画じゃねえんだ。お別れだからってキスすんなよ」
と、言った。
結の細い肩がぴくりと揺れる。
もごもご言っている間に、庵は背を向けてしまった。
「庵さん、あの」
この人の背中を見た、その数だけ、護ってもらった、語るよりも多くのものを、そこから感じ取ったと思う。
用意していたはずの言葉は、いざとなって泡立つ感情を込めるには脆く、ぼろぼろと崩れた。その代わりに、鴎は腹の底から大きな声を出した。
「あの、ありがとうございました!」
振り返ることなく、軽く上げられた右手は、曲がり角の先に消えてしまった。
思いが胸から一つこぼれ落ち、その穴に風が沁みた。向き直ると、結の視線はまだ足元にあった。
二人だけだ。初めて話をしたときと同じ。それでも、走ったり止まったりした三年間の分、結も鴎も、背が伸び、声が変わった。あのときよりもぐっと縮まった距離が、そのまま口の重さになっている。
今日お別れをすれば、明日は会えない。一年、二年、あるいはそれよりも長く。ひょっとすれば金輪際、会えないかもしれない。そのことから目を逸らさず、心を尽くして、言葉を選んだつもりだった。どんな文句がふさわしいのか。
そんな準備は、一秒が無限の質量を持つ時間が訪れてしまえば、無意味でしかなかった。吹き飛んだそれを黙って拾い集めるだけの時間が過ぎる。
「……私は」
聞きなれた清澄さが、風に乗って届いた。
「鴎くんと一緒のとき、楽しかったです。幸せでした」
黒々とした瞳は、出会ったときと同じ、感情を奥底に隠した色をしていた。鴎には通じない。仮面の下の湿りが見える。
鴎くんは、と、問われる前に、鴎はゆっくりと笑んだ。
「うん」
視線を落とした先に、小さな手がある。
その手を鴎がとると、微かに強張った。それがやわらぐまで待って、二人の胸の前で合わせると、自分の両手で包み込んだ。
「僕も」
この女の子に出会ってからの思い出がなにもかも、足跡だけを残して過ぎていく。甘さも苦さも、親しみを携えて鴎に触れた。
本心を告げる。
「結と会えてよかったよ」
怒ったように口を引き結ぶと、数秒耐えて、そして、結は鴎の胸に頭を預けた。
「私もです」
濡れた音が聞こえる。震えを伝える肩を、鴎は受け止めた。唐突に、絶望的な気持ちが湧いて来る。
離れてしまえば終わりなのだ。この匂いも温もりも、手が届かないところに行ってしまう。抱きしめてしまって、ずっとそうしていたい。
けれども、結が体に力を込めたとき、それを引き留めることはできなかった。濡れたように黒い髪を伸ばした少女は、泣き顔を収めると、笑って見せた。
「さようなら。また」
「うん。またね」
そのとき、ふわふわと浮いてきたものを取り除いて、それでも残ったものを。言いたかったことを見つけた。吟味したあと、これは本意に沿っている、と、判を押し、送り出す。
「待ってるから」
もう一度、泣き出しそうな顔は、強く頷いて鴎に背を向けた。ゆっくりと遠ざかる。その姿が見えなくなっても鴎はそこに立っていた。
通りに他の人影はない。鴎一人分だけの息がある。風を連れてきた少女は、風を連れて去った。
鴎は、終わったな、と、思った。
行ってしまった。もう一人だ。
花の髪飾りも、宝石のような瞳も、風に揺れる瞳も、現在から過去の箱へと移された。明日どころか今日にもない。これから先、昨日という枠に押し込まれ続けるうちの一つ。そういう存在になってしまった。
ここからは一人で歩かなければいけない。また会おうと思うのなら、自分は一人でここから立ち去らなければいけない。
時間の流れは、きっと容赦のない手つきで記憶から結の影を洗い流して、自分はそれにも気がつかないのだろう。だとしても、忘れないように、握った拳に覚悟を刻み込んだ。
頼れるやつになって、今度はどこまでだってついていってやる。
ぐいと乱暴に顔を拭うと、地面に吸い付いていた足を剥がして、鴎はおもむろに歩き出した。




