金曜 朝
鴎はいつもよりも早くに家を出た。
朝方の空気はまだまだ冷たく、木々の葉に降りた霜の色は季節が冬から抜けきらないことを物語っていた。通勤ラッシュには余裕があり、道路を往く車もまばらだ。
昨日、結が母親のことについて話してくれた後、二人は黙って監視を続けたが、鴎にとってその沈黙はそれほど気まずくではなかった。あまり眠気を感じなかったことを覚えている。
結が鴎に顔を見られないようにしていることに気付くと何とも言えない気持ちになったが、それも別れ際に明日もよろしくと伝えられれば、むず痒さと同居した嬉しさが取って代わった。
歩道はほとんど鴎一人のものだった。車が通らない道でも、律儀に信号待ちをしながら空を眺める。
なんだか溶け込めそうな青色だ、などと考えていると、信号が切り替わったのに気づかなかった。
珍しく朝早くに登校するのは、委員会の仕事があるからだ。半年に一度のペットボトルキャップ集めくらいしかやることがないという理由で選んだ環境委員は、実際には週に一度花壇の世話という役目があった。担当の日のうちであればいつ行っても構わないので、この時間帯に登校して済ませている。
荷物を置くため教室へ入ると、もう何人か生徒がいた。早い人は早いものだと思っていると、大谷の机にリュックがかけられているのに気が付いた。大谷もそれほど早く登校する方ではなかったはずだ。同じく委員会の仕事だろうか。自分もリュックを机にかけると教室を出た。
始業時刻までまだ三十分はあるが、グラウンドを均す野球部や学校に到着した生徒たちの姿がちらほらと見えていて、一日の始まりを改めて意識した。
花壇は学校の端、南校舎の裏にある。そこまで歩いていると薄暗さを払う陽の光があたりに差し込んだ。陽気に当てられた体がぽかぽかと暖かくなるのを感じる。
校舎の角を曲がり、花壇はもうすぐそこというところで足が止まった。誰かが話す声が聞こえる。
押し殺そうとして押し殺せていない声からして、どうやら人に訊かれたくないことについて議論しているようだ。
そこで回れ右をしようとした体がピタリと止まった。いつもの鴎ならその場を離れてしばらく時間を潰していたが、今は結たちから聞いた話が頭にこびりついている。それに関係があるかもしれないという淡い期待が胸に浮かぶ。足運びに気を付けながらそっと近づき、耳をそばだてる。
「…肝心な時だけだんまり」
「それは」
「いつもそうだった」
「だから」
「これでおしまい」
「まって」
「おしまいって言ってる!」
怒鳴り声がして、会話は途切れた。鴎が話している二人の顔を見ようか迷っていると、こちらへ向かう足音が聞こえた。まずいと思ったときにはすでに遅く、鴎はその生徒、大谷と鉢合わせになった。
瞳から幾筋も涙を流す大谷は、それを両腕で拭い顔を上げたタイミングで鴎と目が合った。無防備に泣く姿を見られたことにひどく動揺したようで、くしゃくしゃに歪めていた顔を引きつらせ、何か言おうと口をもごもごと動かし、結局走り去ってしまった。
後に残った鴎は、大谷に見つけられた瞬間の姿勢のまま立ち尽くす。しばらくそのまま突っ立っていたが、そうしていてもしょうがないので動き出す。
数瞬前の自分の判断が悔やまれた。恥ずべきことをしてしまったという自責の念に苛まれ、花壇へ向かう足取りがひどく重かった。顔をしかめるのは雲間から差し込む日光だけが理由ではなかった。