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キュンマグ!  作者: てきてき@tekiteki


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「感情移入の向き」

 「私が感情をぶつけた翌日も、朝は同じ時間に来た。

 目覚ましの音も、カーテン越しの光も、昨日までと変わらない。

 違うのは、体の内側だけだった。」


 千代田は、ベッドの上で天井を見たまま、しばらく動けずにいた。

 胸の奥に、何かを詰め忘れた引き出しがあるような感覚。

 空いているのに、手を伸ばす気にならない。


 制服に袖を通し、鏡の前に立つ。

 顔色は、思ったより普通だ。

 泣いた痕跡も、目立つほどじゃない。

 それが少しだけ、救いで、少しだけ、怖かった。


 登校中、スマホがポケットの中で重たく感じる。

 通知は来ていない。

 それでも、歩きながら何度も位置を確かめてしまう。

 信号待ちの間、無意識に取り出して、画面を点けて、すぐ伏せた。


 教室に入ると、いつもの音が流れ込んでくる。

 椅子を引く音、誰かの笑い声、机を叩く乾いた響き。

 その中に、有本の声があった。


「中村、それ昨日も言ってたから」


「いや、昨日とは違う文脈でだな……」


 軽口。

 いつも通りのやり取り。

 ただ、有本の言葉は一歩手前で止まっていた。

 前なら、もう一段階踏み込んで、茶化して、笑いを取っていたはずなのに。


 中村も、それに合わせるように、少し引いた笑い方をしている。

 大きくは笑わない。

 でも、気まずさを見せるほどでもない。


 ——何も変わっていない。

 ——なのに、確実に、何かが違う。


 千代田は席に着き、カバンからマンガを取り出した。

 昨日の続き。

 読み慣れたはずのページ。


 開いて、視線を落とす。

 コマの中でキャラクターが口を開いている。

 なのに、セリフが頭に入ってこない。


 一ページ読んで、次に進む。

 進んだはずなのに、内容を覚えていない。

 指が自然にページを戻していた。


 同じコマ。

 同じ表情。

 なのに、なぜか胸がざわつく。


 ——このキャラ、こんな顔してたっけ。


 理由はわかっている。

 感情移入の向きが、変わってしまったのだ。


 今までは、選ばれる側を応援していた。

 迷う側を、俯瞰して読んでいた。

 それがいつの間にか、

 待つ側の感情ばかり、拾ってしまう。


 千代田は、ぱたんとマンガを閉じた。


 昼休み、購買に行く流れで本屋に寄った。

 特に目的はない。

 ただ、立ち止まらずにいられなかっただけだ。


 新刊コーナーに、目に馴染んだ背表紙がある。

 条件反射みたいに、手が伸びた。


 レジに並んでいる時も、違和感はなかった。

 家に帰るまで、気づかなかった。


 部屋で袋を開けて、本を出した瞬間、

 千代田は固まった。


「……あ」


 机の端に、同じ本が置いてある。

 読みかけのしおりが、まだ挟まったまま。


 持ってた。

 ちゃんと、知ってたはずなのに。


 笑えなかった。

 怒るほどでもなかった。


 ただ、

 自分の注意力が、完全に日常からずれていることだけが、はっきりした。


 ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。

 画面を点ける。

 通知はない。


 中村の名前を探しそうになって、やめる。

 指が止まる。

 今、何を送るつもりだったのか、自分でもわからない。


 ——相談は、もうしない。

 ——でも、話したくないわけでもない。


 そんな矛盾が、胸の中で静かに絡まっていた。


 千代田はスマホを伏せ、

 二冊になってしまったマンガを重ねて置いた。


 世界は、ちゃんと回っている。

 誰も困っていない。

 何も壊れていない。


 それなのに、

 日常の歯車だけが、ほんの半目ずれて噛み合っている。


 音は出ない。

 止まりもしない。


 ただ、当人だけが、

 その微妙な引っかかりを、ずっと感じ続けている。


 ——爆発のあとに残るのは、

 こんなにも静かな、不協和音だった。

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