「来週という言葉」
言い直す?
押し切る?
冗談だと強めに笑う?
それとも、ちゃんと答える?
中村の頭の中で、選択肢が高速で回る。
脳内でいくつもの自分が、同時に喋っている。
軽く笑え、と言う声。
ここは真面目に行け、と言う声。
今ならまだ引き返せる、とささやく声。
教室のざわめきが、やけに遠い。
窓際の席で誰かが笑う声が、まるで水の向こうから聞こえてくるみたいにくぐもっている。
その直後、誰かの筆箱が床に落ちる。
ガシャン。
その音だけが、異様に鮮明に響いた。
それでも、視線が二つ、逃げない。
有本の目は、明るいまま探っている。
千代田の目は、静かに真っ直ぐ。
胸の奥が、じわりと熱い。
これは、冗談で切り抜けられる空気じゃない。
――無理だ。
「答えは来週!ではまたー」
勢いで言ってしまう。
軽く手を振る仕草までつけて、番組の締めみたいなテンポで。
一瞬。
空気が凍る。
「……え?」
有本がきょとんとする。
吹き出しかける。
でも、途中で止まる。
「ちょ、ちょっと待って」
机に両手をつく。
「それ、番組の引きじゃん」
少し笑う。
「そんな軽いノリで逃げるやつじゃなくない?」
声は明るい。
でも目は、ちゃんと探っている。
「今の、“誤魔化した”って自覚はある?」
中村の喉が小さく鳴る。
ある。
はっきりある。
だから余計に、笑えない。
千代田は何も言わない。
でも、ほんの一歩だけ距離を詰める。
机と机の隙間が、ほんの数センチ縮まる。
その距離の変化が、やけに大きく感じる。
「中村」
静かな声。
責めない。
でも逃げ道を塞がない分、重い。
「“来週”って言葉、便利だよね」
視線をまっすぐ向ける。
「今、答えなくていい理由を
ちゃんとした形で用意できるから」
口角が、ほんの少しだけ上がる。
優しく見せる笑み。
でも、そこに甘さはない。
「でもね、私たち……今ここにいるんだよ」
その言葉で、教室の空気が一段重くなる。
中村の手が、机の端を無意識に握る。
「千代ちゃん……」
有本が小さく呼ぶ。
どこかでフォローに回ろうとしている声音。
「有本は、たぶん“冗談”で受け取れる」
千代田は一度、有本を見る。
「大丈夫。」
「中村がそういう逃げ方する人だって、知ってるから」
「まぁ……否定はしない」
有本は肩をすくめる。
軽く見せる。
でも、目は揺れている。
千代田は、もう一度中村を見る。
逸らさない。
「でも私はね、さっきの“賞品”の話、
冗談で流されたら」
呼吸を整えるみたいな間。
「ちょっとだけ、本気にした自分がバカみたいになる」
声は静か。
怒っていない。
泣いていない。
ただ、正直。
その正直さが、一番刺さる。
中村の胸の奥が、ぎゅっと締まる。
賞品。
選ばせる。
自分を差し出す。
あの瞬間、確かにどこかで――
“誰かが選ぶ構図”を想像していた。
「だからさ、来週でもいい」
千代田は続ける。
「答えがまとまってなくてもいい」
一瞬、声が低くなる。
「でも――」
視線を逸らさない。
「“逃げた”って形だけは、残さないでほしい」
その言葉が、机の上に置かれる。
重い。
でも、突き放してはいない。
有本が口を開く。
「……中村」
珍しく、軽口じゃない。
「今のフェイドアウト、二人とも気づいてる」
一歩、距離を詰める。
「それでも行く?」
ドクン。
「それとも――一言だけでも、今の自分の立場、言う?」
沈黙。
時間が伸びる。
心臓の音が、やけに大きい。
ドクン。
ドクン。
誰かが落書きで鳴らす、黒板のチョークが擦れる音すら遠い。
逃げたい。
でも、ここで何かを言えば、立場が固定される。
主催者か。
当事者か。
選ぶ側か。
選ばれる側か。
言葉は、位置を決める。
「あれー今日は時間が経つのが遅いなぁ」
中村はわざと天井を見上げる。
「あ、そうだ。一限目の予習しなきゃ」
机の中から教科書を出す。
ページをぱらぱらめくる。
紙の音がやけに大きい。
――逃してくれないのは、わかってる。
「……はいはい」
有本がわざとらしくため息をつく。
「その逃げ方、もう“逃げ”って自分で言ってるやつね」
でも、追い詰めるほどは近づかない。
半歩分の距離を守る。
「一限目の予習?
中村が?」
眉を上げる。
「珍しすぎて逆に心配なんだけど」
軽い調子。
でも、そこに責めはない。
千代田は少しだけ視線を落とす。
机の端を、指でなぞる。
「分かってるなら、いい」
静かな声。
怒っていない。
「今日は、ここまででいいよ」
「え、千代ちゃん?」
有本が振り向く。
「“逃げた”って形を
自分で分かってるなら」
千代田は中村を見る。
まっすぐ。
「それはもう、一歩目だから」
教室のざわめきが戻る。
誰かが笑い、
誰かが席を立つ。
世界は普通に続いている。
中村は教科書を開いたまま、動けない。
逃げた。
でも、完全に終わらせなかった。
それが“一歩目”なら。
次は――
もう、“来週”では済まない。




