声のトーン
有本の表情が、頭から離れなかった。
少し伏せた目。
いつもの無邪気さの奥に、確かにあった迷い。
——素直なんだよな。
そう思うたびに、それを魅力だと感じてしまう自分が、少し怖くなる。
あの素直さが、無防備さでもあることを。
それでも中村は、千代田と話すきっかけを探していた。
考えることは多いのに、不思議と胸の奥は静かだった。
なぜか、安心している。
——いつも通りの千代田で、いてほしい。
勝手な願いだと分かっている。
自分が何も言えなかったことも、
あの場で踏み込まなかったことも、ちゃんと覚えている。
それでも、祈るような気持ちになっていた。
後を引いていないだろうか。
あの時の空気は、どう残っているんだろう。
膝をついて、貸してほしいと言った、あの行動は——
千代田の目には、どう映ったんだろう。
考えても答えは出ない。
中村はスマホを手に取った。
――今、話できる?
送信して、ほんの数秒。
すぐに既読がつく。
――いいよ
ほっと息を吐いた、その直後だった。
着信音。
画面に表示された名前を見て、心臓が一段跳ねる。
「……え、通話で!?」
思わず声が出た。
文字なら、考える時間がある。
言い直すことも、消すこともできる。
でも、通話は違う。
声も、間も、躊躇も、全部伝わってしまう。
有本の伏せた目。
マンガを閉じた、あの音。
言えなかった言葉。
考えてしまった問い。
全部が一気に頭をよぎる。
中村は、少しだけ深呼吸してから通話に出た。
「……もしもし」
一拍。
「こんばんは」
千代田の声だった。
落ち着いていて、でも、どこか近い。
「……通話で、よかったの?」
言ってはみたものの、
思っていたより、弱い声が出てしまった。
「なんで?」
「いや……いろいろ……
その……文字の方が楽かなって」
「ええ?
だって声、聞きたいじゃん」
明るめの声で言い放つ。
「……え?」
「声聞きたいから通話したって言ったの。
何回も言わせるな」
さらっとした言い方。
でも、逃げ道のない言葉だった。
「あのさ……なんか、変なマンガ読んだ?」
「失礼な」
即答。
「今ね、ハッピーエンドなやつ読んでるの。
楽しくてさー。
なに? このテンションで悪い?」
「いや……悪くはないけど」
電話越しに、少し笑った気配が伝わる。
軽い。
いつも通り……じゃないよね、これ。
おまけに、今日はやけに近い。
——こんな千代田、いたんだな。
相談役でも、聞き役でもない。
一歩引いた安全な位置でもない。
ただ、声を聞きたいから通話をかけてくる千代田。
その事実が、じわじわと胸に染みてくる。
「で?」
促す声。
「話、あるんでしょ」
優しいけれど、甘やかさない。
中村は、一瞬言葉に詰まり、
それでもなんとか言葉を探した。
——これは、マンガの話だけじゃ済まない。
「……あのさ」
一拍置いて、言う。
「例のマンガ、読んだ」
「……そっか。読んだんだ」
いつものトーンに戻った。
「最初は、よくある三角関係かなって思ってた」
「うん」
「でも、読み進めるうちに、
胸の奥がざらっとしてきてさ……
千代田がハマる理由、分かった気がする」
なんとも言えない気持ち。
ざらっとする、というのが正解かは分からないけど。
「……でしょ。
読み終わったあと、
すぐ感想言えないタイプのやつだよね」
「語彙力、なくなる感じ」
「わかる。
派手じゃないのに、じわじわ来るでしょ」
千代田の声は、静かだった。
「たぶんね、
報われない側の感情を、逆に雑に扱わないからかな」
「雑に扱わない?」
「うん。
大事にしすぎて誤魔化すんじゃなくて、
そのまま置いてある」
少し間が空く。
「誰かの恋を応援して、
空気読んで、
“いい人”でいるうちに、
気づいたら一番取り残されてるやつ」
「良い人か……」
「でもね、
感情をぶつけたりもしないし、
何かを責めることもしないで、
それでも、ちゃんと前を向いて笑ってる」
「……あれ、強いんだよ。
強いけど、救われない」
その言葉に、中村は黙って聞くしかなかった。
「だからハマる」
一拍、間が空いた。
「たぶん中村が
“千代田がハマる理由、分かった気がする”
って言った瞬間」
「あっ……」
「私のこと、
ちょっとだけ見ちゃったんだと思う」
中村の胸の奥が、きゅっと鳴る。
「……でさ」
千代田は、声のトーンを変えない。
「それに気づいた中村は、
今、どのキャラのところで止まってる?」
中村は、しばらく言葉を探した。
逃げようと思えば、逃げられる。
でも、もう、それはしたくなかった。
「……なんでさ」
ゆっくり、声に出す。
「報われないって分かってそうなのに、
あの子、相談を引き受け続けるんだろ」
「ん……」
「三角関係だって、
途中で薄々気づいてそうなのに」
息を吸う。
「それでも離れないの、
なんでなんだろうって」
通話の向こうが、静かになる。
これは相談だ。
でも、答えをもらうためだけの相談じゃない。
中村自身が、
どこに立っているのかを、
自分で突きつけている。
千代田が、どんな言葉を選ぶのか。
それを待つ時間が、少し怖くて、
それ以上に、逃げたくなかった。




