指についたりんご果汁はべたべたする
「あれから3年、か」
自転車よりもなお早く、風を切り裂いてバイクが走ります。
青い看板のあるM地点を曲がり、村へと疾走するバイクを駆るたかしくんは、ヘルメットの奥で鋭く周囲に目を配ります。
人の手入れしなくなった道は荒れ放題です。たった数年でアスファルトはひび割れ、元から舗装されていなかった道などには背の高い草が繁茂して、木の根が張り出しているところすらありました。
後方へと飛ぶように流れていく風景を置き去りに、たかしくんは鋭い目線を前方へと注ぎます。あの日、何十分もかけて逃げた道筋が、瞼の裏側に鮮明に蘇ってきます。
いよいよ村に入るというところで、たかしくんは勢い良くブレーキを掛けました。
奇しくもあの日のように、空を雲が覆っていて、遠雷が響いてきます。
たかしくんが気付いたことに、あちらも気付いたようで、家の陰からずるりとその身を曇天の下へと晒しました。
巨大な蛇に、いくつもの手足がてんでばらばらの方向に生えたような、歪な姿。体表にあるいくつもの穴は脈動し、断続的に瘴気が吐き出されています。蛇であれば腹があるあたりには、半分ほどが焼け爛れたようになった人間の貌がべたりと張り付き、爛々と光る紅い瞳がたかしくんを見据えます。
「よう、久しぶりだな、つとむくん。――遊ぼうぜ」
口の端を吊り上げて、獰猛に笑うたかしくんに、それは掠れた声で返します。
「あとで」
耳障りな、きぃきぃと掠れたような音は、『それ』なりの笑っている声なのでしょう。
舌打ちし、相貌を歪めたたかしくんに背を向けて、ずるり、ずるりと『それ』――在りし日の兄の言葉を借りるならば、始祖体ツトム――は草の生い茂った村の中へと姿を消します。
しかし、たかしくんには追うことができません。なぜなら、彼を取り囲むように、何かが道を阻んだからです。
それらは、ところどころがどろどろに溶けてはいるものの、元が人間であるということが、誰の目にも明らかでした。もっとも、それを見て顔を顰めるのは、この場においてはたかしくんの他には居りません。
そいつらの包囲網は、ずるりずるりと緩慢な動きでありながら、着実に狭まってきます。
たかしくんは、荷物からおもむろにりんごを取り出しました。赤々とした、真新しいりんごです。
あの日、おつかいに出て届けられなかった赤い実――それを片手で捧げ持つようにしたかと思うと、一息に粉々に握りつぶしました。
「こうなりたいやつだけ、掛かってきな」
そこには、あの日逃げることしかできなかった少年の姿はありません。
たった3年、されど3年。
徹底的に自分を鍛え上げ、筋骨隆々となった男の姿がありました。
そいつらのうちの一体が、元は口であったであろう箇所をガパリと開いて、たかしくんに組み付こうと迫ります。たかしくんは左腕を跳ね上げるだけで組み付きを躱し、滑るような歩法で一歩を踏み込みました。次いで、震脚と共に放たれた掌底が、左右同時に倒れ込むように襲いかかってきたそいつらの頭部を穿ちます。
ドパァッ――!
2体を粉砕しても、たかしくんは歩みを止めません。顔のあった部分はどろどろに爛れてしまっていますが、元は同じ村で過ごした人であり、もしかしたら彼の家族かもしれません。しかし、たかしくんは躊躇うということをしません。躊躇っていては、やられるのは自分のほうだ。たかしくんは冷静に、ただそれらを粉砕していきます。
覚悟なら、すでに固めて来たのです。
頭部を喪った身体が折り重なって倒れる様にも、たかしくんは見向きもしません。そうしている間にまた1体が頭を爆ぜさせました。
「ぅ……ぁ……やめで」
「ごな、い……で、だす……けて……」
キィキィと、掠れるような音を立てて、それらは言葉を発します。しかし、たかしくんは止まりません。ああなった者が元に戻る見込みはなく、なんならすでに生命活動も止まっています。そして、やらなければ、やられるという状況。たかしくんは上段膝蹴りで肩を砕いた1体の頭部を掴み、そのまま捩じ切りました。
腐った液体がブシュッと溢れ出します。
「悪いな。葬送ってやるのが、いかつい拳で」
彼がようやく拳を下ろした時、村の入り口には他に動くものはおりませんでした。
襲撃で倒れてしまったバイクへと一瞥くれてから、たかしくんはそのまま歩みを進めました。今は帰り道の心配をする余裕なんて、どこにもないのです。
村の中ほどまで歩みを進めたところで、たかしくんは再び足を止めます。
粘ついた灰紫色の粘液が家屋の壁や路面に付着して、ぬらりと光っています。
ごろごろという雷の音はどうやら近づいてきているようで、そのうち一雨来そうです。
遠雷に混じって聞こえてきた微かな物音にたかしくんが振り向き、一度大きく見開いた目を眇めます。
「兄ちゃん」
覚悟はありました。
あの日、別れた兄と再開することがあれば、きっとこういう形だろうと。
しかし、覚悟があっても悲しみが消えてなくなるわけではありません。
「たかし 会い……かった、ぞ」
変わり果ててしまった、たかしくんの兄は、首あたりをごきりと回します。
他の村人と比べ、肉体の損壊具合は緩やかなようで、まるで意思を持ってたかしくんに話し掛けているような発言に、たかしくんは再び瞠目しました。
左の足は半ばで折れ、左腕は根元から消え失せて、代わりに灰紫色の粘液がぐにぐにと蠢いています。
這いずるようにして建物から出て来た兄だったものは、光のない眼窩でたかしくんを睨め付けます。
「残念 だった、な」
途切れ途切れに、ガラスを引っ掻くような耳障りな音を立てながら、それは言葉を発します。
「始祖たい は……新たな、位階……と 至った。すぐに 再生、もう 薬剤、超克 効かな、い」
「兄ちゃん。本当に、意識があるのか? 兄ちゃんなのか?」
こうなったモノ、こう成り果ててしまったモノたちは、生前――とくに、死の直前の記憶に苛まれ、それに伴った言葉を吐き出すだけとされています。
それは3年前、突如発生したヒト腐敗変異型寄生体について研究が進むにつれ、明らかになった事実のうちのひとつです。
主に野鳥を運び屋として蔓延する、この未知の寄生体は、人に感染すると徐々に四肢の末端に痺れたような感覚を覚え、呂律が回らなくなり、ついには死亡するという恐るべきものです。そうして死亡した終宿主は『再起動』し、暴れまわるようになります。
彼らは紫外線に弱く、暴露し続けることで体表から徐々に溶けていくという性質があります。
たかしくんが昔、兄と遊んだゲームに出て来たゾンビのように、噛み付いた相手もゾンビになる、というようなことはありません。しかし彼らの体液は有毒で、ひどい場合だと昏倒したり、ショック死もあり得ます。
そしてこの寄生体の感染源、出どころとなるモノがどこかに居る――その正体は、たかしくんだけが知っていました。
あの日おそらく、つとむくんの叔父さんの屋敷に忍び込み、そこで感染したであろうたかしくんの兄が溢した『始祖体』が、その根源となるはずです。
たかしくんの兄の成れの果ては、たかしくんの声に応えません。
かわりに、這いずる動きでありながら、驚くほどの機敏さでたかしくんの足めがけて飛びついてきます。
たかしくんは、目を閉じます。兄が追いかけてきてくれるはずと信じてひとり歩いたB市までの道すがらを思い出し、幼い自分と、ありし日の兄に決別を済ませました。
そうして見開いた瞳には、覚悟と決意の炎がくべられて、燃えたぎっているかのようです。
「哼ッ――!」
気合いと共に踏み込んだ、大木の幹を思わせる足が、容赦なくたかしくんの兄の頭の、鼻から上を陥没させ、そのまま踏み抜きます。
びちゃり、体液が飛び散りました。
しかし。兄は動きを止めません。
地を掴んだ右腕を軸にして、体当たりを仕掛けてきます。
「くッ」
一撃で仕留め切れなかった。
もはや命はないとしても、兄であった存在を葬送ってやるために、たかしくんは一撃で確実に決めるつもりでした。
事実、いままでのやつらと同じであれば、あれで片はついていたはず。
よもや、無意識に手心を加えてしまったのかとたかしくんが奥歯を噛みしめる中、その現象は起こりました。
うじゅる、うじゅると蠢いていた灰紫色の粘液が、たかしくんの踏み抜いた頭部周辺に寄り集まったかと思うと、なんと吹き飛ばされた頭部を形成しはじめたではありませんか。
「始祖たい……新た、位……再生」
キィキィと軋むように、頭部を『再生』させながら殴りかかってくるそれは、先ほどと同じような言葉を発します。
「哈ッ――!! くそ、だめか……!」
何度穿ち、打ち抜こうとも、兄だったものはゆらりと起き上がります。
ついには接近を許してしまったたかしくんに組みつくように、粘液を撒き散らしながら飛びかかってきます。
「くッ!」
不安定な姿勢で、たかしくんは苦悶の声を漏らします。
威力の乗っていない掌底をやぶれかぶれで腹部へ叩き込もうとしたところで、兄だったものは不可解な動きを見せました。腕を前面に折り曲げて、まるで腹部を庇うような動作を見せたのです。
そのまま吹っ飛んだ兄は、民家の壁にどしゃりとぶつかり、止まりました。白い壁に、新たな灰紫の跡がべっとりと付着します。
「始祖たい……再生」
たかしくんは、目を細めます。
やつらが攻撃を庇うような動作をしたことは、今の今までありませんでした。
腹部が弱点という話も、聞いたことがありません。頭を吹き飛ばさない限り、やつらはいつまでも動き続けるのです。
さっきの動作は、何かを守ろうとしていたものだ、とたかしくんは結論づけました。
理屈なんてありません。ただ、兄弟として通づる勘のようなものでしょう。
やつらは死の直前の動作や発言を繰り返す。命が燃え尽きるその瞬間、彼は何かを守っていたということなのでしょうか。
「何を守りたかったんだ、兄ちゃんは……」
たかしくんの兄は、答えをくれません。
思えば、彼はいつもたかしくんを追いかけて忘れ物を届けてくれる優しさがありましたが、たかしくんの悩みに答えをくれたことはありませんでした。
あるとき『それを考えるのはお前の仕事だ』と言われたことを思い出します。そのときは、答えを教えてくれない兄のことをケチだと思いました。
しかし、今になってたかしくんは思います。考えるのをやめないこと。いついかなるときでも答えを追い求めること。それは学習によって芽吹き、反復練習によって磨かれます。
だから、たかしくんは答えを求めるために、考え続けます。
戦いの中にあっても冷静に。変わり果ててしまった兄を葬送ってやるのはこの自分だ、と拳を握ります。
そんなたかしくんに、キィキィという耳障りな音が飛び込みます。
それは兄だったものの、笑い声でしょうか。
「そ体、すぐに 再、 薬剤……かな、い」
何度も繰り返すその言葉の後に、仕方ないな、とばかりにそれは大ヒントを言の葉に乗せます。
「オれにも 効か、ない」
首をごきりと回しながら、それはキィキィと言葉を発しました。
咄嗟に、たかしくんは腰につけたホルスターから、銃のような形をした装置を引き抜きます。
装填されているのは、一発限りの薬瓶。あの日、兄から受け取ったモノです。
どこか満足げにも見える風貌で、兄は装置を押し付けた、たかしくんを仰ぎ見ます。いえ、それはたかしくんの感傷にすぎないのかもしれません。
一瞬のあと、たかしくんはトリガーを引きました。
プシュッ
小さな音を立てて、薬剤がたかしくんの兄だったものの肉体を侵していきます。
それに伴い、にわかに灰紫色の煙をあげはじめたそれの肉体が、どんどんとろけるように崩れていきます。
苦しむ素振りも見せず、兄だったものは数分のうちにぐじゅぐじゅとした粘液の塊となりました。
ぽつり、ぽつりと降り出した雨はすぐに土砂降りになり、ひとり立ち尽くすたかしくんの体を冷やします。
天を仰いだたかしくんには、目に水が滲むのみで何も見えません。
「世知辛い世の中だな……」
呟きは雨音が覆い隠してしまいます。
兄の亡骸の粘液の塊は雨に洗い流されていき、その場に残された服や靴などの残骸に混じって、ひとつの瓶があるのが、たかしくんの目に留まりました。
瓶はしっかりと蓋がされていて、中には紙が入っているようです。
近くの民家の屋根の下で、たかしくんは瓶の蓋を外すことにしました。あの日から欠かさず持ち歩いているハンカチで表面を拭い、恐る恐る蓋を捻ります。
中に入っていたのは、さっき使ったような薬剤――しかし溶液の色は違い、輝くような紫色をしています。そして瓶の表面に張り付くように、くしゃくしゃに折りたたまれた紙が出てきました。
紙を広げると、そこには兄からの伝言が、ひどく震えた字で記されていました。
始祖体ツトムの身体は、その9割が滅んだところで元の薬剤への抵抗を得てしまったこと。
その時に発作が起こり、兄の腕が奪われたこと。
始祖体の粘液を受けながらもなんとか逃げ出したところで、元凶と目される、つとむくんの叔父に出会ったこと。
叔父に兄の身体の組成を提供し、なんとか新しい薬剤を作り上げたこと。
口で文字を書くのは難しいこと。
死にたくないこと。
身体中が痛いこと。片目が取れてしまったこと。怖くてたまらないこと。
そして最後に、あとは弟のたかしに託す、ということ。
それらが、くしゃくしゃになった紙にびっしりと書き込まれていました。
紙をぺらりと裏返すと、その紙はいつだったかの暑い夏の日に撮った家族写真でした。
兄の成れの果てが腹部を庇ったのは、ともするとこの瓶を飲み込んでいたからだったのかもしれません。
死の直前までの思念に突き動かされ、望みを繋ぐという強い意思による行動だったと、たかしくんは解釈しました。
たかしくんは慟哭をあげます。
誰も聞くことのない、鎮魂の咆哮をあげます。
降り続く雨と雷が、吠え猛る男を見下ろします。
「オレ、やるよ」
皺くちゃになった家族写真を大切に折り畳んでポケットに仕舞ったたかしくんは、紫の薬剤を空に透かし、自分を鼓舞するように呟きました。
託された兄の思いを手に最終決戦に挑む、たかしくんの勝率を求めなさい。
ただし、たかしくんの主人公補正倍率は100%、つとむくんは変身をあと2回残しており、空気抵抗は考えないこととする。
たかしくんは村に戻る前に遺書をしたためており、そこには始祖体という単語や、自分がどこに向かうかも記されています。
たかしくんとつとむくん、共に恨みはありません。
ご感想等、お待ちしております。