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ゼノステア『XenosteA』  作者: シャムロック
2/2

2 この世界は

Svalbard Noland AE [Version 3.1.0004]

Copyright Svalvard Lab. All rights reserved_



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……



 見果てぬ夢を追っていた。

 それは慈愛の神すら呆れ果て見限るような、身に余るほど理想高い、けれどもたったひとつの願い。

 たとえ己の総身その全てを注ぎ込んだとしても決して叶わぬ、ひとつの祈り。


 しかし、それから逃げることは絶対に赦されない。

 故に、脱走者にはならぬよう。

 

 しかし、後を悔やむことは絶対に赦されない。

 故に、懺悔者にはならぬよう。


 しかし、負けることは絶対に赦されない。

 故に、敗北者にはならぬよう。


 千切れんばかりに腕を伸ばした。

 血の涙を流し、拒絶の咆哮を張り上げて、それでも尚その高みに届きはせず――世界は二度も、壊れていく。

 

 一度目はただただ傍観を決め込んだ。


 けれども二度目は防ごうと守ろうと必死になって奔走して。


 どれも、結局は徒労に終わった。

 全てが無意味で無価値で、単なる悪足掻きでしかなかった。

 ただそれをしょうがないと、どうしようもないと潔く諦めるほどの毅さを、僕は持ち合わせてはいなかった。


 僕のために、笑ってくれる人がいた。

 僕のために、怒ってくれる人がいた。

 僕のために、泣いてくれる人がいた。

 

 僕のために、生きてくれる人があそこに確かにいた。


 それなのに僕は……なのに僕は彼らを守れず、僕は世界を救えず。

 なのに僕だけ惨めに生き残って、なのに誰も責めてはくれなくて。

 なのに。

 なのに。 


 なのに……。


『なぜっ!?』


 なにもかも燃え尽き色を失った最果ての世界の、聴者なき灰の広場で、僕はひとり吠え立てる。


『どうして誰も助けてくれないっ!? 誰も責めてくれないっ!? 俺が守らなかったから。俺が……救えなかったから!!』


 咆哮は虚しく白灰色の虚空を震わせ、果てのない空間で反響せずに霧散する。

 僕はたったひとり立ち尽くし。

 ここには誰もおらず。

 誰も聞いていない。

 そんなこと、解っている。

 けれども……


『で、結果はどうだ? この有様だ。皆死んで、世界が消えた!! あぁそうさ俺がやった。俺が、この俺が、こうしてやったんだ!! ほら、なんとか言えよ……言えってんだよクソが!!』


 悲しみで涙が溢れる。

 悔しさで息が震える。

 もう嫌だ、こんなのは。

 ただ誰かを助けようと、ただ誰かを守ろうと、ただそれだけのためにひとり戦うのはもう……



「絶対に……嫌だ……」



 ――そしてこの言葉は、僕の存在意義を根底から拒絶し否定するものだ。全ての責任を放棄し、積み上げた罪科の薪に火を入れる行為だ。



『ならば三度目は?』


「知ったことか……!」


『一度目も、二度目も駄目だった。なら……三度目は、どうする?』


「届かない物に手を伸ばすのは身の程知らずの阿呆だ。僕はもう……」


 僕の燃える右手が、視界の端でゆらゆら揺れる。何かを掴もうと必死で伸ばしたこの手は、けれども何にも触れずに指先から煤となってポロポロこぼれ落ちていき、やがて……、



「――もう、嫌なんだ……」



 かくして、燃え尽き色を失った灰の世界は僕ごと、さざ波に攫われた砂城のごとく容易く崩れ落ち、混沌とした灰と白の景色には新たに暗闇が塗りたくられる。

 つまり僕の物語は、透き通った暗闇から始まる。

 光源ひとつない、文字通りなにもかも真っ暗闇の世界から。


「――それには同意しますよ。グレンも嫌です。こんなこと、べつに趣味でもなんでもないので慎んで遠慮被りたいところです」


「――んぁ?」


 カツカツと、なにかがなにかを規則的に叩く音。

 油と鉄と、それから埃の混じった金臭い空気が辺りに蔓延して、加えて妙に曇った性別の判然としないぶっきら声がそれに重なる。

 無意識の発言に、愛想が良いのか悪いのか、面倒臭くも誰かが丁寧に返してくれていた。


「が、今は何を幾ら嘆こうと爪の垢ほど実りもない、まったくもって詮方なきこと。さっさと顔を上げて下さい」


「ウグッ……!」


 顎を捕まれ、顔を半ば強制で持ち上げられる。

 その時ちょうど喉笛にどこか身体の一部が当たったのか、噛み殺したような呻き声が僕の口から自然と漏れ、抗議しようと目を開いたところで――、


「…見えない……」


 視界が、瞼を開いてもまるで暗闇だった。

 なにも見えない。

 何もわからない。

 僕ははてな、と首を傾げて右手で顔を探り、目の辺りになにかとっかかりがあるのを掌が感じ取る。

 剥ぎ取ろうとするも、まるでそれは皮膚と癒着しているかのようで、微動だにしない。

 

「これは……目隠し…? だがなぜ……」


「――あぁ。悪いとは思ったのだが。以前の君がどうしても、そうしてくれと聞かなくてな。仕方なく、だよ」


 加わる新たな声は、ちょうど前方正面から響いて来る。

 男。老人。それに幾らかの快活さ。力強く、洗練された戦士特有の低い声音は、それらを容易に想起させた。

 彼に向かって僕は、ふっと湧いた疑問を口にする。

 

「以前の僕……自分……俺……? 俺がそう言った、んだろうか?」


「なんでも情報量の過多は、人を要らぬ混乱へ誘うとかなんとか……良くは理解しかねますが、一気に知り過ぎるのは良くないとのことで。段階的処置とも言っていましたよ」


「段階的……処置?」


 いったい、僕のなにを段階的に処置すると言うのだろう。

 思考を巡らせ、その意味するところを捉えんした時――相手を上から押さえつけ諌めるような低音が、始めたばかりの思索を遮断する。

 

「グレン、マニュアルどおりにと厳命したはず。余計な口は、今は是非とも慎むよう、致したのだが?」


「グレンはあなた方の指揮系統とは完全に独立した形態にあります。よって、あなたの命令を順守する責務は、グレンには塵ほどもありはしません」


「なにをほざくと思えば……。これは私の艦。そしてここは私の牙城。ここで私に仇なすは即ち、このペトリュエツカ悉くに牙を剥く行為に他ならぬことを、自覚はしているか?」


 快活に、ずいぶん自己陶酔に陥った男の言葉にしかし、グレンと呼ばれた方は涼しい様子でこう返す。


「今日に至るまで、徹底的に狂言を転がしますか。あなたもずいぶん困った人ですね」


「――狂言に、聞こえるかな?」


「あなたの恐ろしさは、そのくだらない狂言虚構を本物と区別不可能なまでの現実とすり替えること。重々承知していますよ」


「結構結構。それに加えて言うならば、これは私ではなく、他ならぬ彼の意思だっただろう。それを蔑にするは、果たして貴様の本命か?」


「……そうですね。ほとほと、弁の立つようになりましたよ。あなたも」


「そうだな。違いない。あれもこれもそれも、誰かさんのお陰だよまったく」


 過去を懐かしむように、男が鼻で笑い、グレンも静かに笑って引き下がる。

 目の前の男が座り直し、こちらを向くのを気配で感じ取って僕は知らず知らず頬に力を入れる。


「――さて、話を戻そう」


「あぁ」


「突然で悪いがね。なにせ時間がない。君は今、重大な問題に突き当たっている。なにか……心当たりは?」


「目が見えん」


「…………」


 ふたこと返事でそう返すと、戸惑いに満ちた沈黙が降りて来る。

 なんだろう。

 なにか……教師にされた質問を、とても的外れな回答で返した時のような、なんとも言えない場違いな感覚が頭の中をよぎる。

 これは回答をミスったのだろうか。

 ようやく沈黙が途切れ、彼が口にするのはやはり半分グレンに向けたもので、

 

「だからそれは、初めに念を押しておいたはずなのだが……えぇと……グレン、本当に平気なのだろうな? その、彼の、頭の方は」


「そうですね。もう一度、頭を叩いて揺さぶってみるというのはどうでしょうか」


「人の頭はラジオではない。叩いたところで、揺らしたところで直るものか――というか、今もう一度と言ったな? もう一度と。それはまるで過去に一度……」


 僕の頭、テレビかラジオみたいに、ボコスカ叩かれてはいないだろうか?


 彼の言葉に刺激され、僕がそう問い質すより早く、グレンのしらばっくれた声がそれに重なる。

 

「さぁ気のせいでは?」


「そんな訳があるか!! 自分で口を滑らせておいて、誤魔化す気か!?」


「いえ、グレンはこの阿呆を殴って顔ごと地面に叩きつけ黙らせたことなど一度足りともありません」


 グレンのはっきりと確信犯めいた宣言に、恐らく頭痛を感じて手を頭にやっているだろう男の方は恨めしげに、


「っ……やはりこいつだけには、言うべきでは無かった……!」


「はい? それは少し勘違いというもの。初めにこの話を聞いたのは、そもそもあなたではなくこのグレンですよ。あなたにそのようなこと、言われる筋合いはないと思いますが?」


「なるほど……だから貴様はあれ程飄々とした態度で……あの時……」


「気付くのが遅かったですね。あなたも存外、動揺していたんですか?」


「…………」


 きょとんとしたグレンの声。対して、彼の怒りの矛先は、そのまま僕へとシフトチェンジ。何故かと訊ねる前には、怒鳴り声が未だ寝ぼけた頭に酷く響いていた。


「君はなぜ、グレンに話した!? こうなることは予想に難くないはずだろう!?」


「いやいやいや、俺が知るわけないだろう!? こちとら記憶が……!! 記憶……記憶が……うん?」


 言いかけ、僕は口をつぐむ。

 今、なにかそこはかとない違和感が僕の脳裏を横切った気がした。

 或いは湖面に落とした釣り針が、獲物を引っ掛け微かに振れるのを感じ取ったような……。

 まるでなにかに気付けと言わんばかりに、ある種の警鐘を脳が発する。

 胸のあたりがそわそわし、得体の知れぬ焦燥に駆られた僕は、今自らが口にした言葉を考える。

 今、僕はなんと言った?


「記憶……ちょっと待て……俺の記憶……俺の、名前は……? なぁあんた。済まないのだが俺の名前、知らないか?」


「「…………」」

 

「いや。言えないなら良いんだ。ただなにか、せめて理由だけでも教えて欲しいのだが……だめか?」


 僕の発言によって生じた、なにやら不穏な空気を察して慌てて前言撤回。ここで突っ込んだことを聞いてしまっては、なにかがいけないと僕のどこかが訴える。

 ただ疑問なものはやはり疑問なため、語尾には回答の余地を設けておいた。

 対して、二人はしっかり間を取り沈黙を貫いた後、


「そうではない。そうではないが……君の名前は……無いのだよ」


「――は?」


「あなたの名前は、もはやこの世に有りはしない。そういうことです」


 それは酷く要領を欠いた二人の宣言。

 僕はそんな全くもって意味不明の言葉に息を詰まらせつつ、それでもなんとか文を形作る。


「え、いや、だって……名前……だぞ? 産まれたんなら、誰でも持ってるだろ」


「こと君に関しては、そう断言せざるを得ないんだよ。誠に不本意ではあるが」


「不本意……さっきも同じようなことを言ってたな。以前の俺がなんとか、と。それとなにか関係でもあるのだろうか?」


「そうですね――一応念のため聞きますが、あなたは人間がどのようなものか知っていますか?」


 グレンの突飛な質問に対して、僕は眉を顰め無言でその意を問い返す。が、相手はあくまで真剣な様子。僕の答えを黙って待っている。

 またしても訳の解らない質問だ。

 まず、哲学的なことを言っているのか、それとも動物学的なことを言ってるのか。

 後者ならそこまで苦労はしないが、前者の場合はと言うと……僕だってあまり知識がある訳じゃない。

 ここは取り敢えず、姿も見えぬグレンに向けて人差し指を立てて見せ、

 

「あぁ……えぇと……人間? というのは即ち、考える葦である」


「いえ、そういう面倒臭いことは結構ですので、端的に人間の特徴を言って下さい」


「あぁそう」


 では気を取り直して――、


「そうだな。まずは二足歩行できる。それから言葉を喋れる。考え実践することだって出来る。それからそれから――」


「――では、耳の形は?」


「耳の形……それは……丸っこくて、ちっこくて、なんかびらびらしてるな」


「それでは……尻尾は?」


「人に尻尾なんて生えてる訳ないだろ。先祖返りじゃないんだ。有り得ない。ていうかそこまで知識抜けてないぞ俺は! 知能テストがしたいなら、もう少しレベルを上げるべきだろう!?」


「いや、君の知識量はあらかた把握できたよ」


「出来たのか……」

 

 なんとも、低く見積もられたものだ。

 怒りが湧き上がるより先に、何とも言い難い情けなさが先行して気が萎える。

 というかそれ以前に、何のためにこんな質問をしたのか全くもって意図が読めない。

 こいつらはさっきから、僕になにを伝えたいのだ?


「――結果から簡潔に。君は重度の記憶喪失だ。認識はあるかな?」


「…………」


 その言葉に僕は、今までの自分自身がした判然としない言動を立ち返り振り返り、彼に首肯して見せる。

 僕は記憶に関して、大なり小なり欠如を起こしている。それは自明だ。


「なんとなく。名前も禄に思い出せないんだ。朧げながら、そんな気はしていた。だけどな、人に尻尾が生えてないことくらい、知ってるぞ。知っているからな」


「――グレン」


「そうですね。頃合いでしょう」


 いささか深刻な様子で、息を吐くように呟く男。

 後ろに控えるグレンが了承すると、カツカツと足音を響かせ近付いて、僕の真後ろに立つ。

 それから目の辺りを覆う目隠しをいじり始めると、なにやら鉄と油以外の香り――爽やかで、妙に甘みの混じった香が鼻腔を突付いた。


「お前……今更なんだが、女だったのか?」


「そうですよ。この透き通るような美しい声音と、女神に祝福されし容姿が、あなたにはわかりませんか?」


「そんなこと言われてもだな……声音は滅茶苦茶にくぐもって聞こえるし、容姿なんて見えるはずないのだが……?」

 

「心配せずとも、直ぐに見えるよう取り計らいます――えいっ」


「んぎゃあっ!!」


 気の抜けた気合いを入れて、グレンは僕の目隠しを無理やり引き剥がし、それは顔の皮膚をそのまま引き剥がしたかのような錯覚に囚われる。

 ――悶絶だ。

 もはや激痛と呼ぶことすら、表現に当てはまらない刺激が、そのまま痛覚回路を焼き切るような勢いで伝わってくる。

 

「目がっ、目がぁっ!! 俺の……俺の目がっ!! あぁクソッ、痛いっ!! あぁ……!!」


 ひとしきり吠え、唸り、空気に散々ヘドバンして痛みを意識から除外させ、ようやくジクジク痛みが響くようになる頃合いで――長い溜め息。


「あぁ……助かった……」


「そうですか。良かったですね」


 まるで爪の垢でもほじりながら言うグレンに向けて、僕は依然涙の溜まったままの眼を向ける。

 焦点は未だ結べず、光でぼやぼやした視界のせいで彼女の云う祝福されし容姿は判然としなかったが、今はそんなのどうでもいい。


「なぁグレンさんや、せめて了解や許可というものをだな」


「痛みは構えていたとして、特別和らぐものでもないです。ならば知らずに突然、の方が気が楽かと思いまして……」


「それは本当に、俺への親切心からなんだろうな?」


「……どうでしょうね?」


 その言葉で、彼女の意思は十分過ぎるほどに伝わって来る。

 親切心なぞ、一欠片も無いことに。


「……もう良い。解った――それで、いったいなにが伝えたい?」


 気を取り直すように僕は、声のトーンを一段ばかり上げて発する。

 グレンはその様子を、鼻で息をし気分を変えたのか、少しだけ真面目な口調になると、


「グレンを、或いはあの老いぼれを良く見てください」


「あん?」


 荒ぶる光の暴虐のなかで、僕の虹彩が最適な程度まで光を押し留め、網膜にはっきりとした像を描き出す。

 だんだんとボワボワした光が絞られ、滅茶苦茶に塗りつぶされたキャンバスのような景色が色を別け、徐々に輪郭を持ち始める。

 

「――――」


 そこは、小さな部屋だった。

 木製の机ひとつと、椅子が幾つか。

 壁すら木材の柔らかな薄茶で覆われて、そこを交錯するのは鈍く輝く鋼の柱。

 暖色系の明かりがふらふら揺れて、床に映るふたつの人影を妖しく投影する。

 そしてすぐ横を伸びる影の根元には一対の軍靴があり、僕はそこから視線を上へと辿る。


 しなやかに伸びるのは、黒いストッキングに腿まで包まれた脚。それはガーターベルトでショートパンツと繋がっており、見事な絶対領域を創り出す。申し訳程度のお洒落なのか、スカートに関しては極限まで切り詰めており、意味があるのか無いのかプリーツ加工が為されている。

 更に視線を上へと這わせると、上着自体もおおよそ役に立たない無意味な装飾を一切廃したもので、比較的身体に合わせた着付け。

 全体的に、お洒落よりも柔軟性と運動性そしてなにより強靭性が重視された服。

 要するに女性用の軍服だ。


 ここから総合するに――、

 

「となるとお前さんの方がグレンという訳だな。改めて、よろし――く……て、なに? え?」

 

 燃えるような緋色の長髪に、ほっそりとしたスレンダーでいささか華奢な体型。ここまではなるほど、確かに整っている。が、残りの、肝心の顔はというと――

 

「ゴーグルに……なにそのマスク? 顔なんてちょっとも見えないぞ。どんだけ重装甲なんだ? 加えてなぜ耳だけはお洒落している? 突っ込みどころ多すぎるだろお前」


 飛空士が身につけるようなゴーグルと、濾過器がポッコリくっ付いた漆黒のマスク。

 そのせいで顔の肌なんて殆ど見えない。

 加えてなぜか、耳の辺りには髪の毛ではない別の白い毛に包まれたなにかがあり、それは恐らく耳あてかなにかなのだろうか?

 彼女はコクリと小首を傾げて見せ、耳の辺りにくっ付いたなにかが連動してぴくりと震えた――ように見えて、


「はぁ……? ここは空気が悪いので」


「それは毒ガス用のものだろう? なぜそんなものをわざわざ……普通のマスクでも良いだろうに」


「それではあなたの口と身体から振り撒かれる毒ガスは、濾過出来ませんので」


「失礼過ぎはしないか、流石に傷付くぞその罵倒……」


 これでも年頃の益荒男なのだ。女と性の付く方に臭いとか不細工とか言われれば、それ相応に傷付く。

 身体を自分で臭っても、口に手を当て口臭を確認しても、馴れから何とも思わないし、僕が文字通りしゅんとしていると、グレンは更に追い打ちを掛けるようにして


「――付け加えると、あまりの臭いに目が滲みるほどだったので、追加でゴーグルをかけさせて貰ってます」


「あの……俺は切りかけの玉ねぎなのだろうか……」


「いいえ。あれほど白くも端麗でもないですが。良いとこ掘り起こしのジャガイモですかね」


「…………」


 いったい何度、僕の死体を蹴り回せばこの少女は気が済むのだろう?

 僕のライフは、もうとっくに零だというのに……。これはあまりに……酷すぎる。

 目の奥から、熱々とこみ上げてくるものを感じていると――それから彼女はふっと肩を落とし、慈愛に満ちた声でこう言う。

 

「――ですがそれも致し方ありません。日数にして約二百、その間あなたは魂の抜け殻のようになっていました。同情はしますよ。心から」


「おぉ……!」


 なにかまた重要なことを言われた気もするけど、ここまで貶められての慰めは、僕のセンチメンタルな心を酷く揺さぶって――そして……、


「確かに同情はしますが――臭いのであまり近づかないで下さい。というか、近づかないで臭い」


 ――一気に地の底へと叩き落とす。


「……もう……解った。解ったから……これ以上俺を虐めないでくれ……」


 完全に心をへし折られた僕は、涙ながらにそう懇願し――そして突如として、肺腑を衝くような衝撃が背筋を駆け登った。

 身体の何処かに存在する、一時停止ボタンを押したとすればまさにその状況。

 

「――――」


「どうか、しましたか?」


「あぁ……いや、えとあの……」


 ――この会話。この駆け引き。この状況。憶えている。景色は違えど、場所は違えど……。確かに記憶として積み重ねた。記憶は……あの記憶。誰の……これは、僕の……。

 僕は……そう、僕は――、


「――アァ……アァ……!」


 色を獲得した景色が、再び闇に閉ざされて行く。それが怖くて恐ろしくて、たまらなく寂しくて、僕は両手を仰いで掴まえようと椅子を蹴飛ばし立ち上がる。

 ――誰か、助けて。

 心の叫びは言葉にならず、掠れた母音のみが、喉を震わせ空気を揺らす。

 赤。黄。緑。黒。茶。橙が。

 そして白は……蒼は……。


「この世界の……」


 


 ――この世界の色。

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