第五夜 赤と黒
一人の男が道端に座り込み背中を建物の壁に預けていた。息は粗く、時折ひどく辛そうに咳き込んでいた。苦しげな呻き声を上げて、体を折り曲げる。まだ若い、とは言っても成人はしている年頃の声に聞こえた。よく見ればシャツの腹の辺りが黒く染まっている。きっと、明るい日差しの下ならば真っ赤に染まっているのだろう。一呼吸、自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吸い、そしてまたゆっくりと吐き出す。その口元は皮肉気な笑みが浮かべられていた。
まさか、こんな死に方をする破目になるとは。
帽子を毟り取るように乱暴に地面に叩き付けると、乱れた髪を、燃え盛る炎のような赤毛の髪を掻き上げた。最後の晩餐代わりにと煙草を吸うべく、ジャケットに手を入れてふと手を止める。手にいつもと違う感覚を覚えて、そう言えば、とそれを取り出した。
青い薔薇は今まで胸に入れられていたにも関わらず、元の形を保ち、瑞々しい。この薄暗い路地裏で、薔薇だけが静謐さを以て闇を照らしていた。
しばらく男はそれを眺めていたが、腹の傷が痛んで今一度顔を苦痛に歪めた。
どうせ、もう死掛けだ。薔薇が見せてくれると言う幸せな夢を見てみるのも良いかもしれない。
左手を恐る恐る腹から離して薔薇を持つと、燐寸を探す。震える手で壁に擦りつけてようやく火が点いた。
カタンコトン、カタンコトン、カタンコトン……
一定の間隔で体が揺られ、規則的な音が耳に届く。眠りの中でずっと聞こえてきた音が、段々はっきりとしてきて少しずつ意識を取り戻した。うっすらと開いた視野には、目の前に座る人物の足が移っている。
「ああ、起きたか。」
声をかけられた方向に目を向けると、軍服を着た男が座っていた。例えその胸の少なくない階級章が無かったとしても、服の上からでも分かる鍛えられた体や背筋をぴんと伸ばして泰然と座っている様子から、低くない地位に居るのだと知れる。烏のように黒い髪に吸い込まれそうな黒い瞳。おまけに黒い軍服を身に纏っているものだから、闇の塊が座っているようだった。だが、眠る前にこのコンパートメントで出会った客である記憶とは相違がなく、急に意識が覚醒する。
「眠ってしまっていたのか、申し訳ない。俺の番だな?」
二人の間に置かれたチェス盤に目を向ける。直前にどんな動きをしたのかあまりはっきりはしなかったが、駒の配置を眺めてしばらく考える。だらしなく凭れかかっていた姿勢から、ポケットに左手を入れたまま起き上がる。二三度、駒を握りかけては止め、を繰り返した後に、白いルークを動かすと、一仕事を終えた肉体労働者の様に重い溜息をつきながら外の景色を眺めた。
はて、自分は一体どこへ向かう汽車に乗っていたのだったか。
駒を動かしながら、時折窓の外を見ていたが、ずっと同じ景色が流れて行くようにも見える。
この感覚は、覚えがある。そうだ、幼い頃一度経験した。
あの時は、汽車などではなく馬車だった。母と姉と一緒で、どこへ行くのだろうか、まだ着かないのかと何度も何度も遠くの景色を眺めるのだが、あの時もやはり同じような景色が流れるだけだった。
何度目かの勝負が着いて、何度目か駒を並べ直した時、不意に目の前の黒い男が口を開いた。存外、柔らかく穏やかな声だった。
「君は、なぜここに?」
軍人らしい鋭い目と険しい印象を与える眉間の皺、圧迫感しかないしっかりとした体つきは歴戦の猛者たる貫禄があるが、どうやらこの男の気性は根の部分で軍人には向かない慈悲深さを持っているのだろうと想像できる、そんな声だった。
答えるつもりはなかったが果たして黒い男は明確な答えを求めているのか、そんなことを考える傍ら、チェスにもそろそろ飽きたな、と思った。ふとした思いつきで駒を動かしてみる。
「俺の母親はね、町一番の阿婆擦れだったらしい。」
まず、ポーンをごっそりと奪わせた。
黒い男は、盤上で視線を彷徨わせていたが、こういうのもたまには面白いだろう? と、言えば苦笑いしながら誘われるがままに駒を動かす。
「らしい、というのは阿婆擦れだった母親を俺は知らないからなんだが。俺が知っている母は、貧しいけど、美しくて、今ならきっと魅力的とか蠱惑的とかそんな賛辞を思いつく人だった。」
よくある話だった。妾だった俺の母親は主の死とともに暇を出されて、町を出ることになった。町が嫌になったとか、想い出の地に居られないとかそんな理由じゃなくて、それが手切れ金を出すために奥方が示した条件だったからだ。しかし、小さな村や町は大方閉鎖的だ。住むことが出来る場所を探して何度も馬車に乗ってはあちらこちらへと彷徨った。ようやく見つけた町であるが、例え住むことを認めても、受け入れるかは別だ。妾とその子供であれば蔑視を受けるのは当然で、俺達もその例に漏れず苦労した。
取りやすい場所にビショップを動かす。即座に黒のナイトが飛び出して駒を奪っていく。
「幸い、金にはそれほど困っていなかったんだ。奥方が、手切れ金としてしっかり包んでくれたから。だが、物を売ってくれなかったり、あるいは下心を持って近づいてくるやつらばかりだった。ある日、母は買い物に出たきり帰って来なかった。何日も、何日も帰って来なかった。俺と姉は町中探したけど、みんな顔を背けるかにやにやと笑うだけで、誰も教えてくれなかった。結局、母が見つかったのは死んだ後でね。」
胸糞悪い結末だった。ようやく見つかったと知らされて、姉と二人、最悪の結末だと知って向かった先。変わり果てた姿の母は、想像していた最悪の結末を越えていた。今、思い出しても吐き気がこみ上げる。必死に過去を飲み込む。
右往左往するだけのナイトは、黒のビショップが蹂躙していった。
「随分酷い目に遭わされたと言う事だけは分かった。あの時は幼かったから、母が痛い思いをしたんじゃないかと思ったんだけどね。痛いだけなら、どんなに良かったか。母の女としての人間としての尊厳を全て踏み躙るような事をされたんだろうね。きっと、見た目の傷よりもずっと心が痛めつけられていたはずだ。」
胸元を引きちぎられた衣服。傷だらけの背中。鬱血した手首。腫れあがった顔。そして、本来なら子どもを産むための神聖な場所は血だらけだった。
「でも、町の奴らは何て言ったと思う?」
己の目から、体から、まるでこの燃えるような赤毛が憎悪の炎になったように、憎しみばかりが漏れ出る。
「お前の母親は阿婆擦れだったから、あんな目に遭ったんだろう、阿婆擦れらしい死に方だな。ってね。」
役に立たないルーク。クイーンの先に立ちはだかっても、一手だけ足止めを食らわせるしか能がない。
白の駒を片端から奪っていく男だったが、徐々に眉間の皺を深めながら、いつの間にか真剣な目でチェス盤を見つめていた。
「とはいえ、そうやって俺達を嘲ったあいつらは皆、黒い死神達に殺されてしまったが。」
ぴくり、と黒い男の手が止まった。言葉の意味を謀り兼ねているのか。
クイーンは味方の駒の前に飛び出して串刺し(スキュア)になる場所に入り込ませた。
この男は気が付いたのだろうか。
膝が触れそうな距離で向い合いながら互いの領分を守るべく、相手の領分を侵すことなく僅かに身じろぎをして足を延ばす。
可笑しな話だった。軍人らしく鍛え抜かれた体、恐らく荷物のどこかには拳銃も持っているかもしれない。そんな男は全身で怯えを見せていた。平然としていたつもりだろうが、男の足は震えていて、誤魔化すように何度も組み換えた。唇が乾いているようで何度も舐めていた。姿勢を崩そうと、組んでいた腕を緩めては、強張った腕を動かすのに苦労している。どれほど全身に力を入れて、チェス盤を睨みつけていたのだろうか。視線で駒を動かす鍛練をしている、なんていう冗談を言ってもよかったのかもしれない。
チェス盤の上では、黒い駒があちらこちらに広がり、ほとんどが黒の領分だった。
だのに、この狭い密室には黒い男の領分はどこにもなかった。男は自分の体を動かす空間すら見つけられないかのように、じっと身をすくめていた。
「チェック、だな。」
黒い男の静かな、しかしながら感情を抑えた声がいつの間にか暗くなったコンパートメントに響いた。
チェス盤の上に残ったのは白い駒は、キングの外にはポーンがたった一つだけ。
黒い駒に囲まれて、暗がりの中佇んでいた。
しばらくの間、身じろぎ一つせずに二人は黙って白いポーンを眺めていた。
男は、わざとなのだろうか、それとも意図しないことか、違う話をしてきた。
「ところで、このポーン、なぜ昇格しなかった?」
「それはあんたも一緒だ。キングを取ってくれと言わんばかりだったじゃないか。こっちの領分を一方的に蹂躙して行ったのに……」
白のポーンはいつの間にか、敵陣の奥にまで進んでおり、もう一手奥へと動かしてクイーンにでも昇格すればチェックできたはずだった。
「なぜあのポーンだけを見逃したんだ?」
男は息を飲んだ。
やはり、この男は気がついていたのだ。あの日、いたのが俺だと。
俺達を受け入れなかった町を蹂躙した黒い死神達。この黒い男はその先頭にいた。胸の徽章の一つは、町を引き換えにしているはずだ。
勘違いしないで欲しいのだが、と前置きを挟んでから口を開いた。
「俺は、あんた達に感謝してるんだよ。」
母が無残な死に方をしてから、俺は姉と二人で息を潜めて生きてきた。母という保護者がいなくなってからより一層容赦ない荒波が俺達に押し寄せてきた。道では石を投げられ、時折殴られ。まだ幼かったためか、幸い姉が母の様な目に遭うことはなかったが、ロクな物すら口にできなかった。寒くて眠れない夜を抱き合ってしのぎ、暑くて気が遠くなりそうな日には夜中にこっそりと井戸から水を汲んで渇きを癒した。
ただただ毎日が辛かった。反骨心を持つには幼く、非力過ぎた。嵐はいつか去るのだとじっと堪えるだけで精一杯だった。
そんな時に、死神達はやって来たのだ。
日常が壊されて憤りを覚える人間は、幸せだと思う。それまで幸せな人間の足元で地べたを這って生きていた人間は、いつも通りの日々が壊されて、自分達を圧迫していた重石が誰かに取り払われて、ようやく、閉塞感を打ち破ることが出来る。
「町じゃね、爪弾きにされていたから、少なくとも俺は死神に感謝してるさ。だってそうだろう? 昨日まで自分をゴミだとか屑だとか罵っていて足蹴にしていた人間が、より力を持った人間の前じゃ無様に転がるだけ。母をあんな目に遭わせた奴らが、見ない振りしていた奴らが、今度は逆に救いを求めているのを無視して、殺してくれた。」
その後のことは運が良かっただけとも言えるが、俺にとっては人生の転機だった。元々、父親の所に居た時は家庭教師がいたので、文字が読める人間が多くない田舎町では、本来重宝されるべき子どもだったのだ。それが分かって、俺は人間の生活を取り戻した。その他の僅かに残った人間は、ほとんどの場合、過酷な労働を強いられた。
「それに、俺は使えると引き取られたからね。いい気味だったさ。昨日まで俺を蔑んでいた人間が茹でただけのジャガイモを奪い合うのを尻目に、あいつらが昨日まで日曜の夕食に食べていたような食事を朝食にして。今じゃあ、あいつらが、鞭打たれて、ぼろぼろになるまでこき使われているのを眺めて、試練なのだとすました顔で口走り、あいつらの死に目に立ち会って、神の元へと送ってやる。神の前では嘘は言えないから、あいつらの罪を正直に口にしてやるさ。まったく、どんな気分だろうね。死によって過酷な日々から解放されようと言う時、罪を犯した相手に祝福を受けると言うのは。」
俺は、黒いナイトをキングがあった場所へと動かした。そして、そっと白のキングの頭をつまんで男に差し出した。
「出会いの記念に。」
男は、三本指で底を持つとそっと受け取った。そして、しっかりと握りしめたのだ。
「あんたに会えてよかったよ、俺を救ってくれた死神に。」
そういって男に向かって手を差し出した。男もきっと同じような思いでいたのだろう、疑いもなく先ほどまで握りしめていた駒をズボンのポケットに入れると手を差し出した。赤い男と黒い男は、しっかりと握手を交わした。
その瞬間だった。
男の黒い軍服、階級章が飾られたその真横に穴が空いた。穴から溢れ出た赤い液体はすぐに黒い布に吸い取られ、じんわりと黒をさらに黒くする。ぐらりと、男の体が傾いで、初めて座席に凭れた。
ずっと、ポケットに入れていた左手。実は、一発だけ撃てる小さな拳銃を握っていたのだ。
「あんたには感謝してる。だけど、憎んでもいるんだ。俺の前に飛び出した姉を殺したのはあんただからな。」
黒い男は、口からも赤い液体を垂らしながら、逞しい体に似合わない、許しを乞う様な心細い顔でこちらを見上げた。
夢か。
寒くて目を覚ますと、知らない路地裏にいた。起き上がろうとすると腹に激痛が走り、血が流れ過ぎたのか体が思うように動かなかった。遠くの喧騒が、ざらついた音になって耳に残る。暗闇を映しているいるはずの視野は、幽霊のような残像に覆い尽くされていた。最後の男の顔が消えない。
青い薔薇を渡した後に、派手な装いの男が残した言葉を思い出す。笑いがこみあげて来て、腹を抱えて笑いたいのだが、今はそれが出来ない。
どうせなら夢を見ている内に死ぬことが出来ればよかったのに。
夢の中で黒い死神を殺した赤い男は、皮肉気に笑った。
黒い死神を追って、ようやくここまでやって来たというのに、くだらない諍いで腹を刺された。現実では、黒い死神を殺すことは愚か、探し出すことすらもう出来ない。
「夢は夢の中でだけ叶うだろうよ。」
滅多になく自分と同じくらい赤い髪をした派手な男の言葉が浮かんだ。
男が二人、街角に佇んでいた。二人とも燃えるような赤い髪の男だったが、その装いは随分と異なっている。一人はその赤毛に似合わず真黒な僧服を。もう一人は、髪の赤に負けず劣らずの色とりどりの随分と派手な装いをしていた。
派手な装いは赤、白、緑、黄、橙に紫。唯一男が身に着けていない色は、その左手の花束に。
その手に持つのは青い薔薇。
派手な装いの男が言うには、この薔薇を燃やすと絶対に不可能だが至極幸せな夢を見られると言う。
黒い僧服の男はしばらく悩んだ。
さて、一体何を対価に渡すべきか。
三日月のように目を細めて薄い笑いを浮かべていた派手な装いの男は、目の前の僧侶の行動に瞠目した。なんと僧服を脱いだのだ。シャツとズボンになると、僧服を差し出して来た。その上、ついでだ、などとうそぶいて十字架までも差し出す。
「よくよく考えてみたら、ここへ来るために盗みも殺しもした。こちらが僧侶だと知って相手が警戒していないことをいいことにね。だから、俺はもう神に仕えるには相応しくないし、もうこれは不要なんだ。」
どうやら衝動的な決断ではなかったようで、荷物の中から上着を出す。装いを変えた赤毛の男は、この前まで神に仕えていたとは思えないほど、野性味があり垢ぬけた雰囲気でああった。僧侶だった頃は女の信徒ばかりを集めていたのかもしれない、と容易に想像が出来る。
「そこまでして、この薔薇が欲しいとは……、何とまあ酔狂なこった。」
「そう言う訳じゃないさ。ただの決意だ。黒い死神を捕まえるためのね。」
青い薔薇を受け取った男は、軽く会釈をすると町の喧騒の中に紛れて行く。
「夢は夢の中でだけ叶うだろうよ。」
派手な装いの男がぽつりと漏らした言葉を、先ほどまで僧侶だった男は聞き洩らさなかった。
「夢は夢の中でだけ……、全くだ。」
次の日の朝、二人の男が腹を刺されて死んでいるのが見つかった。
「大地礼賛」のテーマがチェスだったので、チェス繋がりで。