第三夜 蜘蛛の巣 Ⅰ
テーマは「Kiss of the spider woman」、裏テーマは間接的な官能表現。一部、ミュージカルの歌詞を下敷きにした部分がありますが、実際の舞台や小説とは無関係です。
青田が大好きなミュージカル歌手が来日するので、勝手に来日記念で書きました。
庶民の間では時計などなく、だが一日の区切りが太陽ではなく時計になった頃の話。朝、街の窓を叩いて人々を起こすノッカーアップという仕事があった。
これは、そんな仕事をして日銭を賄っていた青年の話である。
*
青年は毎晩、安酒場で薄められた酒を一杯ひっかける。花街をうろつくと、その近くにある教会の片隅で夜を明かすのだ。まあ、夜を明かすと言っても、数時間待つだけのこと。空が白み出す頃、長い竿を持って街を歩きながら頼まれている部屋の窓をノックする。起きてきた依頼主に駄賃というに相応しい額をもらうと、次の窓に移る。僅かな額とはいえ、いくつも窓を叩いていれば、そこそこの額にはなるもので、学は無かったが、青年は頭の良い人間で、まだ東の空の端が明るくなった頃から、日が高くなるまで上手く回れば、十分な日銭を得られると知っていた。もらった硬貨を握りしめて週末には粗末なパンを一斤買う。青年は近くの貧農の四男で、パンと僅かな額の金で家に留まらせてもらっているのだった。
元々、ロクに働きもせず兄嫁には穀潰しとまで言われていた。ある時、ノッカーアップをしていた近所の老人が体を悪くして、頼まれたのをきっかけにこの仕事をするようになった。人々が起き出して、町に賑わいが満ちると青年は家路につく。途中の並木で薪を拾って歩き、昼が近くなる頃に、青年の兄一家が出払った家で寝床に着くのだ。皆が起きた後に眠るので、場所は要らない。家族が一日の畑仕事を終わらせて戻ってくる頃には青年はいなくなっている。家族も朝から寝床にもぐる青年に多少眉を顰めてはいるが、パンと薪と端金を代金にして寝床を貸す商売だと納得していた。
青年は足取りも軽く酒場に向かっていた。
今朝、パンを買った後にほんの気まぐれでいつもと違う道を通って家に向かったのだ。道すがら腰を曲げた老婆が歩いていて、青年の目の前で石畳の段差に躓いて転んだ。普段ならば気にも留めないのだが、今日は気まぐれで通ったのだから気まぐれを起こしてみようと思い、さっと駆け寄り、手を貸してやったのだ。気の良い老婆はいたく感謝して、僅かな額だが、と言いながらも四、五軒分の駄賃の額に値する金と手に持っていた籠からみずみずしい林檎を一つ青年にくれたのだ。
「ご婦人、さすがにこれはもらい過ぎじゃあないか?」
もらった謝礼を返す気はさらさらなかったが、こういう類の人間には下手に出るのが好ましいと青年は知っていたので、ほんの少し謙遜をしてみた。
「いえいえ、とんでもない。私のような老いぼれが転んで、これ幸いと籠を盗んでいくような輩が多い中、あんたみたいな若者は奇特なもんだ。」
「そうかい。じゃあ、ありがたく頂くよ。」
青年はパンと共に林檎を手にして家に帰った。家族には老婆に手を貸した事情を話してパンと林檎を渡す。もちろん、いつもよりも多い金を持っていることは内緒にして。家族は疑う事も無く、珍しい林檎に喜んでいた。その晩は、足取りも軽く、酒場に向かったのだが。
「たまには少し美味い酒を飲んでみるのも良いかもしれないな。」
いつもの店の前に立った青年だったが、今日は少しばかり懐に余裕がある。ならば、一つ先の通りにある別の酒場に行くのもよいかもしれない、と思い立った。そこは、いつもの店よりは値が張る、とはいえ庶民が通う程度の酒場で、青年も片手で数えられる回数行ったことがあった。この青年、割と真面目な性格で、毎日一枚だけ硬貨を残していたのだ。少しずつ貯めて、こちらの店に来られる額になると美味い酒を飲むのだ。今朝、余分にもらったお陰で、早くこちらの店に来られた。
久しぶりに来た酒場は相変わらずで、だがいつもの店よりも少しだけ喧騒が少なかった。商売女とは言え、女の姿もちらほら見かける。
ふと、一人の女に目が釘付けになった。
街娼のような身なりの女だった。夜の酒場に来て、男の隣で酒を飲む程度には垢ぬけていて、色気のある女。貴族たちの愛人になるような高級娼婦ではないが、少しは羽振りの良い娼婦なのかもしれない。隣にいる男の雰囲気からすると、金持ちの商人と愛人か、駆け出しの女優と後援あるいはその両方といったところか。あのような人間が来るには少し汚らしい場所ではあるが、有り得ないことではない。男が軽い世間話をするためだけに寄ったのか、空になった器に酒が継ぎ足されることは無くそのままだった。
こうやって少し高い酒場に来るのも悪くないが、たまには貯め込んだ金でああいう女は無理でも少しくらい良い女を買うのもいいかもしれない。
暗めのブルネットは流行りの髪型に結われ、洒落た帽子が乗っている。夜鷹のようわざとらしい露出をしていたり、派手な身なりをしていたりする訳ではないが、ほんの僅かに胸や腰を強調するような仕草が女の色気を非常に良く醸し出していた。
女の連れの男が別の客との会話に夢中になった瞬間だった。
女の眼差しが青年を捕えた。少ないランプで照らされただけの薄暗い酒場で、その眼差しだけがはっきりと見えた。
酒の所為かほんのり色づいた頬。酒に濡れた唇。伏し目気味になって豊かな睫毛に隠されていた瞳が露わになる。元々うっすらと笑みを湛えていた唇が、男と目が合った瞬間ほんの僅かに上げられる。一度こちらを射ぬいた緑色の瞳が、再びゆっくりと黒く艶やかな睫毛に覆われ、今一度ゆっくりとしかし伏し目がちに開かれた。
口に含んでいた酒を飲み下した時に、ごくりと喉がなったのは、いつもより上等な酒の所為ではないだろう。喧騒の中、喉が鳴る音が聞こえたかのように女はくすりと笑った。
ああ、なんと青年は女が瞬きをする間にすっかり心を奪われてしまったのだ。
と、女の横にいた男が何か声をかけ、女の視線はそちらへ向く。途端、暖炉から遠ざかったかのように体から熱が消えた。そして、二人は連れ立って出て行ってしまった。だが、店を出る際、女の視線がもう一度だけこちらを見た、微かにそんな気がした。
「ああ、お前さん。探していたんだよ。」
霧が深い朝だった。声をかけてきたのは何時ぞやに転んでいたところに手を貸してやった老婆だった。
「あんた、もう一軒回る部屋を増やす気はないかい?」
老婆はとあるアパルトマンの大家に雇われて下女をしているのだそうだ。アパルトマンは借りている女性がいて、毎朝下女は頼まれて起こしていたが、足が悪くなってきて階段を上がるのが大変になってしまった。それで、起こすのだけでもノッカーアップに頼んで良いかと聞けば構わないとのことだったので、どうか、と。
労働者階級の家々の窓を次々に叩くよりは少し羽振りがよさそうな仕事であった。おまけに頼まれた時間は他の家々を回った後でも十分余裕がある時間。
運が良い。青年は喜んで頷いた。
早速、老婆に案内されて向かったアパルトマンで、窓を教えられた。薄く桃色がかった駱駝色のカーテンはぴったりと閉められ、額縁のように黒い窓枠が縁を飾っている。
次の日の朝。一通りの窓を叩き、新しく頼まれたアパルトマンへと向かう。窓を見上げれば、窓手摺の下に蜘蛛の巣が張られていた。起こすついでに蜘蛛の巣取りをして小銭を一枚多くもらおうか、とも思ってみるが、細い糸が何重にも渦巻く巣は、さながら鉤編みのレースのような繊細さで、その真ん中に陣取る黒い蜘蛛は、長い足と細長くくびれた体をしていた。これが人間の女なら良い女だろうと思われるような、そんな優美な雰囲気を持っている蜘蛛であった。あまりの優美さに、青年はしばし蜘蛛に見惚れ、蜘蛛の巣をそのままにして竿を握り直した。
さて、件の部屋は雨戸までしっかりと閉じられていて、音も光も外の世界の一切を拒絶していた。だが、頼まれたからには依頼主が顔を出すまで叩くしかない。竿を持ち上げると、何度か雨戸を叩いた。時間を取られるだろう、とは思っていたのだが。存外すぐに内側の窓を開く音が聞こえ、手を止める。
固く閉じられていた雨戸が開いた瞬間。冥府から舞い戻って扉を開くエウリデュケを目にしたオルフェウスもかくや、とばかりに青年は歓喜にうち震えた。
あの酒場で見かけた女が顔を出したのだ。
恐らく随分と間抜けな顔をしていただろう。見惚れるというよりは呆気に取られていたのだから。青年の様子に果たして気が付いたのか気付かなかったのか、はたまた気が付かない振りをしたのか。
「御苦労さま。」
コインを落とした女は、一瞬だけ笑みをこちらに向けて窓の奥へと戻っていたのだった。
家に向かう足取りですら、夢見心地であった。これから毎日あの女を目に出来るのかと、毎日声を聞くことが出来るのかと思えば、一時の笑みと言えども向けてもらえるのだと思えば、道端に咲く雑草の花すらつまらない田舎道を飾る宝石に見える。
日暮れ前、目を覚ました青年は、いつもより丁寧に顔を拭くと櫛で髪を整えた。青年は櫛など持っていなかったので、兄の物を拝借した。ふと、酒場に行く時に女の家の前を通ってみようかと思いつく。声をかけようとか、顔を見たいとかそんな大それたことを思ったのではなかったが、気がつけば黒い額縁の下に来ていた。既に辺りは薄闇に包まれ始めていたが、窓は明りが漏れることもなく、開かれる様子もない。窓の下に目を移すと、蜘蛛は朝と同じく美しい巣の真ん中に優雅に構えていた。と、小さな蝶が一匹、蜘蛛の巣の端にかかった。あ、と思ったが、すぐに蝶は蜘蛛から逃れどこかへ飛んでいった。そして、蝶に導かれる様に、男もその場を離れたのだった。
月の満ち欠けを繰り返す頃には、すっかり青年は女とも顔見知りになった。親しくするわけではないが、毎朝、窓から顔を出した女に挨拶以外も一言二言、言葉を交わすようになった。
今朝もまた窓を叩こうと、黒い額縁を見上げれば、夏の空気のせいか常ならしっかりと閉じられていた窓が僅かに開かれていた。閉じられた窓を眺めた時の、微かな疎外感がたったそれだけで和らぐのだから不思議だ。その上、顔を出した女は、心付けとともにウィンクを投げてきた。それだけで青年は九層の雲を駆け昇っていく心地だった。
浮ついた気分のまま、家に戻れば、畑に向かう途中の兄嫁と出会ってしまった。途端、九層の雲から海の底へと叩き落とされたような気分になる。
嫁いできた時から器量の良い女だとは思わなかったが、近頃はより一層器量が悪くなったように思う。その上、青年の顔を見れば小言を言うようになっていた。金髪ではなく、かといって艶めかしい茶色でもない中途半端な髪の毛は無造作にまとめられ、いつもより深く眉間に皺が寄っている。肉付きは悪くないのだが、妖艶さとか優美さには無縁で、ただ図体が大きいと言った方が正しいかもしれない。
「全く、ロクに稼ぎもせずにいい気なもんだ。」
嫌味だけを吐き捨てると兄嫁はすぐに立ち去った。きっと顔も見たくないのだろう。ロクにとは言うが質に入れてる品々を日曜までに買い戻すための金は青年が入れている。週末にはパンも買っている。決して、ただ飯食いではないのだが。気にしても仕方がないと青年は肩をすくめて、傾いた入口をくぐった。
古びた木靴を脱ぐと、寝台替わりの板に横になった。ふと薄暗い天井を見上げると、蜘蛛の巣が張られていた。あの女のアパルトマンでは、レースの様な美しい刺繍に、艶めかしい優美な蜘蛛が横たわっているようだった。それが果たしてここではどうだろう。歪な形の巣。その真ん中には、地味な茶色でずんぐりとした形の蜘蛛がいるだけだ。なんだか、色や形が兄嫁に似た蜘蛛だと思った。
住む女によって蜘蛛や巣まで美しさが異なるのだろうか。
案外、的確な点を突いているかもしれないな、と青年は鼻で笑って眠りに落ちた。
とある日の朝は、いつもに増してすっきりしない雨の朝だった。雨と霧の間のような雨で、傘をさしていても、じんわりと濡れているだろう。
もちろん、青年は傘など持っていなかったため、雨が酷い時は木の板を、弱い時は上着を頭にかけていた。女の家の前に立って、おや、と思う。雨なのに、窓が僅かに開いていた。そのせいか黒い額縁は濡れて輝き、内側のカーテンも水が染みていた。不思議に思いつつも、何度か窓を叩いた。普段なら、すぐに顔を出す女が中々出て来ない。珍しいと思いながらも叩き続けていると、内側の窓がようやく動いた。内窓が開かれるまでの時間が、青年にはいつももどかしかった。早く、女の顔が見たかった。
だが。何と、窓から顔を出したのは見知らぬ若い男だった。裸にシャツを羽織っただけの姿で顔を出すと、何も言わずコインをこちらに投げて、すぐ部屋に戻って行ってしまった。茫然として、窓を眺めた。
窓の下では、蜘蛛の巣が雨に濡れ至高の芸術品のようだ。蜘蛛もきっと濡れてしまっているのだろう。いつもより艶めいた姿がなんとも美しかった。
ぬかるんだ道を苛立ちながら青年は家へ向かった。先ほどの男。悔しい程に美男子だった。シャツを羽織っただけの体もしっかりしていて、煙草をくわえて顔を出す仕草が様になっている。昨晩、あの男は女の部屋で一夜を明かしたに違いない。中々起きて来ない女に、シャツを羽織っただけの男。何があったかは考えなくても分かる。
ただの負け犬の嫉妬だとは分かっていた。自分があの女の部屋に入れるような人間ではないのだ。
不愉快な気分のまま寝床に潜れば、青年の一日が終わるのだった。
今日もまた、青年の一日が始まる。いつもの通り酒場へ顔を出してから教会へと向かう。教会の建物には鍵がかけられているが、階段の脇には体を預けて夜を明かせる空間があった。数刻の間、朝を待つには支障ない。
教会の前までやって来た青年は、いつもとは異なる部分を見つけた。僅かに扉が開いていたのだ。訝しみながら中を覗くと、燭台に蝋燭が一本、それに照らされる様に一人の男が座っていた。
男の姿を一言で表すなら色鮮やかな男と言うべきか。しかし、扉を開けて思わず声をかけたのは、中に居た男が随分と変わった井出達であったからではない。
「その花、本物か?」
色鮮やかな男は花束を抱えて座っていた。その花束はほとんど闇と言っていい教会の中でもはっきりと分かるほどの鮮やかな青い薔薇。
くるり、と極彩色の男が立ち上がってこちらを見た。
「この花はね、とてもとても幸せな夢を見せてくれるんだ。」
幸せな夢。
それを聞いた男の脳裏に浮かんだのは、あの女の顔だった。
「一つどうだい? 残念ながらタダでとは言えないが、あんたが今すぐ渡せるものの中で一番、困らないものを一つ。何でも良いさ。」
「困らない物?」
男は自分の姿を改める。野良着ではない、というだけの一張羅。人に渡せるような物など何もなかった。
「別に品物の価値は関係ないさ。今、人に渡しても良いかと思える物を何か一つ。ふむ、そうだな、そのタイはどうだい?」
まあ、確かに街を歩けばシャツだけの人間はいくらでもいる。それを思えば渡しても良いかもしれない。それに、あるから着けていたというだけの薄汚れた品だ。
「こんな物で良いのか? なら。」
そう言って、男は対価を渡して薔薇を受け取った。
「花に火をつけるとね、花がぽうっと光って、そのまま待っているとだんだんと紫色の煙が出てくる。その煙が満ちた中で眠れば素晴らしい夢が見られるよ。」
家路を歩む道は、いつになく忙しなかった。薪など拾って歩く時間すらも惜しく、足早に家へと向かう。
兄の一家が外に居るのを確認すると、青年はすぐに寝台に潜り込む。道すがらくすねた燐寸を取り出すと花弁に火を付けた。青い薔薇からは白い炎が上がる。青年の荒い吐息で時折、ゆらりゆらりと形を変え、薄暗い部屋の中で漂う鬼火のようだった。
靄がかった朝だった。空を見ることすら叶わないが、恐らく太陽は雲に覆われているのだろう。朝にも関わらず通りは人の気配がなく、一人分の足音だけが通りに響く。
いつものように、女のアパルトマンの下にまでやってきた。二回を見上げると、何と窓が開かれているではないか。カーテンは時折風に揺れている。
呼ばれている。
青年は、建物の玄関を開けた。音もなく開いた扉の中は、やはり人気がない。目の前には二階へと続く階段があった。木目の美しい階段に足を乗せると、ゆっくりと足を運ぶ。艶やかな手すりは、微かな光を跳ね返し滑らかであるのが分かった。上った先の扉を開ければ、小ざっぱりとした居間だった。豪奢ではないが、趣味の良い家具が置かれていて、どれの上にも綿のレースの飾り布がかけられている。今の季節、無意味でしかない暖炉には何の花か分からないが、鉢植えが一つ飾られていた。部屋の中にはもう一つ扉があった。いつも叩く窓の場所を考えると、扉の向こうは寝室に違いない。
青年の心臓が強い調子で脈を一拍刻む。
そっと扉を開ければ、居間に比べて無機質な部屋には大きめの寝台がぽつりとあった。白いシーツは波打ち、布のたわみがレースの模様のように見えた。その真ん中、喪服にしては体の線が出る黒いドレスを着た女が髪をまとめもせずに広げて眠っている。
何故か、この部屋の窓の外にある蜘蛛の巣をふと思い出した。
ドレスの胸元から覗くふくよかな胸はゆっくりと上下していて、この部屋の主が穏やかな眠りの中にあることは間違いなかった。
どうやって起こしたらよいのか。
窓を叩くしか術を知らない青年は僅かに逡巡する。そうだ、どこかを軽く叩けばよいのだ、と手を伸ばした時。
女の手が、突然、青年の手首を掴んでぐいと引き寄せた。美しい顔が目の前にある。
ぱちりと女の目がこちらを捕えた。