第27話 六度目では終われません
十月に入って最初の練習で、ユリアと喧嘩をした。
喧嘩というほど大きな声は出さなかった。
だから、かえって始末が悪かった。
「もう少し、先へ行けない?」
ユリアが弓を下ろして言った。
「これ以上速いと、崩れます」
「速さではなくて。あなたが、次の音を待っているから」
「合奏ですから、待ちます」
「私を待つのではなくて、失敗しないのを待っているのよ」
私は鍵盤を見た。
十日前には、うまく弾けた。
そのあとも何度か、よいところまでいった。
なのに、今日は指が固く、音を置くたびに、次を確かめたくなった。ユリアの旋律を聴いているつもりで、私は自分の手ばかり聴いていた。
「分かっています」
言うと、ユリアは私を見た。
「分かっているなら、もう一度」
弾いた。
同じところで、遅れた。
ユリアが止まる。
「今、引いたでしょう」
「間違えそうだったので」
「間違えていいから、来て」
私は顔を上げた。
「あなたは、簡単におっしゃいます」
口から出たあと、しまったと思った。
ユリアの眉が上がった。
「簡単だから、ここにいるわけではないわ」
私は返事ができなかった。
彼女は楽器を置いた。
「少し、休む」
そう言って窓辺へ行った。
私は鍵盤の蓋を閉めなかった。
閉めたら、今日は終わってしまいそうだった。
◇
庭では、葉の色が変わり始めていた。
ユリアは水を飲み、私は譜面を見ていた。
同じ部屋なのに、さっきまでより遠かった。
私は、彼女の演奏を好きだった。
軽やかに見えるから簡単なわけではないことも、知っていた。
五年間、その手を見てきたのだから。
「ごめんなさい」
私が言うと、ユリアは振り向いた。
「簡単だなんて、思っていません」
「ええ」
「今日は、うまく弾こうとして、動けなくなっています」
ユリアは椅子へ戻った。
「誰が聴くから?」
私は黙った。
答えは、一人ではなかった。
彼も、娘も、叔母も来る。前の会で曲を聴いてくれた人もいる。私の指輪を見て、誰と結婚するのか知っている人もいる。
私は、六月より上手な人でいたかった。
「みんなです」
言うと、ユリアは少し笑った。
「ずいぶん、多いわね」
「はい」
「ここには、私しかいないわよ」
私は彼女を見た。
ユリアは楽器を取り上げた。
「一度、ひどく弾きましょう」
「今も、そうでした」
「もっと。転ぶつもりで」
彼女が弾き始めた。
驚くほど速かった。
私は慌てて追いかけた。二小節目で右手が転び、左手だけが進み、戻ろうとするとユリアはさらに先へ行った。
「待ってください!」
「待たない!」
私は声を上げて笑った。
ひどい演奏だった。
途中から、正しい音を追うのをやめた。残せる音だけ残し、彼女の旋律へ飛び込む。
ユリアも笑っていた。
最後の音だけ、二人で揃った。
大きく、派手に鳴った。
私は息を切らして鍵盤から手を離した。
「これは、お客様にお聞かせできません」
「ええ。でも、今、私を聴いていたでしょう」
私は頷いた。
ユリアは弓を持ち直した。
「では、歩ける速さへ戻しましょう」
今度は、音が進んだ。
間違いがなくなったわけではない。
それでも、二人で同じところへ向かっていた。
◇
夕方、公爵邸へ寄った。
結婚式の席のことで、叔母とマルタ様が話す約束をしていた。私は二人の隣へ座り、何度も頷いたが、頭の半分はまだ舞曲を弾いていた。
「サビーヌ」
叔母に呼ばれ、顔を上げた。
「今、何の話だった?」
「……お菓子でしょうか」
「椅子よ」
私は額に手を当てた。
マルタ様が小さく笑った。
「少し休んでいらっしゃい。数は、こちらで確かめられます」
私は礼を言い、音楽室へ行った。
鍵盤に触れる。
今度は、ちゃんと弾けた。
もう一度弾く。
アウグスト様が戸口に現れた。
「夕食は、一緒に取れるか」
「少し、待ってください」
私は振り向かずに言った。
指が止まらなかった。
もう一度、確かめたかった。
彼の足音が遠ざかる。
私は三度弾いてから、ようやく手を下ろした。
部屋が暗くなっていた。
机の上に、小さな皿が置かれている。
薄く切ったパンと、果物と、蓋のついた杯。
いつ置かれたのか、気づかなかった。
私は立ち上がった。
隣の居間に、彼がいた。
本を開いていたが、私を見ると閉じた。
「食べるか」
「はい」
私はそばへ行った。
「さっき、ひどい返事でした」
「曲の途中だった」
「それでも」
彼が手を伸ばした。
私はその手を取り、隣へ座った。
「今日は、ユリアとも喧嘩しました」
「そうか」
「仲直りしました。たぶん」
「たぶん?」
「最後に、明日はもっとひどく弾く、と言われたので」
彼が笑った。
私も笑った。
そのあと、お腹が鳴った。
たいへんはっきりと。
「まず、食べよう」
彼が言った。
私は顔を覆った。
「はい」
机の皿を運び、二人で食べた。
最後の小さな菓子は、一つしかなかった。
私が彼を見ると、彼は皿をこちらへ押した。
「今日は、あなたの方が働いたようだ」
「そちらも、お仕事でしたでしょう」
「私は、曲と喧嘩はしなかった」
私は菓子を半分に割った。
彼へ渡す。
彼は受け取った。
半分の甘さで、ようやく一日が終わった気がした。




