第26話 大きな捕虜の小さな椅子
九月の終わり、私の机には、三種類の紙が積まれていた。
結婚式の知らせ。
演奏会の楽譜。
それから、フリーダが描いた船の絵。
最後の一枚がいちばん大きかった。
小さくすると言っていたはずなのに、紙は増え、帆には窓のようなものまで付いている。
「客室です」
公爵邸の音楽室で、少女は説明した。
「お菓子を載せる船ですよね」
「お菓子も、雨に濡れてはいけません」
式の会食は室内だった。
私は窓の外を見た。
今日も、よく晴れている。
「蓋のある箱を載せるのは、どうでしょう」
提案すると、少女は少し考え、船に四角を描き足した。
話は、少しずつ進んでいた。
私は彼女の隣で、夜明けの小品を書き写していた。
舞踏会で会ったアルノー氏の娘へ渡すためのものだった。片手だけでも旋律が終わるように、音を幾つか省いてある。
簡単にするのは、思っていたより難しかった。
音を減らせばよいわけではない。好きだったところまでなくすと、別の朝になってしまう。
「私も、弾けますか」
フリーダが聞いた。
「試してみますか」
少女は船の絵を置いた。
鍵盤へ移り、右手を構える。
最初の一音が鳴った。
次の音まで、ずいぶん時間がかかった。
私は口を開きかけ、閉じた。
彼女は自分で譜面を見ている。困っているけれど、まだ、こちらを見てはいなかった。
三つ目の音が鳴る。
四つ目で、一つ高くなった。
少女は眉を寄せ、戻った。
ゆっくり、旋律が進んだ。
最後まで来ると、フリーダは息をついた。
「朝になるのが、遅いです」
「お休みの日なのかもしれません」
「では、これでいいです」
私は笑った。
音を減らしても、朝は残っていた。
それが分かった。
「もう一度、弾きます」
彼女が言った。
私は隣へ座り、低い音を添えた。
ゆっくりの朝が、二人ぶんになった。
◇
午後、アウグスト様が音楽室へ来た。
仕事から戻ったところで、上着の襟元がきちんと留まっていた。フリーダは譜面を見せ、自分で弾けたと報告した。
「聴きたい」
彼が言うと、少女はすぐに座った。
私は少し離れた。
今度は、一人で弾きたそうだった。
曲はゆっくり進んだ。
父親は急かさなかった。最後の音まで聴くと、拍手をした。
少女の頬が上がる。
「サビーヌが、小さくしました」
「そうか」
「お父様にも、弾けるかもしれません」
彼は鍵盤を見た。
「私には、難しそうだ」
「私が、教えます」
船長は、立派な先生になった。
彼が座ろうとすると、椅子が少し低かった。少女が足を置くための台もあり、膝がつかえる。
私は、その姿を見た。
初めて会った日の、小さな椅子を思い出した。
公爵が、娘の話を聞くために、窮屈そうに座っていた日。
私は鍵盤の端へ手を伸ばした。
低い音を一つ。
次に、高い音を二つ。
彼がこちらを見る。
私はもう一度弾いた。
大きな人が、椅子の位置を確かめて、どうにか座るような音だった。
フリーダが笑った。
「お父様です!」
「私なのか」
私は続きを弾いた。
低い音が威張って進もうとすると、高い音が割り込む。低い音は止まり、少し戻り、今度はゆっくり進む。
少女は声を上げて笑った。
彼は腕を組んだ。
「ひどい扱いだ」
「捕虜ですから」
私が答えると、彼も笑った。
最後は、低い音と高い音を一緒に鳴らした。
思いついたばかりの、短い曲だった。
「これも、書いてください」
フリーダが言った。
「忘れる前に」
「題名は?」
「お父様の椅子です」
彼が私を見た。
「もう少し、威厳のあるものを」
「大きな捕虜の小さな椅子」
私は言った。
少女は何度も頷いた。
公爵は、二対一の多数決に敗れた。
◇
娘が船の絵を祖母に見せにいくと、彼は上着の襟を緩めた。
「あなたに曲を書かれるとは、思わなかった」
「あまり、立派な曲ではありません」
「気に入った」
私は顔を上げた。
彼は椅子の背に腕を置き、こちらを見ていた。
「私が、ああ見えているのだな」
「いつもではありません」
「いつもは?」
私は少し考えた。
軍服で馬に乗っている姿。
木の板を運ぶ腕。
私の手を取って膝をついた夜。
「……一曲では、足りません」
彼の顔が、ゆっくり明るくなった。
「それなら、楽しみが増える」
私は楽譜へ目を戻した。
赤い指輪が、紙の上で光った。
彼は私の隣に座り、机の端へ薄い本を置いた。娘が区切った、小さな領地だった。
「本当に、ここだけなのですね」
「約束したので」
頁を開く。
私は音を書いた。
しばらく、紙と紙の音だけがした。
何かをしてあげなくても、会話を続けなくても、隣にいることが嬉しい時間だった。
私は曲の終わりを書き、少し迷ってから、最後の低い音を柔らかくした。
彼はそれに気づかなかった。
気づかなくてもよかった。
私だけが知っている、彼への贔屓だった。




