第22話 伯爵家の次女を知る人たち
九月に入ると、母が王都へ来た。
父も一緒だった。
親戚の祝いに出るための滞在だったが、叔母の家へ着くなり、母は私の顔を両手で挟んだ。
「元気そうね」
「手紙にも、そう書きました」
「手紙の頬は、つまめないでしょう」
私はされるままになった。
父は玄関の荷物を見ていた。
「鞄が一つ増えている」
「サビーヌのものです」
母が答えた。
「こちらで使うかと思って」
増えた鞄の中には、薄手の上着と、古い楽譜と、私が実家に置いてきた小さな置時計が入っていた。
曲が増えたなら、時間を忘れるだろうから。
母はそう言った。
すでに忘れて公爵を待たせたとは、すぐには言えなかった。
昼食のあと、私は修復された青い楽譜を母へ返した。
母は表紙を撫で、ゆっくり開いた。
「綺麗に直ったわね」
「古い糸も、中に残してあります」
細い紙に包まれた糸を見せると、母は目を細めた。
「よく、ここまで大事にしてくれたわ」
私は何か答えようとして、声が出なかった。
雑に返された日に、私が怒ったのは、これが母のものだったからだ。けれど、自分の大切にしたいものを大切にしていいのだと、そのときは誰かに言ってほしかった。
彼は、それを言ってくれた。
「その方に、お会いできるのを楽しみにしているわ」
母が言った。
私が何を考えているか、顔に出ていたらしい。
◇
アウグスト様を夕食へ招いた日、私はいつもより落ち着かなかった。
彼には、公爵として挨拶されることに慣れた父もいる。父には、娘の恋人として来る人がいる。
双方が同じ一人なのだから、どうにも姿勢の決め方が難しそうだった。
結局、母が最初に空気を変えた。
「お帽子を追いかけたそうですね」
彼は私を見た。
「手紙に書きました」
私は言った。
「たいへん速かったです」
彼が答えると、母は嬉しそうに笑った。
「小さい頃からです。姉のお菓子を持って逃げるときなど」
「母様」
「何?」
「初めてのお食事です」
「そうね。分かりやすい話がいいでしょう」
父が静かに水を飲んだ。
助ける気はないらしかった。
公爵は、私の知られたくなかったところを、ひどく楽しそうに聞いていた。
「私が聞いた話では、二人で台所へ謝りに行ったと」
「まあ。そこは話したのね」
母が私を見た。
「本当のことです」
「ええ。ただ、その前に庭へ逃げました」
余計な部分が足された。
私は杯を持ち、顔の下半分を隠した。
「私だけが、失敗の多い人になっています」
「私は木から下りられなくなった」
彼が言った。
父が顔を上げた。
「それは、何の木でしたか」
「梨です」
「枝が細くなるので、帰りに困りますな」
母が父を見た。
私は父を見た。
父は水を置いた。
「知識として」
アウグスト様が笑い、私はとうとう声を上げて笑った。
◇
食後、母は私の曲を聴きたいと言った。
私は少し迷い、夜明けの小品を弾いた。
六月に舞台で弾いた曲だった。あのとき座っていなかった彼が、今日は父の隣にいる。
特別に埋め合わせるためではなく、母が聴きたいと言った夜に、彼もいる。
それが、ちょうどよかった。
私は弾いた。
最初の、まだ目を開けたくないような音から、最後の四小節まで。
父が静かに拍手をした。
母は、しばらく楽譜を見ていた。
「ここ、決まったのね」
「はい」
「昔は、何度も違う音で終わっていたでしょう」
私は笑った。
「母様が、よく眠れたとおっしゃったので」
「途中で終わっていたとは、知らなかったのよ」
彼が笑った。
母は私の曲が完成する前を、知っている。
彼は完成したあとの私を、これから知っていく。
どちらの時間も、同じ部屋に置けた。
私は楽譜を閉じた。
◇
彼を見送るとき、父が少し先に玄関へ出た。
私は扉の近くで待った。二人の声が低く聞こえる。
全部は聞き取れなかった。
ただ父が、『あの子は、平気そうな顔が上手いので』と言ったのが聞こえた。
私は一歩出ようとして、やめた。
彼が何と答えるか、聞きたかった。
「近頃は、私にも分かるほど、困った顔をしてくれます」
アウグスト様が答えた。
父が、少し笑った。
「それは、よかった」
娘の困った顔を喜ぶ父と恋人が、玄関で意見を一致させていた。
私は扉から出た。
「聞こえています」
「そうか」
父は慌てなかった。
「では、後で説明する手間が省けた」
父が部屋へ戻ると、彼が私の手を取った。
「楽しかった」
「私は、少し落ち着きませんでした」
「分かるほどだった」
「そういうところです」
彼は笑い、私の指に口づけた。
今夜の彼は、いつもより少し若く見えた。
公爵家の父親ではなく、私の父に娘の話を聞かされて、面白がっている人だったからかもしれない。
「また、招いてほしい」
「はい」
私は頷いた。
彼が帰ったあと、母が葡萄色の衣装の裾を確かめていた。
「鉢は倒さなかったのね」
「聞きました」
「そう」
母は平然としていた。
「綺麗に着てくれて、ありがとう」
「また、お借りしても?」
母は私を見た。
それから衣装を畳むのをやめ、私の腕に載せた。
「もう、あなたの方がよく踊るでしょうから」
私は、柔らかな布を抱いた。
借りていたものが、自分のものになる。
そのとき、元の持ち主の思い出は、なくならない。
私は母に礼を言い、次に着る日のことを考えた。




