↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/38

第22話 伯爵家の次女を知る人たち

 九月に入ると、母が王都へ来た。


 父も一緒だった。


 親戚の祝いに出るための滞在だったが、叔母の家へ着くなり、母は私の顔を両手で挟んだ。


「元気そうね」


「手紙にも、そう書きました」


「手紙の頬は、つまめないでしょう」


 私はされるままになった。


 父は玄関の荷物を見ていた。


「鞄が一つ増えている」


「サビーヌのものです」


 母が答えた。


「こちらで使うかと思って」


 増えた鞄の中には、薄手の上着と、古い楽譜と、私が実家に置いてきた小さな置時計が入っていた。


 曲が増えたなら、時間を忘れるだろうから。


 母はそう言った。


 すでに忘れて公爵を待たせたとは、すぐには言えなかった。


 昼食のあと、私は修復された青い楽譜を母へ返した。


 母は表紙を撫で、ゆっくり開いた。


「綺麗に直ったわね」


「古い糸も、中に残してあります」


 細い紙に包まれた糸を見せると、母は目を細めた。


「よく、ここまで大事にしてくれたわ」


 私は何か答えようとして、声が出なかった。


 雑に返された日に、私が怒ったのは、これが母のものだったからだ。けれど、自分の大切にしたいものを大切にしていいのだと、そのときは誰かに言ってほしかった。


 彼は、それを言ってくれた。


「その方に、お会いできるのを楽しみにしているわ」


 母が言った。


 私が何を考えているか、顔に出ていたらしい。


     ◇


 アウグスト様を夕食へ招いた日、私はいつもより落ち着かなかった。


 彼には、公爵として挨拶されることに慣れた父もいる。父には、娘の恋人として来る人がいる。


 双方が同じ一人なのだから、どうにも姿勢の決め方が難しそうだった。


 結局、母が最初に空気を変えた。


「お帽子を追いかけたそうですね」


 彼は私を見た。


「手紙に書きました」


 私は言った。


「たいへん速かったです」


 彼が答えると、母は嬉しそうに笑った。


「小さい頃からです。姉のお菓子を持って逃げるときなど」


「母様」


「何?」


「初めてのお食事です」


「そうね。分かりやすい話がいいでしょう」


 父が静かに水を飲んだ。


 助ける気はないらしかった。


 公爵は、私の知られたくなかったところを、ひどく楽しそうに聞いていた。


「私が聞いた話では、二人で台所へ謝りに行ったと」


「まあ。そこは話したのね」


 母が私を見た。


「本当のことです」


「ええ。ただ、その前に庭へ逃げました」


 余計な部分が足された。


 私は杯を持ち、顔の下半分を隠した。


「私だけが、失敗の多い人になっています」


「私は木から下りられなくなった」


 彼が言った。


 父が顔を上げた。


「それは、何の木でしたか」


「梨です」


「枝が細くなるので、帰りに困りますな」


 母が父を見た。


 私は父を見た。


 父は水を置いた。


「知識として」


 アウグスト様が笑い、私はとうとう声を上げて笑った。


     ◇


 食後、母は私の曲を聴きたいと言った。


 私は少し迷い、夜明けの小品を弾いた。


 六月に舞台で弾いた曲だった。あのとき座っていなかった彼が、今日は父の隣にいる。


 特別に埋め合わせるためではなく、母が聴きたいと言った夜に、彼もいる。


 それが、ちょうどよかった。


 私は弾いた。


 最初の、まだ目を開けたくないような音から、最後の四小節まで。


 父が静かに拍手をした。


 母は、しばらく楽譜を見ていた。


「ここ、決まったのね」


「はい」


「昔は、何度も違う音で終わっていたでしょう」


 私は笑った。


「母様が、よく眠れたとおっしゃったので」


「途中で終わっていたとは、知らなかったのよ」


 彼が笑った。


 母は私の曲が完成する前を、知っている。


 彼は完成したあとの私を、これから知っていく。


 どちらの時間も、同じ部屋に置けた。


 私は楽譜を閉じた。


     ◇


 彼を見送るとき、父が少し先に玄関へ出た。


 私は扉の近くで待った。二人の声が低く聞こえる。


 全部は聞き取れなかった。


 ただ父が、『あの子は、平気そうな顔が上手いので』と言ったのが聞こえた。


 私は一歩出ようとして、やめた。


 彼が何と答えるか、聞きたかった。


「近頃は、私にも分かるほど、困った顔をしてくれます」


 アウグスト様が答えた。


 父が、少し笑った。


「それは、よかった」


 娘の困った顔を喜ぶ父と恋人が、玄関で意見を一致させていた。


 私は扉から出た。


「聞こえています」


「そうか」


 父は慌てなかった。


「では、後で説明する手間が省けた」


 父が部屋へ戻ると、彼が私の手を取った。


「楽しかった」


「私は、少し落ち着きませんでした」


「分かるほどだった」


「そういうところです」


 彼は笑い、私の指に口づけた。


 今夜の彼は、いつもより少し若く見えた。


 公爵家の父親ではなく、私の父に娘の話を聞かされて、面白がっている人だったからかもしれない。


「また、招いてほしい」


「はい」


 私は頷いた。


 彼が帰ったあと、母が葡萄色の衣装の裾を確かめていた。


「鉢は倒さなかったのね」


「聞きました」


「そう」


 母は平然としていた。


「綺麗に着てくれて、ありがとう」


「また、お借りしても?」


 母は私を見た。


 それから衣装を畳むのをやめ、私の腕に載せた。


「もう、あなたの方がよく踊るでしょうから」


 私は、柔らかな布を抱いた。


 借りていたものが、自分のものになる。


 そのとき、元の持ち主の思い出は、なくならない。


 私は母に礼を言い、次に着る日のことを考えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。