第21話 あなたと踊っている人
私を迎えに来たアウグスト様は、挨拶の途中で黙った。
私は階段を下りる足を止めた。
葡萄色の裾は、思っていたより暗くない。灯りを受けると赤みが差し、歩くたびに色が動いた。母の真珠の留め具は、髪ではなく胸元に留めてある。
「何か、変でしょうか」
「いいや」
返事が早すぎた。
私は最後の段を下りた。
「では、何か言ってください」
彼は私の手を取った。
「綺麗だ」
たった一言で、叔母と二時間かけた支度が、すべて報われた。
私は微笑もうとしたが、嬉しすぎて、少し失敗した。
叔母が後ろから現れた。
「では、行きましょう。玄関で一曲踊るには、狭いですから」
彼がようやく私の手を下ろした。
下ろしただけで、離さなかった。
◇
舞踏会の広間には、夏の花の匂いと、人の声が満ちていた。
灯りは高いところから降り、磨かれた床に幾つもの輪を作っている。音楽家たちが弦を確かめ、客は互いの名前を呼び合っていた。
私は彼の腕に手を置いたまま、主人役の侯爵夫妻へ挨拶した。
侯爵夫人は、私の衣装を見て微笑んだ。
「よくお似合いですわ。お母様も、その色がお好きでしたね」
「母から借りました」
「まあ。それなら、踊ったあとに裾を確かめなくては。あの方は昔、薔薇の鉢を一つ倒してしまわれたの」
私は母を思った。
母からは聞いていない話だった。
「無事に返せるよう、気をつけます」
夫人は笑い、公爵を見た。
「お二人で、たくさん踊っていらして」
私たちは広間へ進んだ。
途中、何度か彼が呼び止められた。儀礼の仕事の話、久しぶりに会う親戚の近況。短い挨拶のたび、彼は私の名を紹介した。
娘の音楽を見てくれる人、と付け足さなかった。
そのことが、静かに嬉しかった。
私も彼の隣で、自分の名前を言った。
曲が始まった。
彼が私に向き直る。
「踊っていただけますか」
「喜んで」
練習では言わなかった挨拶だった。
手を取られ、床の明るいところへ出る。
人がいた。
たくさん、見ていた。
けれど、彼の手が腰に触れると、応接室の敷物を思い出した。あの短い距離で、私はこの人と踊ったことがある。
最初の一歩が、思ったより軽く出た。
「靴は、丈夫ですか」
私が聞くと、彼は笑った。
「今のところ、無事だ」
「最後まで、保証できません」
「楽しみにしている」
そんなことを言うので、私は笑いながら回った。
裾が揺れた。
彼の肩越しに灯りが流れる。
誰かの視線を気にして微笑むために、私は来たのではなかった。
この人と踊りたかった。
それが、身体の動きになるのが嬉しかった。
◇
一曲終えると、喉が渇いていた。
彼が飲み物を取ってきてくれるあいだ、私は柱のそばで息を整えた。叔母は古い友人と話している。こちらへ目を向けたので、私は小さく頷いた。
「サビーヌさんですね」
声をかけられた。
三十代ほどの男性だった。淡い灰色の上着を着て、胸元に小さな銀の飾りがある。
「六月の会で、夜明けの曲を聴きました」
私は目を瞬いた。
彼はアルノーと名乗った。侯爵家の縁者で、音楽堂を借りている菓子商人と知り合いなのだという。
「娘が、家であの曲の真似をしまして」
「お嬢様が?」
「まだ片手だけなのですが。最後が分からず、毎回、途中で夜になるのです」
私は笑ってしまった。
「それは、忙しい一日ですね」
「もし譜面を分けていただけるならと思いまして。もちろん、難しい箇所は弾けないでしょうが」
私はすぐには答えられなかった。
曲を聴いた人が、家へ持って帰りたがっている。
私の知らない子が、私の知らない部屋で、あの朝を弾こうとしている。
「写したものでよければ、お渡しできます」
「ありがとうございます」
「少し、左手を簡単にしてみます。片手の旋律だけでも、終わるように」
言いながら、頭の中で音を減らしていた。
その顔を見られていたらしい。
「今、もう考えていらっしゃるのですね」
アルノー氏が笑った。
私は頬に手を当てた。
アウグスト様が、杯を二つ持って戻ってきた。
互いに面識があったらしく、短く挨拶を交わす。話の内容を聞いた彼は、私へ杯を渡しながら、嬉しそうに目を細めた。
私は、その表情も好きだった。
私が彼以外の人へ曲を届けることを、彼が喜んでくれる。
娘のためでも、恋人のためでもなく、私の音が歩いていくことを。
◇
二曲目のあと、少し涼みに出た。
広間に続く露台には灯りがあり、向こうには人の姿も見えた。夜風が首筋を冷やし、私は扇を閉じた。
「嬉しそうだった」
彼が言った。
「はい。譜面を欲しいと言われるとは思わなくて」
「あなたの曲だからな」
「それだけでは、欲しくなりません」
「私はなる」
私は彼を見た。
彼は何もおかしなことを言っていない顔をしていた。
「贔屓です」
「そうだ」
はっきり認められると、逃げ場がなかった。
私は手摺に目を落とした。
「でも、今夜は、曲のことばかり考えるつもりではありませんでした」
「知っている」
彼が近づいた。
「私も、今は曲のことを考えていない」
声が低かった。
私の胸元から肩へ、彼の視線が移る。その目を見て、支度のときに願ったことが、そのまま届いていたのだと分かった。
頬が熱くなる。
「もう一曲、踊れますか」
私が聞くと、彼は手を差し出した。
「何曲でも」
「明日、お仕事でしょう」
「靴が無事なら、歩ける」
私は笑って、その手を取った。
最後の曲で、私は一度だけ彼の靴を踏んだ。
彼は何も言わなかった。
代わりに、終わりの礼のとき、私の耳元で囁いた。
「これで、次の練習が必要になった」
ひどい人だった。
私は、次の練習を楽しみにしてしまった。
帰りの馬車では、叔母が向かいにいた。
彼の肩に寄りかかるわけにはいかず、私は行儀よく座っていた。けれど上着を借りた膝の下で、彼の指が私の指を探した。
私は握った。
叔母は窓の外を見ていた。
家に着いて、借りた上着を返すとき、彼が短く私の額に口づけた。
「今夜、あなたと来られてよかった」
「私も」
葡萄色の裾は無事だった。
母へ返す前に、もう一度だけ、着たいと思った。




