結社と教廷
ノアはヘレナをじっと見つめた。その目には、答えを求める静かな光が宿っている。
あの夜、ノアは秘宝を巡る戦いの中で、教廷の者たちを何人も手にかけた。その行為に、当時の彼は何の疑問も抱かなかった。
――殺し合いに理由なんていらない、そう信じていた。
弱い者が強い者に食われる、それが自然の摂理だ。森で一人で生き抜いてきた彼にとって、それは当たり前であり、揺るぎない世界の法則だった。
だが――。
その考えは、エリオスが剣を向けてきた瞬間に揺らいだ。
模擬戦の時とは明らかに異なる、エリオスの剣先に込められた怒りと悲しみ。その強烈な感情が、ノアには理解できなかった。なぜ彼は、自分に対してこんなにも激しい感情を抱いているのだろうか。
その剣の背後には、ダリウスを守るエリオスの姿があった。
エリオスは、ダリウスを傷つけさせまいと必死に剣を振るっていた。その姿に、ノアは疑問を抱かざるを得なかった。なぜ自分と彼らがこうして剣を交えなければならないのか――。
ノアの生活の中に、すでにエリオスとダリウスは自然に溶け込んでいた。
模擬戦で楽しげに戦い、自分に剣術を教えてくれるエリオス。未来の夢を語るその真摯な瞳。
皮肉を言いながらも、どこか面倒見の良いダリウス。嫌そうにしながらも自分を受け入れ、現実を冷静に見つめるその姿。
それらはノアにとって『当たり前』の風景だった。けれど、秘境で剣を交えたあと、その『当たり前』は突然失われた。
二人の姿が消えた。
隣の部屋の人に聞くと、家の急用で帰ったと簡単に答えられた。その一言が、なぜか心に妙な空白を作った。
当たり前だと思っていたものが、当たり前ではなくなる。
それがどういう感情なのか、ノアにはまだわからなかった。だた、心の奥に小さな違和感が残った。
なぜ自分が二人と剣を交えたのか――それは、自分は結社を手伝って、エリオスたちは教廷の人だから。
考えればわかることだった、あの場にいたのは教廷の人で、結社と敵対しているから。
じゃ、なせ結社は教廷と敵対しているのか。
報告の場で、ノアは二人のことを一切口にしなかった。その理由すら、自分でははっきりとわからない。ただ、名前を出してしまえば、二人との間に決定的な溝が生まれてしまうような気がした。
それが何を意味するのか、言葉にすることもできず、ただノアはじっとヘレナを見つめた。その瞳には、純粋な疑問と、初めて自分自身を見つめ直そうとする微かな意志が揺れていた。
ノアは初めて自分が戦う理由を知りたくなった。
――ヘレナはどう答えるのだろうか。
ヘレナは静かにノアを見つめた。
この質問がいずれ来ることは分かっていた。ただ、こんなにも早く訪れるとは思わなかった。もう少し時間があると思っていたのに。あの青年――エリオスがノアに与えた影響が、これほどまでに大きいとは。
「本当に知りたい?」
ヘレナは静かに口を開いた。
「それを知れば、君はもう二度と平穏な生活には戻れない。すべてを知ると、君は戦い続けることになる。それは私も、そしてエズラも、望んでいないことなの」
ヘレナの声は静かだったが、その重みがノアの胸に響いた。
ノアは黙り込み、ヘレナの言葉を反芻するように思考を巡らせていた。確かに、あの夜の出来事を通じて感じた疑問――教廷の者たちの執念深さやエリオスの敵意、それらが一つの答えを求める形になって彼を縛っていた。
教廷と戦い続けることになる……。
(僕が戦い続ける理由なんて……。)
その思考の先に浮かんだのは、エズラの死だった。
「――爺さんの死は、教廷が関わってる?」
ノアの声は冷たく、感情を排したもので、その問いに答えを求める姿勢がはっきりと現れていた。ヘレナはわずかに目を伏せ、悲しげな表情を浮かべた。しかし、何も言葉を発さなかった。その沈黙が、否定ではなく肯定であることを雄弁に物語っていた。
「僕は、知りたい。知らなきゃいけない」
ノアの瞳に宿る決意を見て、ヘレナはしばらく目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開けると、机の下に隠された装置に手を伸ばし、スイッチを押した。
静かな機械音と共に、書斎の壁際にある本棚が音もなく移動し、その奥から隠された通路が現れる。
「……わかった。ついてきて」
ヘレナはノアを促し、二人はその通路へと足を踏み入れた。通路の先にあったのは、円形に刻まれた古い魔法陣だった。二人がその上に立つと、魔法陣が淡い光を放ち、周囲が一瞬で消え去る。
転移した先はさらに長い通路だった。淡い光がぼんやりと照らすその空間には、湿気の混じった空気と共に静寂が満ちていた。ヘレナは手に持った小さなランタンで周囲を照らしながら、ノアの手を引き先頭を進む。
「ヴィクターから暗黒時代の話について聞いたことはある?」
ヘレナが先に口を開いた。ノアは小さく頷きながら答える。「文明が一度失われた時代だと聞いた」
「そうね……」
ヘレナはノアの方を振り返ることなく、歩を進めながら語り続けた。その声にはどこか哀愁が漂っていた。
「暗黒時代は、ただ文明が滅びた時代というだけではないの。その裏には、かつてこの世界を導いていた神々の信仰が崩れ去ったという背景がある。それを利用して、新たな秩序を築こうとした者たち――それが教廷の始まりよ」
ノアはヘレナの言葉を静かに聞きながら、次第に眉をひそめた。
「教廷は自らを『神の代理人』と名乗り、新たな宗教――聖教を掲げて人々を従わせた。そして、かつての宗教や信仰の痕跡を徹底的に抹消し、歴史そのものを書き換えたの」
「書き換えた……?」
ノアが短く問うと、ヘレナは少しだけ振り返り、うなずいた。
「そう。暗黒時代以前に存在していた資料や文献、遺跡……それらを全て破壊し、人々に教義を押し付けた。そして、教義に逆らう者は容赦なく排除されたわ。教廷はその力を背景に、『平和』という名のもとで絶対的な支配を築き上げたの」
ノアの足取りが少しだけ重くなる。ヘレナはそれに気づきながらも、扉の前で足を止め、ゆっくりと振り返った。
「けれど、どんな支配にも必ず反発する者が現れる。古い信仰を復興しようとする者、教廷の専横に反発する者、そして自由を求める者――そうした人々が集まり、結社の原型が形作られたの」
ヘレナは大きな扉に手を触れ、静かにそれを押し開けた。重厚な音を立てて開かれたその先には、厳かな空間が広がっていた。
扉の向こうには、十二体の彫像が整然と並び、壁一面には色褪せた壁画が描かれていた。それは結社の歴史を物語るものであり、見上げる者に威圧感と同時に畏敬の念を抱かせる。
ノアはその中の一つ――アタリカの秘境で見たものと同じ彫像に目を留め、じっと見上げた。
「これは……」
「気づいたのね」
ヘレナはノアの視線を追い、静かに説明を始める。
「その彫像は、かつてアタリカで信仰されていた女神を表しているわ。教廷によって名は消され、今ではその存在さえも歴史の中に埋もれている。でも、結社はこうして暗黒時代以前の真実を探り続けているの」
ノアは彫像に目を向けたまま、ヘレナの言葉を聞いていた。その目には疑問と共に、どこか引き寄せられるような感覚が浮かんでいた。
「結社の使命の一つは、失われた真実を取り戻すこと。そしてそれを教廷に対抗する力として使うこと。暗黒時代以来、教廷は絶えず自らの秩序を維持するために、力と恐怖で人々を支配し続けている」
ヘレナはノアの方に向き直り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ノア、君が戦ったのは、教廷の騎士たちよ。彼らは教廷の教義に基づき、秘宝を回収し、それを利用してさらに人々を支配しようとしている。君がアタリカで手に入れた盾も、その一つのはず」
ノアは黙ってヘレナの言葉を聞いていた。彼の脳裏には、あの夜の戦いとエリオスの怒りに満ちた瞳が浮かんでいた。
ノアはまだエリオスの価値観を理解したわけではない、でも、教廷の行為は彼の信念に反しているように思えた。
「結社は、そんな教廷に対抗するために生まれた組織。でも、それは決して簡単な道ではないわ。教廷の力は絶大で、彼らの影響力はこの世界全体に及んでいる。結社の戦いは、いつも厳しいものだった」
ヘレナはふと視線を上げ、壁画を見つめた。その目には、決意と共に、どこか遠い記憶を追いかけるような寂しさが滲んでいた。
「私はね、真実を知りたいと思った。それがどんな代償を伴うかも考えずに……その結果、家族を失った」
静かな声で語られるその言葉には、重い後悔と、抑えきれない哀しみが混ざり合っていた。ヘレナはノアの方に目を向け、まっすぐに彼を見つめる。
「ノア、私はあなたに戦ってほしくない。アカデミアで平和に暮らしてほしい。友達を作り、一緒に笑い合い、時には恋をするのもいい。戦いのない日々を生きてほしい」
その言葉には、ヘレナの強い想いが込められていた。それは結社の副リーダーとしては到底許されない発言だった。しかし、ノアを幼い頃から見守ってきたヘレナにとって、その願いは嘘偽りのない本心だった。
壁画の一つに視線を移しながら、ヘレナは再び口を開いた。
「結社と教廷の戦いは、いつだって苛烈よ。勝ち目が見えないことも多い。それでも私たちは戦い続けてきた。自由を取り戻し、真実を追い求めるために。だからこそ、あなたの力は結社にとって重要なの。君の存在は、教廷との戦いを左右するかもしれない」
彼女の言葉には、冷徹な現実が含まれていた。しかし、ヘレナの目にはどこか迷いが浮かんでいた。
「ノア、実際に君はアカデミアで教廷の騎士たちを倒した。その力を見て、私は確信した。君は、結社にとって大きな希望になるだろうと」
その一言に、ノアは視線を少しだけ伏せた。冷静な表情の裏に、どこか戸惑いが見え隠れしている。
「けれど、私は同時に、君にそんな人生を歩ませたくないとも思っている」
ヘレナは深く息をつき、ノアを見つめた。その瞳には、母親のような慈愛と、どこか拭えない悲壮感が宿っていた。
「君が戦いに身を投じることが、結社にとってどれほどの意味を持つか、それはよくわかっている。でも……それ以上に私は、君が戦いのない未来を見つけてほしいの」
ノアはしばらく黙ったままだった。ヘレナの言葉を反芻し、目の前の壁画に描かれた戦いの記録をじっと見つめる。その瞳には、まだ答えを見つけられない迷いが浮かんでいた。
長い間の葛藤を打ち上げ、ヘレナはどこか疲れた表情を浮かべ、そっとノアの肩に手を置いた。
「ノア、最終的に何を選ぶかは、あなた自身の意志に委ねられる。それがどんな道であれ、私はあなたを支えるわ」
ノアはしばらく沈黙を保ったままだった。
ヘレナの言葉は、ノアの心に静かな波紋を広げた。彼女の願いは温かく、優しいものだった。しかし――ノアの心の奥底には、エズラの死の原因となった教廷への強い復讐心が渦巻いていた。
その一方で、結社に加わる選択を前に、ふと脳裏をよぎったのはアカデミアでの生活だった。ルームメイトたちとの喧騒、迎春祭の光景、図書館での静寂――それらが断片的に思い出される。
ノアは自分の中で交差する感情に戸惑った。本能のまま生きてきた彼にとって、このように悩む感覚は初めてのものだった。決して心地よいものではなく、むしろ胸の奥が締め付けられるような違和感すら感じる。
ノアの表情に浮かぶ葛藤を見て取ったのか、ヘレナはふっと柔らかく笑った。そして、再びそっとノアの頭に手を置いた。
「ノア、あなたがこうして悩んでくれることが、私にはとても嬉しいの」
その手はどこまでも優しく、ノアの迷いを包み込むようだった。ヘレナの声には喜びが滲んでいた。ノアがただ命じられるままに動くのではなく、自らの意志で答えを探そうとしている――その姿が何よりも愛おしかった。
そして、ヘレナは静かに提案を口にした。
「ノア、結社に加わりながらも、アカデミアに通い続けなさい」
ノアの瞳がわずかに揺れた。ヘレナはその変化を見逃さず、言葉を続ける。
「結社からは、時々依頼を出すわ。それをオルビス商会を通じて確認してちょうだい。そして、その依頼を受けるかどうかは、あなた自身の選択に任せる」
「受けるも、受けないも、すべてあなた次第。誰もあなたを強制することはないわ」
ヘレナの声は静かで、けれども力強かった。彼女の瞳には、ノアを信じ、彼の未来を託す意志が宿っていた。
「それよりも、今はアカデミアでの生活を大切にしなさい。あの場所で過ごす日々は、あなたにとって何にも代えがたいものになるはずよ」
ノアはしばらく無言のまま、ヘレナのことを見つめた。
「わかった、僕は結社に入る」
少し雑ですが、一章はこれでおしまいです。
これからはアカデミア編全体の見直しを行います。