第十話 「土砂降りの空」 chapter 6
それは刹那の天啓である。黒猫は何かが噛み合う音を耳の奥で確かに聞き取った。微細で抽象的でしかないものの、危機を察知すると彼は咄嗟に身を屈めて頭を守る。
視界を全て焼くような閃光と耳を劈く熱波と爆音が事務所を覆い尽くした。同時に体は風に煽られて背中を強烈に打ち付けて、遅れて感じる燃え盛るような体の痛みに無情な雨が降り注ぐ。
霞んで朦朧とする目をどうにかして開き、その景色が数秒前と一変している事に漸く気付く。土煙が立ち込めて所々を炎が雑然と瓦礫と構造物を侵食していた。燃える筈のないガラスに炎が纏わり付いて、火に巻かれながら一人だけ踠き苦しむ人影が視界の端に見える。
床のガラス片に腕を刻まれて血が溢れていく。凝縮したオイルライターのような香りに鼻が曲がりそうになりながらも、何より背中を今尚焼かれている痛みが黒猫の意識を淡々と刺激し続けた。
自爆覚悟の奥の手を残していた山田組に、彼は完全にしてやられた。油断がなかったとは決して言えない。しかし此処までの規模の兵器を持っているのであれば、そもそも何故最初から使用しなかったのかがまるで理解出来ない。
「……エル、解析せぇ、何やあれ?」
黒猫は呼吸も絶え絶えになりながら、それでも人工知能へ指示を出す。思考が止めどなく溢れてまともに頭が働かなかった。横倒しの視界から見える世界は地獄宛らに破滅的である。
「はい。現状を見る限り、ナパーム弾の可能性が考えられます。ゼリー状の可燃性物質に大勢の人類を死傷させられた、歴史に名を残す大量殺戮兵器です。爆撃そのものだけでなくその後の一酸化炭素中毒による二次被害が最も危険です」
エルは舞い上がる塵芥と降り頻る雨にホログラムを乱されながら滔々と情報を捲し立てた。感情の起伏を再現するように声の抑揚を付けた人工知能の言葉に、黒猫は目の前の惨状を何となく理解する。
「ゼリーみたいなんを……被ってたら、其処の奴らみたいになってたんか。ギリギリやな……火傷はしてる、やろう、けど」
黒猫はエルの説明を受けて、横たわったままの体勢から起き上がる為に全身へ力を込める。自身の体ではないかのように、まるで動く気配もしなかった。
思えば記憶をリスタートしてからの約五年間、これ程までに体力を消耗したのは初めての事かもしれない。白虎との凄絶な修行の日々も、山田組との血生臭い闘争の数々も今を俯瞰して見れば取るに足らないレベルである。
「黒猫様、救援を要請しますか? 青柳様へ連絡するのが最善と思われます。次点で白猫様が適任かと提案致します」
横たわる黒猫を屈みながら眺めて、エルは所有者もとい主人にタスクを投げ掛ける。黒猫は何も答えない。嫌がらせではなく、単純にそれさえ出来ない程にダメージが深かったのだ。
燃え盛る炎は人体を炭にする程に煌々と立ち上り、勢いを増していく雨は身動きも取れない黒猫を加速度的にずぶ濡れにしていった。
瓦礫を押し退けて、女は自らの所業によって作り出された惨状を真正面から眺める。松明に火でも付けたように人体が所々に燃え上がり、脂を纏った風に喉が渇いて張り付く。
最終手段を選択した男は黒焦げになってガラス片と炎の海に横たわっている。玉砕覚悟の自爆すら厭わない攻撃であった事に変わりはないが、これ程までの威力とは想像だにしていなかった。
「ーー大昔に戦争で使われた古の兵器らしいが、市街地向けに威力は抑えてあるようだ。狭い密閉空間で使わない限りは使用者には影響が出ないようにもなってる。にしても、ガキ一人殺す為の兵器には随分と凶暴過ぎる。まぁ、上層部もそれだけ本気って事か」
ナパーム弾搭載の自動擲弾機を検めながら、男は興奮気味にそう語っていた。もしもの時は自身が囮になって、安全圏から発射するよう指示されたのも正にその時であった。
何か操作を誤ったのか、想像以上の威力によって男に指示された安全圏諸共爆撃の余波で壊滅状態になっている。
危険な事に変わりはないと前置きしてから渡された防護服を着ていなかったら、今頃は事務所の外で倒れているターゲットの少年と同じ様に死んでいたのかもしれない。ナパーム弾の可燃性物質は奇跡的に浴びていないようだが、だからと言って爆撃に晒されて死んでいない方が信じられなかった。
男達を弔ってやらなければならない。直接的な因縁はなくとも、たった一人の少年を始末する為に命懸けで戦ったのだ。彼らに代わり責任を持って山田組組長へ成果の報告をするべく、女は燃え盛る炎に気を付けながら事務所のエントランスへ這い出した。
鼻を突くような臭気と肉の焼ける香りが異質に混ざり合い吐き気を催す。六人分の焼けた死体と路地に投げ出された少年の計七人。女は宗教に身を置いていないものの、不思議と自然に両手を合わせて男達へ死後の安寧を祈る。
女の頬を涙が伝って、愛人として過ごしてきたこれまでの人生が脳裏を駆け巡る。粗野で人間的な優しさはあまり感じられなかったが、それでも不器用なりに愛を表現しようとはしていた。女の望む幸福とはかけ離れていたが、今日までの日々に後悔はなかった。
息苦しさを覚える。悲しみで呼吸すら儘ならない。段々と体から力が抜けていく。違う、これは心理的な反応ではない。そう気付いた女は既に手遅れであった。体が全く動かなくなって、女は意識と裏腹に炎とガラスの海で死を覚悟した。
昏倒するその瞬間まで、黒焦げになった男の隣で涙を流し続けた。




