第六話 「翼を捥がれた鳥」 chapter 3
「ーー俺らに手を出して、無事で済むと思ってんのかよ!」
意を決したリーダー格の男が、カッターナイフを片手に動き出した。余裕綽々の表情はすっかり血の気が引いて、余裕のない相貌だけは妙に血走っている。
人体は時として容易に死に至る。カッターナイフ程度の刃物であってもその殺傷力は一定水準を超えて、宛ら武器とさえ呼べる道具である。
上手く扱う事が出来れば、どのような道具ですらも凶器になる。しかしそれでもカッターナイフには、致命的とも言える弱点がいくつかあった。
そもそも紙を切る事を前提とした作りで強度が弱い点と単純に切れ味が悪い点。無抵抗の相手に対して的確に急所を狙えるような状況でもない限り、相手を殺す事などそう容易には出来ない。
あくまで裏社会と関わりのない子供の世界において喧嘩慣れした程度の少年が、小狡く脅し目的で使うカッターナイフがまずもって黒猫に勝てる道理はなかった。
「……そのカッター、使い方おかしいんちゃうか?」
黒猫は突き出されたカッターナイフを最小限の動きで躱して、リーダー格の伸び切った腕を掴む。そこから更に前髪を鷲掴みにして強引に膝蹴りを顔面へ叩き込む。無駄の省かれた的確な一撃が無防備な顔面を強烈に襲う。
骨が軋み、鼻からは血が垂れた。目の前が白熱する感覚に、握っていたカッターナイフを取り溢す。清廉と整っていた顔貌が黒猫の一撃で大きく崩れる。しかし男の眼光だけは未だ衰えず戦意に燃えていた。
先程の二人よりは覚悟が決まっているのか、黒猫を振り解こうと暴れるが場慣れした彼には通用しなかった。
「折角武器持ってんやから、落としたらあかんわ。お前の唯一の防衛ラインやで?」
防御の甘くなった腹へ再び膝蹴りを見舞って、脱力したリーダー格の男を壁に打ち付ける。言葉は平坦に、行動は冷酷に研ぎ澄まされている。
「おい、長野やったか? 落ちてるカッター取ってくれや」
置き去りにされた長野へ黒猫が話し掛ける。顎でカッターナイフを指し示して、おずおずとそれを手に取る彼を急かす。
「くそ、何する気だよ?」
リーダー格は完全に抑え込まれ、残った取り巻きも固まったまま動けない。長野がカッターナイフを黒猫へと手渡そうと手を伸ばす。
「刃物持って、こいつ脅してたんやろ? 何する気も何も、殺すに決まってるやんけ。考えたら分かるやろ」
長野の差し出す手を見ずに、黒猫は顎を更にしゃくる。やられたらやり返す、それを彼に強制しているのだ。
「待て、待ってくれ。遊んでただけだろ? 殺すつもりなんて、そんな事思ってもなかった!」
狼狽えたリーダー格は暴れるが、黒猫は止めるつもりもなかった。弱肉強食の世界の理において、その行為は自業自得である。悪意や敵意の本気度は問題外で、言動の責任は自分自身で取らなければならない。
「ーー分からんやっちゃな。敵対心剥き出して、刃物向けた時点で決まってた事や。おい、何してんねん? 早よ殺してまえや、俺が抑えといたるから」
黒猫は容赦なく言い放つ。殺そうとする者は自らも殺される覚悟を必要とする。安全圏から一方的に攻撃だけしたいと言うのは少々傲慢に過ぎる。因果応報のままに代償は必定である。
長野は手に持った余りにもちんけなカッターナイフに視線を落とす。なんて事はない工作用の道具でも、やり方次第では簡単に人間を殺せてしまう事実に困惑する。刃物を向けられる恐怖は知っていても、向ける側ですらこうまで力んで震えるとは思いもよらなかった。
涼しい荒涼が支配する校舎内で、脂汗が浮かんでは思考が堂々巡りを繰り返す。
虐められていたストレスを、その溝にこびり付いた黒黴のような感情をぶつける機会に喜びがない訳ではない。人間である以上、フラストレーションの浮き沈みはどうしようもない。
怒りのまま発散する事によって得られる快感と、踏み込んでしまうと二度と戻れなくなるような悲嘆の板挟みになる。何度も何度も心の中で殺していた相手を前に、彼は何時の間にか思考停止していた。
「何や、殺さんのか? まぁええわ、好きにせぇや」
カッターナイフを握り締めたまま固まる長野を見限って、黒猫は拘束していたリーダー格の男を解放した。
極度の緊張から呼吸さえ疎かになっていた元加害者達は階段の踊り場にへたり込む。安全を最低限保証された立場から弱者を攻撃していた人間が、あわや取り戻せない程の危機に瀕した。突如現れた黒猫に全てを掻き乱された彼らは言葉も出なかった。
安堵と恐怖が綯い混ぜになった表情で深く溜め息を溢した彼らは、黒猫の動きに釘付けになる。
黒猫は肩に背負っていたバッグに手を伸ばすと、中に仕込んでいた虎徹を抜き放った。長大な黒い刃渡りを持つその刀を前に、見積が甘かった事を彼らは思い知る。
「長野が殺さんねやったら、俺が筋通さなあかんやろ。おい、ここで死ぬのと、有り金全部渡すのと、どっちがええ?」
仮にカッターナイフを自由に扱えていた所で、武器としてのグレードが明らかに違うその刃を突き付けられて立場は完全に入れ替わった事を今更ながら悟った。
「ーーなんぼ中学生や言うても、もうちょい金持ってるもんちゃうんか? こんな額やと許せるもんも許されへんで」
無理矢理起こした二人を含めた元加害者達を横並びにさせて、黒猫は虎徹の刃をリーダー格の首筋に据える。身動き一つ取れない彼らは、更なる催促に困惑するしか出来なかった。
「長野、お前は何もせぇへんのか?」
黒猫から最終確認をされた長野は静かに頷く。多くの人間はその境界線を越える事は出来ない。そもそも、普通に生きていく上では超えない方がまともなのかもしれない。
「ーーこら、貴方達! こんな所で何してるの!?」
突然校舎を響く甲高い声が、黒猫達の耳を劈く。見上げた階段の先には、ふくよかな女性が仁王立ちで彼らを憤然と見下ろしていた。




