第五話 「囚われのマリオネット」 chapter 7
過去に囚われる人生に大した意味はない。黒猫は記憶喪失のまま五年間を生きて、それを確かに実感していた。人生に迷い戸惑って自問自答する時間があれば、今を強く生き抜く決定的な核を据えて踏ん張る以外にないのだ。
黒猫はそうして生きてきた。例え過去の自分自身がどんな存在であったとしても、今の彼にとっては何の保証にもならない。
「お前らに過去、何があったかは知らんし、そんなもんどうでもええ。ごちゃごちゃ言うより、今どうしたいかで決めろや」
因縁の親子が再会してその場の空気が張り詰める中、黒猫は誰よりも主導権を握っていた。泰然自若と言うよりは唯我独尊な彼に周囲は呆気に取られる。
「お前もママをいじめる気か!?」
愛蓮はその曇りなき眼差しで、黒猫を敵と認定する。子供にしては賢明な判断力と言えるかもしれない。しかし何より、喧嘩を売る相手を間違えている。
「誰に口きいてんねん、クソガキ。調子こくなよ、しばき回されたいんか?」
大人気なさを存分に発揮する黒猫に、子供はそれまでの威勢を削がれていく。しゃがみ込んで目線を合わせながら鋭く睨み、涙を堪える顔に煙草の煙が吹き付けられる。
「やめなさい、間違ってるのはお母さん……それと、私だから」
涙を拭うと気丈な態度で白猫が自らに課された宿命に向き合う。黒猫に任せてはいけない。自身の問題には、自身が向き合うべきである。
「ーーもしかして結愛ちゃんの彼氏君? 可愛い男の子じゃない。お似合いのカップルって感じ」
黒猫とは別のベクトルを行く女神は勝手な妄想を膨らませて、子供よりも子供っぽく彼に笑い掛けた。自身を庇う子供を押し退けて、裸のまま彼女が迫り来る。
「お前、頭腐ってんのか? どう捻じ曲げたらそうなるねん。近寄ってくんな、クソババア」
人間性の違いが如実に現れる両者。最早事態は誰にも舵を取れなくなっていく。嫌悪感を隠しもせず、彼は母親を見上げる。
「……ママを悪く言うな!」
消え入りそうな声が愛蓮の口から溢れる。小さな勇気も時と場所を選ばなければ命取りである。
黒猫は一糸纏わずくねくねと縋り付いてくる女神の茶髪を鷲掴みにすると、反射的に殴り掛かってくる子供を蹴り飛ばす。
腰からコルト・シングルを抜いて撃鉄を起こすと、その銃口は何の躊躇もなく子供を射程に入れた。
「死ぬって事がどういうもんか、教えたろか? 弱い奴に選択肢はないねん」
非情な言葉を年端もいかない子供に説く。守りたいという気持ちだけでは、絶対に守れない事を思い知らせている。弱肉強食の理を前にして、性別も年齢も言い訳にはならない。
「おい、白猫、ちょっとこのクソババア見とけや。クソガキに世間の恐ろしさ教えてくるから」
黒猫は女神さえも足蹴にして、白猫へ顎で指図する。子供の首根っこを掴むと引き摺るようにホテルの最上階から降りていった。
一発の銃声がホテルを劈き、暫くすると黒猫だけが素知らぬ顔で戻ってくる。
「愛蓮ちゃんを殺したの? 折角可愛がってあげてたのに、悲しいわ」
女神は心にもないような表情で質問した。白猫にはそれがまるで理解出来なかった。腹を痛めて産んだ子を、どのような価値観で語ればそんな言葉が出てくるのか。
「クソババア、お前しらこいな。気にすんなや、どの道お前も死ぬんや、どうでもええやろ」
黒猫は不敵に笑い、白猫をじっと見据える。何を求めているのか、白猫は絡まった思考回路を解して巡らせる。
「女神を殺してくれって依頼が入ってる。俺が受けた仕事や。白猫、お前はどうすんねん?」
心を抉り抜かれたような感傷は、筆を濯ぐ水受けが何色も重なって黒くなるようである。不吉な象徴は滔々と逃れ難い選択を迫る。
「……あんたは手出し無用。私がやらなきゃ、意味がない」
寄せては返す決心の揺らぎに、泡立つ殺意が今度こそ腹を据えた。白猫は断固たる決意を持って、ベレッタを再び構える。
「ーー好きにせぇや、報酬は全部俺のもんやけどな」
黒猫が誰にともなく呟くと同時、その言葉は発砲音で掻き消された。
延々と長く感じる一日。しかしそれは白猫にとって、生まれてから今の今まで抱えてきた十五年に等しい。
全身の力は抜けて白猫はホテルの大理石へ項垂れる。戦い続けた人生に初めての安寧が訪れた。解放された彼女の人生はこの時を持って始まる。
涙が堪え切れず流れる。憎悪と怨恨は留まる所を知らないが、尚も悲痛と苦悩が彼女には僅かながらにも確かにある。
どうにもならない感情は熱い涙となって、遠く町で賑わう祭と対照的に空気を重くした。
主張の激しい香水の香りはもう血生臭い鉄の匂いで上書きされて、異様な環境は静まり返っている。
声を押し殺して、白猫は自身の母親を複雑な心境で見送った。その死体は憂いも嘆きもせず、只々不自然に笑っていた。
「何で、こんな事に、首突っ込んできたの?」
一頻り心を爆発させた後、白猫は何も言わずに立っている黒猫に問い掛ける。
彼女が知る限りの彼は、そうした面倒事を嫌って干渉してくる事はあり得ない。何より二人の間にそうした人情めいた物は介在しない。
「仕事やねんから当たり前やろ。労力掛けずに儲けた、俺にとってはそれだけや」
女神の死体を見下ろして、黒猫は汚物を見るように言葉を返した。素気ない反応を見て、白猫は取り敢えず納得する事にした。
「……弟はどうしたの?」
白猫は気掛かりな事を確認する。彼女に課された責任を取るべき相手は、この世において弟とまだ見ぬ妹達である。
「ほんまに殺すと思ったか? 多少痛め付けたったら気絶しよったから、部屋で適当に閉じ込めてあるだけや」
黒猫は嘘偽りなくそう述べて、所有者のいなくなった豪華なベッドに腰掛けた。
「ーーありがとう」
白猫はその時になって初めて、黒猫に対して感謝の意を表明する。教育係としてではなく一人の人間として、その内に秘めた思いを打ち明ける。
「……勘違いすなよ。告白してへんのに振られたみたいになってんのが気に食わんかったんや」
白猫の意外な一言で、黒猫は反射的に言い返す。彼は漸く、言葉にならない感情の名前に気付いた。
「馬鹿じゃないの?」
呆れた白猫は裏腹に笑顔が少し戻る。年頃の少女が浮かべるありふれた笑顔が、長い一日を終わらせる。




