第三話 「愛食む獣」 chapter 2
退院して一週間程が経過し、顔の傷と背中や肩の痛みがなくなった黒猫は夜の繁華街にいた。快気祝いに一人で君影草にでも飲みに行こうとした彼は、店の入り口に臨時休業を知らせる紙切れを見て途方に暮れていた。
コンビニで買った缶のハイボールを歩きながら開けて、人波をだらだらと目的もなく突き進む。自宅で飲めばよかったと小さく後悔しながらも、黒猫は食指の動くままにネオンの光を彷徨った。
賑わう夜の町並みに行き交う人間は篝火に群がる虫のようで、欲望のままに垂らされた餌に罠とも知らずその身を焦がす。
今一つ唆る物がなく通りを縦断し終わる頃合で、人工知能が着信を告げた。相手の名前を確認して顔を顰めてからハイボールを飲み干した黒猫は通話に応じる。
「ーー新しい仕事入ったから。依頼報酬を踏み倒そうとしてるクライアントを追い込む。逃亡してるらしいからまずは探す所からなんだけど、あんた今何してる?」
一方的な知らせと共に白猫は話を進める。その声は、酒に溺れたい気分の黒猫へ悲報を告げていた。
金さえ払えば何でもする組織に、その対価を不当に出し渋る輩は稀に現れる。命知らずな手合いへの対処は少し骨が折れる。
電子マネーのセキュリティーによって本人の意思で金を支払わせるしか手がなくなる。自ずと取れる手札は酷く原始的にならざるを得ない。
広く仕事を引き受ける組織にとっては、成功報酬であれ何であれ、信用を勝ち取る為に相手の要望を受け入れる事が重要である。そうして積み重ねてきた実績があってこそ、組織に様々な仕事が舞い込むのだ。
「……今から飲みに行く所や。急ぐ仕事なんか?」
仕事の事は任せると言った黒猫は無理を承知で抵抗を試みる。勝ち筋の見えない戦いである事は明白だったが、何事もやってみなければ分からない。
「私達以外の人間も動いてる案件だから、早い者勝ちになる。そいつのデータを送るから、切り上げて情報集めしなさい。すぐに私も向かうから」
黒猫の思惑を粉砕しながら白猫は淡々と通話を終えた。酒への欲望に昂ぶっていた黒猫は少しばかりの未練を抱きながらも渋々仕事モードに切り替える。
ホログラムに映し出される男の顔。不貞腐れたような人相の悪さが目立つ男で、彼の所為で楽しみを奪われた黒猫は無性に苛立ちを募らせた。
添付された情報によると報酬の未払いを問い合わせる連絡を無視し続けて、登録された住所を直接訪ねるも行方を暗ませていた。すぐに捜索網が展開して男の行動圏内を洗いざらい調べ尽くされていくその渦中にある。
成果の上がらない捜索は次々と人員を投入する人海戦術に変更されたようだ。
「ーーアホみたいな連中やな」
白猫と共に訪れたダンスクラブ。腹に響く重低音と眩い光を跳ね返すミラーボールと、酔いしれ踊り狂う若者達を見て黒猫は率直な感想を溢す。
出会いを求める男女がダンスパーティーに洒落込む昔ながらの文化は、彼にはとても理解出来ない。犇めき合う群衆に塗れて、特定の男を捜索する事は不可能に限りなく近い。
「踊って発散したいんでしょ。確かに、理解には苦しむけど」
異様な熱気にうんざり顔の黒猫を置いて、白猫は人波を掻き分けるように奥へと進み出す。まともな話を聞ける人間を探しに、何ともな無理難題を突き付けられた。
配膳ロボットから適当に酒を買い取り、黒猫は探し人をホールの隅から目を凝らした。甘ったるいリキュールカクテルの物足りなさと騒音でしかないヒップホップは最高に居心地の悪さを発揮している。
下着と形容する方が正しいと思える衣服を承認欲求のままに見せ付ける女、欲望に飢えた眼差しを隠しきれない筋骨隆々の男、酔いどれふらふらとホールを彷徨う女、目の前の派手な女を口説き落とそうと躍起になる男。
捗らない捜索に黒猫はやる気を削がれつつあった。酒の勢いだけが進み本来の目的は遠ざかるばかりである。
「おにーさん! 踊らないの?」
黒猫の隣に並んだ女は熟れたオレンジのような香水が鼻に付いた。きんきんと響く高い声と小柄な体に不釣り合いな豊満な胸を押し付けるような距離から彼を覗き込む。
「……人を探してんねん。こいつ知らんか?」
黒猫は女を一瞥すると、ホログラムを見せ付けて最低限の仕事に取り掛かった。
「あ、この人知ってるよ! よく声掛けられるんだよね、しつこいぐらい。ねぇねぇ、何で探してるの?」
オーバーリアクションで女は楽しそうに答える。騒々しいホールに負けず劣らずの声量で黒猫の耳を劈く。
「連絡先知ってんのか? おい、ちょっと協力してくれや」
五月蝿い女を不快に思いながらも思わぬ収穫を得て、黒猫は漸く相手の女の目を見た。
薄暗いホールを走る光に照らされて、妖艶にはにかむ女は悪戯な笑みを見せる。華奢な体を発情させたような女の佇まいには鬱陶しい思い出が蘇る。
「えー、お願い聞いてくれるならー考えるけど?」
身振り手振りまでもが五月蝿い女は、揶揄うような眼差しで黒猫を見る。目が据わった彼女の豹変振りに彼は警戒心を強める。
「……お願いって何や?」
何杯目かのカクテルグラスを飲み干して、通り過ぎる配膳ロボットへグラスを預けながら問いかけた。
「おにーさん、神様っていると思う? 私実はね、深淵なる愛の集団の信徒なの。そーいうのって興味ある?」
表情を一変させる女に、想像以上の深い闇を見た黒猫。布教活動は個人の自由であるが、大抵こういう手合いに関わると自身が火傷する。
「やっぱええわ、そういうのいらんねん」
黒猫は一瞬でもまともな情報を得られると期待した己を呪う。酔いが勝手に覚めていくような感覚がして、黒猫は女を視界からシャットダウンした。