第52話 異世界転移の現実
第52話 異世界転移の現実
「ネットによると、『イマチニブ』の適応は相当に限られているらしい。
胃や小腸など消化器の壁の中にできる岩、骨髄で造られる膨れた細胞が増え過ぎて、
全身に蓄積される病気の重いやつ、体を作る情報の異常で起こる血液の岩、
骨髄で造られる血液に岩が出来てどんどん増えて行く病気…」
島津の大きいのは「いまちにぶ」を使う病気について、
俺でもわかるように噛み砕いて話してくれた。
「うち、前の3つはとても稀なので除外してもいいと思う。
骨髄で造られる血液に岩が出来てどんどん増えて行く病気…、
俺らはこれを白血病と呼んでいるんだけど、これじゃないかって思うんだ」
それから俺は島津の大きいのに、入院とやらに必要な物を聞いて帰った。
その晩、俺は眠る事なんてとても出来なかった。
夜が明けて、台所の時計では8時頃だった。
俺は作ったごはんを食卓に乗せて、子安どんを朝食に誘ったが、
子安どんは食べたくないと言って、また寝台に横になってしまい、
俺と「食べろ」、「要らない」の言い合いになっていた。
そこへ玄関の呼び鈴の変な音がぴんぽんと鳴って、
鍵を開けておいた扉から、島津の夫婦が家の中に上がって来た。
子安どんは寝台のふとんの中で横になったまま、
どろりとした視線を島津の大きいのに投げかけ、掠れた声で言った。
「…島津さん? どうした、こんな朝早く…」
「おはよう留っちゃん、いい天気だな。久しぶりに俺とデートでもしないか…」
「デートて…何を言う今さら。幸弘あんた、小さいのと結婚したんだろが」
「構わん、連れて行く…揚弘、ドア開けろ!」
島津の大きいのは揚弘に叫ぶと、子安どんの体を抱き上げた。
「どこへ…どこへ連れて行く!」
子安どんは喚いて、島津の大きいのの腕の中でもがいて暴れた。
でも島津の大きいのは「大きいの」て言うだけあって、
体も大きく、力も強くて、子安どんみたいな立派な体躯の女でも簡単だった。
「…俺は連れて行く、留っちゃんを連れて行く。
俺は諦めも悪いし、別れた後ストーカーもしたし、
愛した女の幸せを祈る事が愛なんて、そんな境地になれもしないだめな男だけど、
俺が留っちゃんを自分の手で幸せにしたいって、それは今も昔も同じ…!」
「兄さん…」
島津の大きいのは子安どんを抱きすくめたまま走り出し、
居間の出入り口の脇に立つ揚弘とすれ違った。
「行くぞ揚弘、何ぼさっとしてる! フライド丸、準備して後から来い!」
島津の大きいのは俺と揚弘のそれぞれに怒鳴りつけると、
揚弘に玄関の扉を開けさせて家を出て行ってしまった。
家にひとり残された俺は、ゆうべ島津の大きいのに教えてもらった、
「入院に必要な物」をなるべく大きな袋を探して詰め始めた。
前に天国の扉を探しに通った道を思い出しながら病院に着くと、
揚弘が玄関で待っていてくれた。
「揚弘…子安どんは?」
「兄さんが付いとる、今検査中や」
揚弘に導かれて検査をする部屋の前の長椅子に、島津の大きいのが座っていた。
うつむいて、じっと自分の爪先を見つめていた。
憔悴しきった顔だった、俺は不覚にもその顔を美しいと思ってしまった。
大人の男らしい、渋い顔だった。
彼が仕事をしているところを見た事はないけれど、きっとこんな顔をしているのだと思う。
しばらくして子安どんは世話をする係の者に付き添われて、検査の部屋から出てきた。
俺に気付くときっと睨みつけた。
「フライド丸、お前だな…」
「…ごめん」
「許さぬ…許さぬ! よくも…!」
子安どんは俺の頬をびたんびたん繰り返し叩いた。
「ごめん子安どん…じゃどんおい、どうしてん子安どんば…」
どうしても子安どんを失いたくなかった。
それは俺の勝手か? そんな事はない。
他の誰を殺しても愛する人だけは助けたい、当たり前の気持ちだと思う。
子安どんは俺が殺さず助ける、唯一の女なのだ。
子安どんは診察の部屋に入って行き、そのままなかなか出て来なかった。
その間に病人の世話をする係の女人が、診察の部屋から出てきて呼び出しをした。
「子安留津さんのご家族の方、いらっしゃいますか」
「はい、家族ではないのですが」
島津の大きいのがすぐに返事をして、すくりと立ち上がった。
そして、係の女に説明した。
「子安さんには家族がいません、俺は子安さんの住んでいるマンションの大家です。
俺の家族と、子安さんの同居人で子安さんを運んで来ました。
俺たちが話を聞いてもいいですか?」
「先生に聞いて来ます」
係の女は診察の部屋へ戻って行った。
「家族か…参ったな、留っちゃんにはあの母親しかいない。
あんな母親に頼れるはずない、この先ややこしい事になるぞ…」
島津の大きいのは苦虫を噛んで潰したような顔をして、ため息をついた。
「おいじゃいかんと? おい、子安どんと一緒ん住んじょっで?」
「それじゃだめなんだよ、この世界の医療でも戸籍は大事なんだよ。
医師の説明だけならともかく、場合によっては入院の手続きや、
手術が必要ならその手続き、本人にお金が払えない場合代わりに払う人、
そう言うのは一緒の戸籍に入っている人じゃないとだめなんだよ」
島津の大きいのは俺に残酷な事実を告げた。
「そやから、兄さんは俺を自分の籍に入れてくれてん。
男同士は結婚こそ出来へんけど、戸籍さえあれば養子縁組は出来んねん」
揚弘も島津の大きいのに同意した。
「おいは…おいは何も出来んと? 何も出来んとか?」
「…そうなるね」
島津の大きいのはきっぱりと答えた。
戸籍がないばかりに何も出来ないなんて…!
子安どんが苦しい時に何も出来ないなんて、助ける事も出来ないなんて。
俺は床に尻をついて、鼻水を垂らしながら声をあげて泣いた。
「そげん…あんまいじゃ、あんまいじゃ、おいに戸籍んなかばっかいに…!」
これが異世界暮らしの現実と言うものだった。
異世界へ転移して、そこに暮らす事は出来ても、その世界の民となる事は出来ないのだ。
この電脳の「ねお薩摩」によくある「らのべ」なるおとぎ話のように、
異世界に行った者が民として迎え入れられ、かっこよく敵を倒して、
いつまでも楽しく幸せに暮らすなんて、そんな甘いもんじゃないと思い知らされた。
その世界の民となれないばかりに、出来ない事がたくさんあるという事に。
それから先生の了承が出たというので、俺たちは子安どんのいる部屋とは別の、
診察をする部屋で話を聞いた。
慢性骨髄性白血病、島津の大きいのが予想した通り、
子安どんの血液には岩が出来ていた。
子安どんは薬を飲み続け、この病院に通って時々経過を観察する事で、
病気の進行を抑え、何も病状の無い「慢性期」をずっと保って来たが、
次の段階の「移行期」へと進行したとの事だった。
それから医師は一度慢性期から移行期や、激しい病状の出る急性転化期に入ってしまうと、
その後の治療がだんだんと難しくなり、生存率も下がっていくとも言い、
とりあえずは移行期から慢性期へと戻す治療を行う事、
子安どんは長いこと薬を使い続けて来たため、
耐性が出来て効果も薄くなっているので、新しい薬を試したいとも言った。
そのため子安どんはやはり、しばらく入院する事になってしまった。
入院の手続きは島津の大きいのが代表でいいと言うので、
島津の大きいのが身元保証人として手続きを行った。
話も終わり、子安どんを受け入れる部屋が見つかると、
子安どんは車のついた椅子に乗せられ、世話をする係の女人に椅子を押してもらい、
建物の上層部にある病人のための部屋へと移って行った。
俺たちもそれに付いて行き、入院の荷物を運んだ。
部屋は世話人たちの詰め所の真ん前で、8人部屋だった。
そこは老若男女が一緒くたになって入っており、特に観察の必要な患者の部屋だった。
もう少し経ったら個室へ移れるらしい。
新台に寝る子安どんの横で荷物を整理し、
それが済んで、子安どんに何か他に必要な物はないかと聞いた。
子安どんはないとつぶやくように言った。
「…なんで今まで誰にも言わんかったとね」




