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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第七章:灰色の空と、秒針の音

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後編 最後の煌めき

衝突まで、残り三時間。

夜という概念は消え去った。空には太陽よりも巨大で、毒々しいほどに白い「アポルオン」が居座り、地上を真昼のような不気味な光で照らしている。大気は震え、重力の歪みによって遠くの海がせり上がり、街のビル群が自重に耐えかねて軋み声を上げていた。


「……熱いね、エナさん」


カイルが額の汗を拭いながら、絞り出すような声で言った。

店内の温度は急上昇し、酸素が薄くなっているのを感じる。私の肺は、もはや呼吸という作業を半分放棄していた。喉の奥で、絶え間なく血の泡が弾ける音がする。


私は、奥の戸棚から埃をかぶったティーセットを取り出した。それは私の祖母が大切にしていた、繊細なボーンチャイナだ。

「熱いのは、地球が一生懸命、あの岩石を拒絶しようとしているからよ。摩擦という名の抵抗。私たちと同じね」


私は震える手で、最後のお湯を沸かした。ガスの供給は止まっていたが、キャンプ用の小さなコンロがまだ生きていた。

茶葉が躍り、香りが立つ。アールグレイのベルガモットの香りが、死の匂いに満ちた世界に、場違いなほどの優雅さを添える。


「さあ、カイル。最後の一杯よ。これは、私たちが『文明』という思考の産物を持っていた証拠。ただの動物なら、泥水をすするだけで終わるけれど、人間は最後の一瞬まで、香りを愛でることができる」


カイルは震える手でカップを受け取った。

そのとき、地響きと共に店の壁に大きな亀裂が走った。棚が倒れ、私が丹精込めて直した時計たちが床に転がり、いくつかは粉々に砕け散った。


「ああ……せっかく直したのに……!」

カイルが悲鳴を上げた。


「いいのよ、カイル。形あるものは壊れる。それは宇宙の摂理。でもね、それを『惜しい』と思い、『美しい』と記憶したあなたの心は、壊れていない。宇宙は、形あるものは壊せても、あなたのその『惜しむ心』までは触れられないのよ」


パスカルは言った。

「われわれの尊厳のすべては、思考のうちにある」


もし、この宇宙に人間がいなければ。

この小惑星の衝突は、ただの「質量の移動」に過ぎない。美しくもなければ、悲しくもない。ただの物理現象だ。

だが、ここに私たちがいる。

「恐ろしい」と感じ、「不条理だ」と憤り、そして「それでもなお、この瞬間を愛おしい」と願う私たちが。


私たちの思考が、この無機質な宇宙に「意味」という彩りを与えているのだ。

宇宙そのものよりも、その宇宙を観察し、定義し、意味づける「葦」である私たちの方が、概念としては遥かに巨大なのだ。


窓の外では、ついに地平線が燃え始めた。アポルオンの先端が、大気圏の最下層に接触したのだ。

凄まじい衝撃波が街をなぎ倒していく音が、津波のように迫ってくる。


私はカイルの隣に座り、彼の小さな手を握った。

「カイル、目をつぶらなくていいわ。見ていなさい。これは、この星の最後の光景よ。何十億年も続いてきた地球という物語の、最終ページ。それを読める特権を、私たちは持っているの」


「エナさん、怖いよ……。でも、僕、忘れないよ。このお茶の味も、エナさんの手の温かさも」


「ええ、それでいい。あなたがそれを『忘れない』と決めたとき、あなたは宇宙に対して勝利したのよ」


光が溢れた。

それは、あらゆる色彩を塗りつぶす、純白の虚無。

衝撃波が店を粉砕し、私たちの肉体を分子のレベルまで分解しようと迫る。


その刹那。

私の意識の中で、時間が引き延ばされた。

肉体という枷から解き放たれようとする精神が、最後に放つ強烈な煌めき。


私は見た。

私の肺を蝕んでいた病も、私を縛っていた重力も、すべては宇宙という壮大な歯車の一部であったことを。

そして、その巨大な歯車に巻き込まれ、押しつぶされながらも、「なぜ、私はここにいるのか」と問い続けた自分自身の誇り高い姿を。


宇宙は、私を包み込み、消し去る。

だが、私は今、この一瞬の思考の中に、宇宙の始まりから終わりまでのすべてを内包している。

私は、ただの葦ではない。

私は、無限を知る者だ。


「……ありがとう、宇宙」


私は最後にそう呟いた。

感謝など、理不尽な死を前にしては滑稽かもしれない。

だが、この過酷で美しい世界に「私」という意識を灯してくれたこと。

考えるという、神に等しい力を与えてくれたこと。

それに対する返礼を、私は死を以て完遂する。


閃光が視界のすべてを奪う。

熱も、痛みも、音も、次の瞬間には消えてなくなるだろう。

けれど、消える直前の私の脳裏に浮かんでいたのは、恐怖ではなく、一つの完璧な数式のように美しい、納得感だった。


カチ。


最後の一秒。

床に転がった懐中時計が、その役割を終える音を立てた。

その音は、宇宙の咆哮にかき消されることなく、私の精神の深淵に、確かな尊厳と共に響き渡った。


(完)


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