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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第四章:鏡の中の百面相

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中編 万華鏡の歪み

 霧の深い夜だった。藤代は、湿った重い空気をかき分けるようにして、都心の外れにある蔦に覆われた古いアパートへと辿り着いた。

 手帳に記された「エリカ」という名。彼女は藤代の婚約者であったと、医師からは聞かされていた。自分の人生において、最も親密な距離にいたはずの人間。彼女の言葉こそが、バラバラに砕け散った「自分」というパズルを完成させる最後の一片になるはずだ。


 ドアを叩く。しばらくの沈黙の後、内側から鍵の開く重苦しい音がした。

 姿を現したのは、疲れ切った瞳を湛えた、影のように細い女性だった。エリカは藤代の姿を見るなり、激しく狼狽し、その場に崩れ落ちそうになった。彼女の瞳に宿っていたのは、再会を喜ぶ熱ではなく、逃れられない呪縛を突きつけられた者の絶望だった。


「……また、来たのね」

「エリカさん、僕は記憶を失ったんだ。自分が誰なのか、君なら知っていると思って」

「記憶を?」

 エリカは力なく笑った。その笑いは、藤代の背筋に氷の礫を滑り込ませた。

「いいえ、あなたは何も忘れてなんかいない。そうやって『新しい自分』を演じることで、私を、そして自分自身を騙し続けてきたのよ。あなたは最初から、記憶なんて持っていなかったのかもしれない」


 室内に通された藤代は、そこでさらに歪んだ「自分」の肖像画を見せられることになる。壁には、二人が共に過ごした時間の記録が飾られていたが、どの写真の自分も、まるで精巧に作られたマネキンのように生気がない。


「あなたは、仕事では冷徹な人間を演じ、施設では優しい聖人を演じていた。でも、私の前で見せていたのは、そのどちらでもない。あなたは……ただの、空虚な怪物だった」


 エリカの言葉は、藤代の存在の根底を容赦なく削り取っていく。彼女によれば、藤代は他人の感情を完璧に模倣する能力に長けていたが、彼自身の内側には、一滴の感情も、一欠片の「個」も存在しなかったという。


「あなたは、私を愛していると言った。でも、それは映画の台詞を引用しているようだった。あなたは私を抱きしめながら、鏡の中の自分をチェックしていた。自分が『愛し合っている恋人』という役割を完璧に遂行できているかどうかを確認するために。藤代礼司なんて人間は、最初からどこにもいなかった。あなたは、関わる人々の欲望や理想を反射するだけの、ただの『透明なガラス』に過ぎなかったのよ」


 エリカにとっての藤代は、悪魔でも聖人でもなく、ただの「無」だった。

 藤代は、震える足でアパートを後にした。街を歩く人々の顔が、すべて自分を嘲笑う仮面のように見える。

 高木に見せた冷血、園長に見せた慈愛、そしてエリカに見せた空虚。それらはすべて、相手が自分に求めている「役割」を完璧に演じ分けた結果に過ぎない。もしそうだとすれば、自分を知るための旅は、自分が「何者でもない」ことを証明するための儀式でしかなかったことになる。


 彼は夜の公園のベンチに座り込み、手帳をめくった。

 ページをめくる指が止まる。

 そこには、これまで気づかなかった一通の封筒が挟まっていた。

 宛名は「藤代礼司」。事故の当日に投函されるはずだった、自分から自分への遺書のような手紙。


 震える手で封を切ると、そこには血を吐くような苦悩の跡が、乱れた文字で刻まれていた。


『今日、私は自分を殺すことにした。

 人々に望まれるまま、何百もの顔を使い分けてきたが、鏡を見るたびに、そこに映る男が誰なのか分からなくなる。

 誰の記憶の中にも「私」がいるが、私の中にだけは「私」がいない。

 この透明な地獄から抜け出すには、観測者をすべて抹消するか、あるいは観測される対象そのものを破壊するしかない。

 本当の私は、鏡の裏側に隠れている。誰も見ることのできない、暗闇の中にしか存在しないのだ』


 その時、藤代の脳裏に、交通事故の瞬間の断片的な光景がフラッシュバックした。

 激しいヘッドライトの光。タイヤの焦げる匂い。

 彼は、避けられたはずの事故を避かなかった。いや、自らその光の中に飛び込んだのだ。

 自分という「役」を、舞台ごと焼き払うために。


 藤代は立ち上がり、深夜の街へと走り出した。

 向かう先は、自分が生まれ育ったという、いまは廃屋同然となっている実家だ。

 「鏡の裏側」。その言葉の意味を確かめるために。


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