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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第四章:鏡の中の百面相

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10/21

前編 空白の肖像

アリストテレス「自分を知ることは、すべての知恵の始まりである」

 「自分を知ることは、すべての知恵の始まりである」

 古代ギリシャの哲学者アリストテレスが遺したこの至言は、一見すると自己研鑽を促す光り輝く道標のように思える。しかし、その言葉の裏側には、底知れぬ深淵が口を開けている。もし、知恵の土台となるべき「自分」という存在そのものが、霧のように実体を失い、あるいは何層もの嘘で塗り固められた虚像であったとしたら、人間は知恵の入り口に立つどころか、狂気という名の迷宮に永遠に閉じ込められることになるのではないか。


 男が目を覚ましたとき、世界は暴力的なまでの無機質な白に塗りつぶされていた。

 視界の端で規則的なリズムを刻む心拍計の電子音、鼻腔を突くツンとした消毒液の匂い、そして頬に触れるシーツの、不自然なほど清潔で硬い質感。それらすべてが、彼にとっては「初めて体験する異世界」の出来事のように感じられた。

 彼はゆっくりと上体を起こし、傍らの洗面台にある鏡に目を向けた。そこに映っていたのは、深い彫りと、どこか冷徹さを湛えた瞳を持つ、見知らぬ男の顔だった。


「……これが、僕なのか?」


 声を出してみる。その震える低音さえも、自分の喉から出たものとは思えない。交通事故による全健忘。身体的な外傷は奇跡的に軽微だったが、彼の脳というハードディスクからは、自分が何者であり、どのような人生を歩み、誰を憎み、誰を愛してきたのかという「物語」が、一滴の残響もなく消去されていた。


「あなたの氏名は『藤代ふじしろ 礼司』。三十八歳。経営コンサルタントとして、業界では名の知れた人物です」


 白衣を着た医師は、感情の欠落した声で淡々と告げた。手渡された運転免許証には、鏡の中の男と同じ、冷たい笑みを浮かべた自分の顔がある。住所、生年月日、記号としての「藤代」を証明するデータは揃っている。だが、その名前をどれほど心の中で反芻しても、それは他人の背番号を眺めているような、虚しい乖離感を生むだけだった。

 退院した藤代は、残された唯一の手がかりであるスマートフォンの連絡帳と、事故の際にかろうじて手元に残っていたという一冊の黒い革手帳を頼りに、自分の「欠片」を拾い集める旅に出ることにした。


 最初に訪ねたのは、連絡帳の最上部にあった、かつての共同経営者だという男、高木だった。

 東京の心臓部、重厚なガラスと鋼鉄で構成されたオフィスビルの最上階。高木は藤代の顔を見るなり、深い溜息をつき、高価な革椅子に深く沈み込んだ。その瞳には、かつての友人を案じる光などは微塵もなく、ただ隠しきれない棘と、剥き出しの畏怖が混じり合っていた。


「藤代。……記憶をなくしたなんて、最高の冗談だな。それとも、自分がこれまで仕掛けてきた数々の『処刑』への罪悪感に耐えきれず、脳が自己防衛に走ったのか?」

「……処刑?」

「とぼけるな。お前は業界で『執行人』と呼ばれていた悪魔だ。冷徹なまでの合理性で、再建不能な企業を切り刻み、数千人の社員を路頭に迷わせながら、自分は涼しい顔で巨額の報酬を手にする。お前は他人の感情を『ノイズ』として切り捨てられる、完璧なサイボーグだったんだよ。お前にとって、人間はただの数字に過ぎなかった」


 高木が語る「藤代」は、氷のような冷血漢であり、孤独な成功者だった。高木の言葉を聞くうちに、藤代は自分の指先が、見えない返り血で汚れているような激しい生理的嫌悪に襲われた。


 しかし、次に向かった場所で、その「藤代像」は音を立てて崩れ去ることになる。

 手帳の隅に、丁寧な筆致で記されていた郊外の養護施設。そこを訪ねると、応対した老園長は、藤代の顔を見るなり感極まった様子でその手を取った。


「藤代さん、よくぞご無事で……。あなたがいなければ、この施設はとうの昔に潰れていました。匿名で多額の寄付を続け、月に一度は必ず子供たちの顔を見に来てくださった。あなたほど、心優しく、社会の不条理を一身に背負おうとしていた方はおりません。あなたは子供たちにとって、名もなき守護聖人なのですよ」


 園長が語る「藤代」は、慈愛に満ちた隠者だった。見返りを一切求めず、自らの素性を隠してまでも弱者を救おうとする聖人。

 藤代は混乱した。冷血な執行人と、慈悲深い守護者。これほどまでに対極にある人格が、一人の男の中に同居できるものだろうか。高木の語る自分と、園長の語る自分。その間を繋ぐ論理的な糸口は、どこを探しても見つからない。


 藤代は、無人の自宅アパートに戻り、カーテンを閉め切った暗闇の中で再び鏡の前に立った。

 そこに映っているのは、聖人の顔でも、悪魔の顔でもない。ただの、中身を失った空っぽの肉体だ。


「僕は……一体、どっちなんだ? どちらが本当の僕で、どちらが演じられた嘘なんだ?」


 答えを求めるように、彼は手帳の最後のページに記された、ある女性の住所へと向かう。

 「エリカ」。

 その名前の横には、小さな押し花が添えられていた。

 彼女なら、本当の自分を、その核にある剥き出しの真実を知っているはずだった。だが、藤代はまだ知らなかった。その出会いこそが、自分という存在をさらに深い奈落へと突き落とすことになるということを。

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