第25話 第四話 エピローグ『サトウは数字の意味を知る』
サトウは数字の意味を知る
エピローグ
経理部の朝は静かだった。
コピー機の音だけが、フロアに淡く響いていた。
サトウは、内示を机の上に置いた。
「無任所調査役・管理職待遇」
その文字を、冷たい目で見つめた。
ラビットが、飄々とした顔で近づいた。
「……サトウ君。
CEOの判断だ。
悪い話じゃない」
サトウは、短く答えた。
「悪い話です」
ラビットの笑みが、わずかに固まった。
サトウは続けた。
「私は課長が戻られるまで、経理部を守ると決めています。
私は、彼女を待ち続けます」
ラビットは、言葉を失った。
誰も、サトウの“ぶれなさ”を動かすことはできなかった。
サトウは内示をラビットに押し返した。
「私は経理部の係長です。
それ以外の処遇は入りません」
ラビットは、深く息を吐いた。
「……君は、本当に面倒くさい男だよ」
サトウは何も言わなかった。
ただ、机の資料を整えた。
その時、経理部のドアが開いた。
黒川が立っていた。
営業部長の顔ではなく、
“ひとりの男”の顔だった。
黒川は、サトウを見て、
短く、静かに言った。
「サトウ、今回も世話になったな」
ラビットが驚いたように黒川を見る。
サトウは、黒川を見た。
その目は、いつもの冷たさのままだった。
黒川は、わずかに笑った。
「中林の件、礼を言う。
お前が動かなかったら、あいつは戻らなかった」
黒川は一息入れた。
「ところで、うちの主任たちが、稟議書を決裁システムに登録したんだが、
誤字、脱字、数字の誤りはともかく、文章の”テニヲハ”で経理から差し戻されている。
なんとかならんか?」
ラピッドがサトウを見るが、サトウは否定した。
「私では、ありません」
「はい!それ私です」
めぐみが、立ち上がり三人のそばにくる。
「最近、営業部からの稟議書が、日本語になっていません。
稟議書をなんだと思っているんですか!」
三人は、めぐみが手に持った稟議書のコピーを確認する。
確かに、下手な文だが意味は伝わらなくはない。
「だから、私がわざわざ添削して差し戻しました」
三人は、めぐみが添付した赤文字で訂正した文と見比べる。
黒川が頷く。
「確かに、君の言う通りだ。これは、すまない。
私の指導が足りなかった。すぐに訂正して決裁システムに再起案させるよ」
「いえ、私も言い過ぎました。よろしくお願いします」
めぐみが、一礼して自席に戻った。
黒川が小声で、ラビットとサトウに囁く。
「彼女が噂で聞く、”経理の村正か?」
「聞こえてますよ!」
自席からめぐみが答える。
「これからも、容赦しませんからね。バッタ、バッタと切り捨てますよ!
私はサトウさんの一番弟子ですからね。
覚えておいてくださいね」
ラビットが、驚く黒川に慰めるように告げた。
「めぐみ君は、稟議書の処理件数は経理部でNo.1だ。本人は、ムラマサのあだ名を、美咲君だったかな、営業部の課長代理から聞かされたらしいね。それまでは、あだ名もその由来も知らなかった。
それから、余計に厳しくなったのかな?
めぐみ君は数字を細かく見るんだ。
サトウのように”数字の意味を知る”までには、まだまだだがね」
CFOの執務室
フェイス・フォスターは、自席で辞令書を見つめていた。
「無任所調査役・管理職待遇」
その文字は、静かに彼女の頭を悩ませていた。
ラビットからの報告は、短く、重かった。
「……サトウ君、辞令の内示を拒否しました。
理由は、療養中の女性課長の席を守るためだそうです」
フェイスは、深く息を吐いた。
「……あの男は、どうしてこう……」
ラビットは肩をすくめた。
「ぶれないんですよ。
良くも悪くも」
フェイスは辞令書を閉じた。
その瞬間、デスクの電話が鳴った。
受話器を取ると、
CEOの落ち着いた声が聞こえた。
しばらく話した後、
「フェイス。
なんだか、悩みがあるような声だな」
フェイスは、簡潔に状況を説明した。
サトウの任用拒否。
理由。
ラビットの困惑。
人事部長の戸惑い。
会社の判断の難しさ。
CEOは、少しだけ沈黙した。
そして、乾いた声で言った。
「……サトウは変わらないな。
あいつの好きにさせてやれ」
フェイスは目を閉じた。
その言葉は、予想外ではなかった。
だが、重かった。
「……承知しました」
通話が切れた。
フェイスは、静かに受話器を置いた。
その動きは、ゆっくりで、確かだった。
ラビットが、そっとフェイスを見た。
「……どうします?」
フェイスは、わずかに笑った。
「どうもしないわ。
サトウは、サトウのままでいい。
それが一番、会社のためになる」
窓際の観葉植物が、弱い光を受けて揺れた。
物語は、静かに幕を閉じた。
あとがき
今回のエピソードに登場する会社の人事・決裁手続きや、社内用語について解説します。
内示
解説: 昇進や異動、新しい役職への就任などの人事決定を、公に発表(発令)する前に、本人や関係者にこっそり事前に伝えることです。
中学生でもわかる例え: 「来期の部活のキャプテン指名を、全校集会で発表する前に、顧問の先生が職員室で本人だけに『次はお前がキャプテンだ』と教えておくこと」です。
2.無任所調査役・管理職待遇(むにんしょちょうさやく・かんりしょくたいぐう)
解説: 部下を率いて日常業務を管理する特定の部署(課など)を持たない代わりに、全社的な特別な調査や課題解決を行う専門ポスト(無任所調査役)であり、お給料や格付けは管理職と同等(管理職待遇)に扱うことです。
中学生でもわかる例え: 「特定のクラスの担任や部活の顧問は持たないけれど、校長先生直属の『特別トラブル解決班』として先生たちと同じ権限と給料が与えられるポジション」です。
稟議書
解説: 会社でお金を使ったり新しい取り組みを始めたりする際に、関係する上司や部署から許可をもらうために作成・提出する決裁用の申請書類のことです。
中学生でもわかる例え: 「部活で新しい用具を買うために、必要な金額や理由を書いて、顧問の先生や生徒会、教頭先生にハンコをもらうための『購入許可申請書』」です。
テニヲハ(てにをは)
解説: 日本語の助詞(「て」「に」「を」「は」など)や、言葉と言葉をつなぐ細かい文法の表記のことです。文章の意味やニュアンスを正しく伝えるために非常に重要です。
中学生でもわかる例え: 「『私“が”行く』と『私“も”行く』のように、一文字違うだけで文章の意味が大きく変わってしまう『助詞(文法の実)の言葉遣い』」のことです。
差し戻し(さしもどし)
解説: 提出された書類や申請に書き間違いや不備(誤字脱字、計算違いなど)があった場合、承認せずに作成者の元へ戻して再修正を命じることです。
中学生でもわかる例え: 「提出した宿題に名前の書き忘れや計算ミスがあって、先生から『直してもう一度出し直しなさい』とプリントを返却されること」です。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。
今回で「サトウは数字の意味を知る」は、ひとまず完結です。
読後の感想等、いただければ望外の喜びです。
よろしくお願いします。




